
223回目の今日お届けしたのは、「高野寛&田島貴男/Winter's Tale~冬物語~」でした。
「僕が、昔から憧れていたのは、ティン・パン・アレイやYMOといった、ソロミュージシャンが集まって生まれたグループでした。グループとしての活動だけじゃなく、メンバーそれぞれのソロアルバムに、お互いがゲスト参加したりする、ミュージシャン同士の音楽的な繋がりに憧れていたんです。自分がプロミュージシャンになってから、その思いはより強くなって、僕もいつかは、その境地に辿り着きたいと思い続けていたんです」。
高野寛さんは、これまで様々なミュージシャンとセッションをしてきた理由について、こう振り返ります。
1964年12月、静岡県三島市に生まれた高野寛は、13歳の時に、兄の影響でギターを弾き始め、1980年に地元の高校に入学後は、友人達とバンドを結成。YMO、ザ・ビートルズ、トッド・ラングレンなど、幅広い音楽を聴き、それらを参考にして曲を作り、その曲を、自宅で録音し始めるようになります。
1986年、高野寛は、大阪芸術大学芸術学部に在学中に、元YMOの高橋幸宏、ムーンライダースの鈴木慶一の二人が主催した「究極のバンド」オーディションに、ギタリスト志望で応募し、見事合格。翌1987年に、高橋と鈴木が作った音楽ユニット「The Beatniks」が行ったライブツアーに、ギタリストして参加します。
「幸宏さんと、慶一さんが主催した、「究極のバンド」オーディションの狙いは、バンドそれぞれのパートの合格者を集めて、新たなバンドを作る事だったんですが、デモテープまで作った段階で、メンバーの考え方の違いからバンド構想は空中分解し、立ち消えになってしまったんです。ただ、僕は、幸宏さんに、ギタリストとしての才能を評価してもらって、The Beatniksのライブツアーに参加する事が決まったんです」。
憧れのミュージシャンのひとりもでもあった高橋幸宏の誘いで、ギタリストとして、The Beatniksのツアーに参加した高野寛でしたが、その一方で、高橋幸宏から、ある提案を受けます。
「僕がオーディション用に作った曲を聴いた、幸宏さんから、"シンガーとして、自分で歌ってみれば"と言れたんです。全く予期していなかった、幸宏さんの言葉に、僕は、自分が歌う姿をイメージできず、最初は戸惑いを感じたんですが、最終的には、思い切ってチャレンジする事にしたんです」。
こうして、高野寛は、シンガーソングライターとしてデビューする事を決意。1988年10月に、1stシングル「See You Again」をリリースするのでした。
1988年10月、高野寛は、高橋幸宏がプロデュースを手掛けた1stシングル「See You Again」と、アルバム『hullo hulloa』をリリース。新人離れした、その非凡なポップ・センスは、音楽関係者の高い評価を集めます。
翌1989年7月、高野寛は、初めてセルフプロデュースで作った2ndアルバム『RING』をリリースした後に、翌1990年に発売予定の3rdアルバムを、ロック・ミュージシャンのトッド・ラングレンにプロデュースしてもらうために、ニューヨークへ渡ります。
「1stアルバムを作り終えた直後に、僕が所属していたレコード会社に、トット・ラングレン側から、"日本人アーティストをプロデュースしたい"、というオファーがあったんです。僕が、トッド・ラングレンの大ファンだったのを知っていた担当ディレクターが、完成したばかりの1stアルバムの音源を、トッド側に送って、あっという間にプロデュースしてもらう話が決まったんです。その時、既に2ndアルバムの制作は始まっていたので、2ndアルバムはセルフプロデュースで作って、その次の3rdアルバムをトッドにお願いする事にしたんです」。
こうして、トッド・ラングレンがプロデュースを手掛けた高野寛の3rdアルバム『CUE』は、1990年3月にリリースされ、そのアルバムに先駆けて、4枚目のシングル「虹の都へ」が2月にリリースされるのでした。
1990年2月にリリースされた、高野寛の4枚目のシングル「虹の都へ」は、スポーツメーカーMIZUNOの、スキーウェアのCMソングに起用され、セールスチャート最高位2位、約50万枚の売上を記録し、高野寛にとって初めてのヒットナンバーとなります。
「トッド・ラングレンから、色々な事を学んだ中でも、特に印象に残っているのが、 "あらゆるプロデュースの中でも、セルフプロデュースが一番難しい"、という言葉です。アマチュア時代から自宅録音を始め、セルフプロデュースを当たり前のように思っていた僕の自信は、簡単に打ちのめされました。他人の事をあれこれ言う事は簡単だけど、自分を客観的に見るのは、本当に難しいと思いますし、プロデュースにおいて客観性が重要なことは、今でも、身に沁みて実感しています。」。
1992年、高野寛は、5枚目のアルバム『th@nks』の制作を、ゲストミュージシャンに忌野清志郎、大貫妙子、高橋幸宏らを迎えて行います。
「憧れの存在でもあった超一流ミュージシャンの方々と実際にアルバム制作が始まった時、僕は、とにかく緊張していたんですが、先輩方は、時にはユーモアを交えながら、まずはコラボレーションを楽しむことを教えてくれたんです。仕事への集中力、多彩なアイディア、豊富な知識、とにかく、たくさんのことを学ぶことができました」。
こうして、高野寛は、トッド・ラングレンからプロデュースの難しさを、憧れの先輩ミュージシャン達からは、アーティスト同士のコラボレーションの有り方について学んでいきます。そんな高野寛の下へ、1992年の夏、所属レコード会社の東芝EMIから、ひとつの提案がなされます。
「それは、僕の音楽仲間でもあった、オリジナル・ラブの田島貴男と一緒に曲を作って欲しいという提案でした。僕が彼と知り合ったのは、以前、田島貴男がオリジナル・ラブと、フリッパーズ・ギターの前身バンド「ロリポップ・ソニック」の、二つのバンドを掛け持ちしていた頃で、渋谷のライブハウスで彼らのライブを観た後、音楽的に意気投合して、仲良くなっていたんです。その田島君が、オリジナル・ラブとして、僕と同じ東芝EMIから1991年にデビューして、この時、一緒に曲を作る事になったんです。」
高野寛は、メロディ作りを、田島貴男に任せ、高野自身は歌詞を書くことを決めます。
「曲作りの作業は、僕のスタジオに、田島君がソウルの名曲が入ったカセットテープを持ってきて、そのカセットテープを聴くところから始まったんです。とにかく田島君が、アイディアを次々と出してくるので、どうやってまとめれば良いのか、苦労しました。完成したメロディに、僕は歌詞を書いたんですが、アルバム『th@nks』を作る時に、ミュージシャンの先輩方から学んだ、コラボレーションを楽しむことを大切に、歌詞にオリジナル・ラブの1stアルバムのタイトルを入れてみたり、CDジャケットのビジュアルにも、フリッパーズ・ギターのパロディを加えてみたりと、田島君が楽しんでくれるようなアイディアを詰め込んだんです」。
こうして、1992年11月、サッポロビール「冬物語」のCMソングとして起用された、高野寛&田島貴男の「Winter's Tale~冬物語~」は、リリースされるのでした。
1992年11月にリリースされた、高野寛&田島貴男のシングル「Winter's Tale~冬物語~」。
「スタジオで、田島君と一緒に盛り上がったことは、今でもハッキリと覚えています。二人で思いついた事を、物凄いスピードで形にして作ったこの曲は、曲を作る作業の中でも、レコーディング作業でも、悩んだ記憶がありません。そんな形で曲が完成する事は滅多になく、音楽の神様からプレゼントを貰ったような気分で作った曲です。トッド・ラングレン、そしてミュージシャンの先輩方から学んだ、プロデュース、コラボレーションの極意が活かされた感じです。」最後に、高野寛さんは、こう振り返ってくれました。
憧れのミュージシャンから学んだポップスの魔法が、J-POP、冬の名曲を生みだした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.テクノポリス/YMO
M2.See You Again/高野寛
M3.虹の都へ/高野寛
M4.Winter's Tale~冬物語~/高野寛