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      <title>食卓ON楽</title>
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      <language>ja</language>
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         <title>VOL.224「いわし丸干」</title>
         <description>フレスタが、品質、おいしさ、安心、安全などにこだわった商品を、自信をもっておすすめする
Bimi Smileブランド。
きょうは、水揚げされたばかりのいわしを、海水から作った塩「赤穂の天塩」を入れた塩水に
漬けて作った干物、Bimi Smile「いわし丸干」をご紹介します。

Bimi Smile「いわし丸干」は、島根半島の北側、日本海に面し、山陰屈指のイワシの名産地
としても知られる、島根県・恵曇港で水揚げされた、新鮮ないわしから作られます。季節を問
わず、ほぼ一年中水揚げされるいわしを、港のすぐ目の前にある加工場で、さっと水洗いした後、
そのまま塩水に漬けこみます。
この塩水には、安全で良質な深海の海水をくみ上げて作った赤穂の天塩が使われており、
これによって、素材の旨みを引き出し、味わい深く仕上げることができるのです。数時間程度
漬け込んだいわしを、その後、機械で18時間程度乾燥させると、Bimi Smile「いわし丸干」の
できあがりです。

ビタミンを豊富に含んだいわし丸干しは、ほど良い塩加減と、サクッとした歯触りで、酒の肴は
もちろん、炊きたてのご飯のおかずにもピッタリです。

家庭用の網焼き器か、クッキングシートを敷いたフライパンの上で、焦げ目がつくまでこんがり
焼いてください。そのままかぶりついて頂いても結構ですが、
いわし独特の臭みが苦手な方は、お好みでレモン果汁を搾ると、さっぱりといただけますよ。

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         <category>今週のBimi Smile</category>
         <pubDate>Fri, 03 Feb 2012 16:25:59 +0900</pubDate>
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         <title>「Choo Choo TRAIN／ZOO」</title>
         <description>227回目の今日お届けしたのは、「ZOO／Choo Choo TRAIN」でした。

「僕は、大学在学中の1986年頃から、大学の先輩でもある、シンガーソングライターの池田聡さんのライブに、コーラスとして参加して、そこで出会った、音楽プロデューサーの工藤史人さんに、曲作りのイロハを教えてもらったんです。その後、僕は、作曲家としても仕事を始め、1989年か1990年だった思いますが、フォーライフレコードのスタッフからの依頼で、ZOOの1stシングルを作る事になったんです」
ZOOのデビュー直後の曲を手掛けていた、シンガーソングライターの中西圭三さんは、こう語ります。

1989年6月、テレビ朝日でスタートしたダンス番組『DADA L.M.D』に参加したダンサー8人が、ダンスユニット「L.M.Dダンサー」を結成。その年の10月に、彼らはユニット名を「ZOO」と改名し、翌1990年1月に、ダンサー1名を加え9人となります。そして、ZOOは、4月から新たに『GROOVIN SCENE DADA』としてリニューアルした番組のオープニング・テーマを、歌う事になるのでした。

「『GROOVIN SCENE DADA』は、1970年代に、アメリカの音楽シーンで一世を風靡したダンス番組、『ソウルトレイン』をイメージした番組でした。当時は、日本でも、バラエティ番組から生まれたダンスコンテスト「ダンス甲子園」が人気を集め、POPSから派生したダンス・ミュージックが、脚光を集めていた時期でした。僕も曲作りの中で、ダンス・ミュージックを意識し始めていて、そういった意味では、曲を作るタイミング的は恵まれていたと思います。」


「ただ、当時のJ-POPの中では、ダンス・ミュージックは、まだまだアンダーグラウンドなイメージが強く、代表的なアーティストだった久保田利伸さん、バブルガム・ブラザーズ、m.c.A・Tが作っていた曲も、ファンキーなリズム感を活かした曲がほとんどでした。僕は、自分がダンス・ミュージックを作るなら、彼らと同じ路線で作るのではなく、番組が&quot;ソウルトレイン&quot;をイメージするなら、&quot;フィラデルフィア・ソウル&quot;を参考にした方がいいのでないかと考えたんです。 &quot;フィラデルフィア・ソウル&quot;は、ストリングスやブラス・アンサンブルを使っているのが特長で、僕は、作曲を学んだ工藤さんから、そのスタイルを教えてもらったんです。僕は、弦の響きを使った曲が大好きだったこともあって、&quot;フィラデルフィア・ソウル&quot;が好きになり、ZOOの曲を作る事が決まった時、そのイメージで、曲を作ることを思いついたんです」。

こうして、1990年5月、中西圭三が作った、ZOOの1stシングル『Careless Dance』は、リリースされるのでした。

1990年5月、中西圭三が作った、ZOOの１stシングル「Careless Dance』は、セールスチャート最高位64位、約1万6千万の売上を記録します。
「リズム感を大切に作った、1stシングル「Careless Dance」は、『GROOVIN SCENE DADA』以外にも、同じテレビ朝日の音楽バラエティ番組『華麗にAh!so』のオープニング・テーマ曲としても使われました。しかし、二つの番組のオープニング・テーマ曲に使われたにも関わらず、セールスは今ひとつ伸び悩んだんです」

1990年冬、フォーライフレコードのスタッフは、ZOOの2ndシングルを、当時、、ZOOのライバル的な存在でもあったLLブラザーズの音楽プロデュースを手掛けていた羽田一郎に依頼します。
「まだ実績が無かった僕や、当時、一緒に曲を作っていた小西貴雄にとって、実績のある羽田さんは、当然、意識する存在でした。結果的に、2ndシングルを羽田さんが作る事が決まったことに対して、悔しかったけど、僕らにとっては、その次の曲を作るための大きな刺激となったんです」。

1991年2月、羽田一郎が手掛けた、ZOOの2ndシングル「GIVEN」はリリースされますが、セールスチャート最高位56位、約1万6千枚の売上におわり、中西圭三の下へ、7月に発売予定の、3枚目のシングルを作るチャンスが再び巡ってきます。
「ZOOのシングルを作るチャンスが、再び巡ってきた時、とにかく僕は、何か聴く人にインパクトを与える曲を作りたいと考え、当時、日本のダンスミュージックシーンの中でも、MCハマーと並んで大きくクローズアップされていた、ボビー・ブラウンを意識した、ポップで楽しく、踊れる曲を作ることを、漠然としてですが、考えたんです」

1991年7月、再び中西圭三が作った、ZOOの3rdシングル「Native」は、約3万2千枚の売上を記録し、それまでの2作と比べると、売上も、少しながら増加します。
「特にコンセプトとして狙った訳ではないんですが、曲を仕上げていくにつれて、曲にアウトドア感とヒップな感じが、ほど良く混ざり合って、セールス的には今ひとつでしたが、自分の中では、曲作りに対する手ごたえとしては残ったんです」。中西圭三さんは、この曲について、こう語ります。
そして、この3rdシングルを聴いた、JR東日本の広報担当者から、ZOO、そして中西圭三の下へ、その年の冬のJR東日本スキーキャンペーンソング提供の話が届きます。
「1980年代後半から、全国的にスキーブームが到来していて、若者は、冬になると、北海道や、新潟県の苗場や湯沢町へスキーに出掛けるようになっていました。そんな時代、JR東日本も、上越新幹線を使って、自社で運営を始めた「ガーラ湯沢スキー場」への集客を目的に、「JR東日本SKI SKIキャンペーン」を展開する事になり、そのキャンペーンソングの話を、僕とZOOの下へ持って来てくれたんです」。

「JR東日本側からは、英語で蒸気機関車の音を表現する擬音「Choo Choo 」と言う言葉を歌詞に使って、リズム感のある、ダンス・ミュージックを作って欲しいと言われました。
僕は、その「Choo Choo」と言う言葉から、イメージを膨らませ、時代が駆け抜けていくようなリズム感やテンポを持った曲を作っていったんです。さらに、当時、一緒に曲を作っていた小西貴雄が、アメリカのブラックミュージック・アーティスト「D-TRAIN」の曲「Keep On」をサンプリングして、イントロに使うことを提案してくれたんです」。中西圭三さんは当時をこう振り返ります。

出来上がったメロディに、1stシングルから、中西さんとコンビで曲を作ってきた、作詞家の佐藤ありすさんが、歌詞を付け、曲は完成します。

こうして、「雪男。雪女」をテーマに、JR東日本が始めた、「SKI SKIキャンペーン」CMソング、ZOOの4枚目のシングル「Choo Choo TRAIN」は、1991年11月にリリースされるのでした。

ZOOの4枚目のシングル「Choo Choo TRAIN」は、リリースに先駆け10月からCMがOAされると、話題を集め、11月にリリースされると、一気にブレイクし、セールスチャート最高位3位、約105万枚の売上を記録します。
「リリースから12年後の2003年、ZOOのオリジナルメンバーの一人でもあったHIROが、彼がリーダーを務めるEXILEの曲として改めてリリースして、今では、EXILEのライブでも欠かせない曲となっています。オリジナルメンバーのHIROが、立場が変わっても、この曲をリスペクトし、歌い続けくれている事に感謝しています。と同時に、これからも歌い続けて欲しいと願っています」
最後に、中西圭三さんは、こう語ってくれました。

日本のダンス・ミュージックがJ-POPのカテゴリーのひとつとして認知されるキッカケとなった、
J-POPダンスナンバーの名曲が生まれた瞬間でした。

今日ＯＡした曲目
Ｍ１．ソウルトレインのテーマ／MFSB
Ｍ２．Careless Dance／ZOO
Ｍ３．Native／ZOO
Ｍ４．Choo Choo TRAIN／ZOO</description>
         <link>http://hfmweb.jp/blog/shokutaku/2012/02/198619891990zoo1st_zoo_19896da.html</link>
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         <category>PICKUP SONG</category>
         <pubDate>Fri, 03 Feb 2012 16:25:46 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>VOL.223「沖美産直いちご」</title>
         <description>フレスタが、品質、おいしさ、安心、安全などにこだわった商品を、自信をもっておすすめするBimi Smileブランド。
きょうは、毎日、採れたてのイチゴが新鮮なうちに届く、Bimi Smile「沖美産直いちご」をご紹介します。

通常、イチゴは、摘み取ってから、店頭に並ぶまで２～３日ほどかかることから、粒の約７割程度が赤くなった段階で
早目に収穫し、出荷しています。しかし、摘み取った後、最適な温度で保存する、品質管理が難しく、時には熟し過ぎて、
出荷の途中段階で、イチゴの粒が潰れてしまうこともあります。
そこでフレスタでは、江田島市沖美町の農家と直接契約を結び、イチゴを収穫した翌日には、フレスタ各店舗の店頭
に並ぶ出荷システムを確立。これによって、粒のおよそ９割程度が赤くなるまで熟し、しっかりとした甘さを蓄えた完熟
イチゴを、一番美味しいタイミングで、食べて頂くことができるようになりました。

栽培している、イチゴの品種は、粒が大きく、完熟した時には、果肉の中まで赤くなるのが特徴の「紅ほっぺ」です。
甘みと酸味のバランスが良く、コクもあって、近年人気を集めている品種のひとつです。しっかり熟したイチゴですから、
まずは何もつけずにそのまま食べてみてください。フレッシュなイチゴの香りと甘みが、お口の中いっぱいに広がって
いくはずです。

Bimi Smile「沖美産直いちご」は、フレスタ各店舗の果物コーナーで販売中です。
少しずつ暖かくなり、ゆっくりと、春の足音が近づいてくる、これからの時期が、イチゴの出荷の最盛期。
真っ赤に熟したイチゴで、ひと足早い、春の息吹を感じてください。
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         <link>http://hfmweb.jp/blog/shokutaku/2012/01/post_271.html</link>
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         <category>今週のBimi Smile</category>
         <pubDate>Fri, 27 Jan 2012 16:25:37 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>「ゲレンデがとけるほど恋したい／広瀬香美」</title>
         <description>226回目の今日お届けしたのは、「広瀬香美／ゲレンデがとけるほど恋したい」でした。

「僕が彼女に初めて出会ったのは、1990年か1991年です。当時僕が所属していたセクションでは、フライング・キッズ、アン・ルイス、小泉今日子、嘉門達夫と、さまざまなアーティストを担当していたんですが、何か、新しい軸となる、アーティストを探していたんです。そんな時に、LA在住の日本人ギタリスト・平野T.J.ヨーイチさんから、彼女を紹介されたんです」。
デビュー前から、ビクターエンタテイメントで、広瀬香美の共同プロデューサーを務めている田村さんは、こう語ります。

1966年4月、福岡県太宰府市に生まれた広瀬香美は、地元の福岡女学院音楽科を卒業後、国立音楽大学作曲家へ進学。大学在学中にアメリカ・ロサンゼルスを旅行した際に観た、ボビー・ブラウンとベイビー・フェイスのライブをキッカケに、彼女はPOPSに夢中になっていきます。
1988年、広瀬香美は、国立音楽大学を卒業後、アメリカに音楽留学し、友人からマイケル・ジャクソンのボイス・トレーナー、セス・リッグスを紹介されて、ボーカルレッスンをスタート。その後、LAで知り合った日本人ギタリスト・平野T.J.ヨーイチを通じて、ビクターエンタテインメントの田村さんを紹介され、1991年からデモテープ作りを始めます。

「当時は、大黒摩季やZARDといった、TVにも出ない、ライブもやらない。ただ曲を作って、リリースするだけの、それまでのアーティストとは違った、新しい存在価値を持ったアーティストが続々とデビューし始めていた時期でした。そこで僕は、広瀬を彼女達と同じような存在に育ててみたいと考えたんです。そう言った意味では、彼女がデビューするタイミングは恵まれていたと思います。
ただ、広瀬は、バラードやスローテンポの曲作りは得意でしたが、アップテンポの曲作りが苦手だったんです。当時、音楽業界では、デビュー曲は、アップテンポの曲を選ぶのが常識だったので、僕は考え抜いた末に、彼女をシングルではなく、アルバムでデビューさせて、音楽ファンが彼女に対してどういった反応を示すのか、確かめることにしたんです」。
こうして、1992年7月、広瀬香美は、まずは1stアルバム『Bingo!』をリリース。半年後の12月に、1stシングル「愛があれば大丈夫」をリリースするのでした。

1992年12月、広瀬香美は、映画『病は気から　病院へ行こう2』の主題歌にも起用された、1stシングル「愛があれば大丈夫」をリリースします。
「広瀬は、1stアルバム『Bingo!』を作った頃、まだレコーディング経験や知識にも乏しく、ボーカリストとしても、実際のレコーディングの現場で、自分をどう表現すれば良いのか分かっていなかったんです。そこで僕は、1stアルバムでは、Hip-Hopを始め、多彩なジャンルの曲を、彼女に作って歌わせることにしたんです。とにかく、色々な曲を聴かせて、表現力を高めていったんです」。
田村さんは、広瀬香美に、メロディのコードや、テンポ感など曲作りについても具体的な指示を出して、彼女が苦手としていたアップテンポな曲作りに、一緒に取り組んでいきます。

1993年夏、広瀬香美の下へ、スポーツ用品専門店「アルペン」から、冬のキャンペーンソング提供の話が届きます。
「アルペンの担当者が、広瀬香美が、その年の3月にリリースした、2ndアルバム『GOOD LUCK!』を聴いて、彼女の音域の広い歌声と、ドラマティックで聞き心地の良いメロディを評価してくれ、オファーしてくれたんです。僕は、彼女に、CMソングだから、普段はあまり使わない、インパクトのある言葉を使ったほうがいいと、アドバイスしました」。田村さんは、当時をこう振り返ります。
広瀬香美は、彼女が、中学時代に、街中を歩いている時に浮かんだメロディを書き留めておいたメモを参考に、デモテープを制作。歌詞も、田村さんのアドバイスに従い、普段は使わない言葉を、わざとサビの部分に使って曲を作っていきます。

こうして、1993年12月、「アルペン」の冬のキャンペーンソングに起用された、広瀬香美の3rdシングル「ロマンスの神様」は、リリースされるのでした。

1993年12月にリリースされた、広瀬香美の3rdシングル「ロマンスの神様」は、セールスチャート最高位1位、約175万枚の売上を記録する大ヒット曲となります。
「&quot;ロマンスの神様&quot;という、普段は使わない言葉をサビに使った事に、当時、レコード会社内部には、数多くの反対意見があったんです。しかし、反対を押し切ってリリースし、結果的には大ヒットに繋がって、今までの常識に捉われてはいけない、という気持ちが、僕らに生まれてきたんです。サウンドやメロディの流行りは、時代によって変わるし、歌詞の傾向や言葉遣いもどんどん変わっていく。この曲で、広瀬香美のPOPSが完成したとは思わず、その後も、新しいサウンドをどんどん聴いて、取り入れられるものは、貪欲に取り入れていくことにしたんです」。
翌1994年、広瀬香美は再びアルペンの冬のキャンペーンソングに「幸せをつかみたい」を提供。さらにその翌年の1995年、広瀬香美の下に、3年連続となる、アルペンの冬のキャンペーンソング提供の話と、12月に公開予定の映画の主題歌提供の話が届きます。
「映画のスポンサーとなったのが、アルペンで、映画のタイトルを、そのまま曲のタイトルに使って、さらに、その曲を冬のキャンペーンソングに使う事が条件だったんです」田村さんは、当時を、こう振り返ります。

広瀬香美は、この曲のデモテープを、まずミディアムテンポで作った後、次にラフミックスの段階で、アップテンポに変えていきます。そして完成したメロディに、歌詞を書く段階で、田村さんは、歌詞にある仕掛けを作ります。
「僕は、映画の主題歌としてよりも、CMソングとして使われる事を優先的に考えたんです。15秒という限られた時間の中に、キャッチーな言葉を当てはめられれば、「ロマンスの神様」と同じように、曲を聴いた人達に強いインパクトを与える事ができるはず。広瀬も、僕の考えに共感してくれて、CMに使われる曲の部分に、&quot;絶好調 真冬の恋&quot;という、普段はあまり使わないフレーズを使ったんです」。
こうして、3年連続となるアルペンのCMソングで、映画「ゲレンデがとけるほど恋したい」の主題歌となった、広瀬香美の7枚目のシングル「ゲレンデがとけるほど恋したい」は、1995年12月にリリースされるのでした。

1995年12月にリリースされた、広瀬香美7枚目のシングル「ゲレンデがとけるほど恋したい」は、セールスチャート最高位6位、約39万枚の売上を記録します。
「CMソング1曲目に使われた「ロマンスの神様」から始まった、広瀬香美のPOPS路線も、この3作目の「ゲレンデがとけるほど恋したい」でひと区切りとなりました。それは、僕と彼女の中で、デビュー前の彼女の課題であった、&quot;アップテンポな曲への苦手意識&quot;がクリアされたと判断したからです。ですから、この曲は、シンガーソングライター広瀬香美の、第１段階の集大成とも言える曲です」最後に、田村さんは、こう振り返ってくれました。

CMソングという限られた条件の中でのソングライティングが、
アーティスト自信の課題もクリアさせた、J-POPの冬の定番ソングが生まれた瞬間でした。

今日ＯＡした曲目
Ｍ１．Every Little Step／ボビー・ブラウン
Ｍ２．愛があれば大丈夫／広瀬香美
Ｍ３．ロマンスの神様／広瀬香美
Ｍ４．ゲレンデがとけるほど恋したい／広瀬香美

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         <link>http://hfmweb.jp/blog/shokutaku/2012/01/post_272.html</link>
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         <category>PICKUP SONG</category>
         <pubDate>Fri, 27 Jan 2012 16:25:22 +0900</pubDate>
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         <title>「サーフ天国、スキー天国／松任谷由実」</title>
         <description>225回目の今日お届けしたのは、「松任谷由実／サーフ天国、スキー天国」でした。

「ユーミンが、アルバム『SURF&amp;SNOW』を作った原点は、1974年にリリースした、2ndアルバム『MISSLIM』に収録されていた曲「海を見ていた午後」にあると、僕は思っています。ユーミンが、海を眺めながらソーダ水を飲み、目の前の海を貨物船が通る情景を描いたこの曲は、その後の彼女が、海や山、季節の移ろい、そして季節にちなんだ行事などをテーマに曲を書く、出発点となった曲ではないでしょうか」。松任谷由実の制作ディレクターを務めた、下河辺さんは、こう語ります。

1972年7月、シングル「返事はいらない」でデビューした、シンガーソングライター荒井由実は、2ndアルバム『MISSLIM』に収録した曲「海を見ていた午後」で、目に映る物、風景を、歌詞に登場する主人公とシンクロさせて描く、ユーミンならではの手法を確立させます。

1976年秋、ユーミンは、音楽面で彼女をサポートしていた、松任谷正隆さんと結婚。家庭と歌手活動の両立の難しさから、一時は、シンガーとしては引退し、作家として活動することを考えます。しかし、時が経つにつれ、スタッフの説得、そして何により、彼女自身が、自らが曲を書いて、自らが歌うことへの強い思いを捨てきれず、1978年3月、ユーミンは、シンガーソングライターとして音楽シーンに復帰し、1年半ぶりとなるアルバム『紅雀』をリリース。8月には、神奈川県・葉山町の葉山マリーナで、後に「SURF&amp;SNOW　in逗子マリーナ」として生まれ変わっていく、初めてのリゾート・コンサート「葉山マリーナ　サマーリゾートコンサートVol.1」を開催します。

1978年8月、ユーミンは、日本のヨットの発祥地として、当時、流行に敏感な若者の間では、マリンリゾートのメッカとして賑わっていた神奈川県・葉山町の「葉山マリーナ」で、初めてのリゾート・コンサートを開催。ユーミンが、マリーナ内のプールに作られたステージで繰り広げたコンサートでは、水を使った演出や、アウトドアならではの開放感で、話題となります。
さらに、その年の11月にリリースした、アルバム『流線形&apos;80』には、「ロッヂで待つクリスマス」、「真冬のサーファー」と、スキーやサーフィンを題材にした曲を収録し、若者の間には、&quot;リゾート=ユーミン&quot;といったイメージが、少しずつ植えつけられていきます。

「当時は、ユーミン自身、サーフィンや、スキーの経験は無かったはずです。ただ、彼女は、当時の大学生が夢中になって読んでいた、『POPEYE』や『JJ』と言ったファッション雑誌を、若者達と同じように読んで、流行の流れをつかみ、夏＝海、海=サーフィン。もしくは、冬=雪、雪=スキーと言うイメージを膨らませて、彼女の強みでもあった情景描写溢れる、高いソングライティング能力で、リゾートにあこがれる若者たちの心をつかむ曲を作っていったんです」。下河辺さんは、当時を、こう振り返ります。

ユーミンは、彼女の曲の中でも、リゾートをテーマにした曲の人気が、高い事をメディアや、コンサートでも察知。1980年夏、その年の冬にリリースを予定していた次のアルバムを、リゾートをテーマに作る事を決め、その中の一曲として、2年前の1978年に、彼女が、歌手・川崎龍介に提供した曲を、歌詞、アレンジ、そしてタイトルを変えて収録する事を決めます。

「1976年、僕が、加山雄三さんの事務所「加山プロモーション」からデビューが決まって、所属レコード会社「ワーナー・ミュージック」のディレクターと打合せを進めていた時、当時、彼の音楽仲間だった、ユーミンを紹介されたんです。それで、ユーミンが、僕のために3曲ほど作ってくれる事が決まったんです」。
現在「RKK熊本放送」でラジオパーソナリティを務める、川崎龍介さんは、ユーミンから曲を提供された当時を、こう振り返ります。

「先にメロディができたんですが、歌詞を書く段階で、符割が上手くいかず、もう一度、メロディを直して、さらに、アレンジも、3回直して、制作開始から、半年以上が経って、ようやく曲が完成したんです」。
こうして、ユーミンが作詞・作曲した、川崎龍介の1stシングル「Summer Breeze」は、1978年6月にリリースされるのでした。

1978年6月にリリースされた、川崎龍介の1stシングル「Summer Breeze」。
「実は、1stシングルをリリースした直後に、担当ディレクターがレコード会社を退職してしまい、ユーミンが作ってくれた残りの2曲を、僕が歌うチャンスは無くなってしまいました。お蔵入りになった曲は、その後、ユーミン自身や、別のアーティストの曲になりました。この曲をリリースした2年後の1980年に、ユーミンがこの曲を、タイトルや歌詞を変えてリリースした事を知った時は、驚きました。余談ですが、事務所に印税収入の一部が入って、スタッフが喜んだ話を聞いています」。
川崎龍介さんは、当時をこう振り返ります。

さて、1980年の夏。ユーミンは、川崎龍介さんに提供した曲のリメイク曲を含んだ、リゾートをテーマにしたアルバムを作り始めます。
「彼女はアルバムを作る時、いつも最初は、３～4曲作ってスタジオに入ります。その後、アルバムテーマに沿って、スタジオの中で残りの曲を、メロディから作り始め、最後に歌詞を書いていくパターンが多いんです。この時も、同じでした。この曲については、既にメロディの原形があったので、一部を直した後、いかに歌詞をアルバムのテーマに沿って、書き直していく事がポイントでした。まず、曲のサビ部分&quot;サーフ天国、スキー天国&quot;という言葉を書いた後、次にユーミンがTVや雑誌で研究したスキーやサーフィンの情景を、言葉に置き換えていったんです」。当時、ユーミンを担当していた制作ディレクター下河辺さんは、こう振り返ります。

こうして、時代の一歩先を捉えた、ユーミンのアルバム『SURF&amp;SNOW』は、1980年12月にリリースされるのでした。

1980年12月にリリースされた、松任谷由実のアルバム『SURF&amp;SNOW』に収録された「サーフ天国、スキー天国」は、冬の定番曲として毎年、TVやラジオから流れ、1987年には映画『私をスキーに連れてって』の挿入歌としても起用されます。
「ユーミンは、アルバム『SURF&amp;SNOW』をリリースした翌年の1981年3月に、リゾート・コンサートのウィンターバージョン「SURF&amp;SNOW　in 苗場」を初めて開催します。&quot;スキーの後に楽しめるコンサートを&quot;というコンセプトで始まったこのコンサートは、その後、苗場の冬には欠かせない、イベントへと成長し、ユーミンには、&quot;冬の女王&quot;と言う名のニックネームも付けられました。時代を先取りする感性に優れたユーミンの音楽は、このアルバムをキッカケに、若者たちのデートには欠かせない音楽になったと言っても過言ではないでしょう」。
最後に、下河辺さんは、こう振り返ってくれました。

若者の流行を敏感にキャッチし、歌で表現した、J-POPの冬の定番ソングが生まれた瞬間でした。

今日ＯＡした曲目
Ｍ１．海を見ていた午後／荒井由実
Ｍ２．ロッヂで待つクリスマス／松任谷由実
Ｍ３．Summer Breeze／川崎龍介
Ｍ４．サーフ天国、スキー天国／松任谷由実
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         <link>http://hfmweb.jp/blog/shokutaku/2012/01/surfsnow19742ndmisslim_197272n.html</link>
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         <category>PICKUP SONG</category>
         <pubDate>Fri, 20 Jan 2012 16:25:30 +0900</pubDate>
      </item>
      
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         <title>VOL.222「いちごジャム・ブルーベリージャム・マンゴージャム・オレンジジャム」</title>
         <description><![CDATA[フレスタが、品質、おいしさ、安心、安全などにこだわった商品を、自信をもっておすすめする
Bimi Smileブランド。
きょうは、原料となる果物の粒々感や、ジューシーさなど、果物が持っている本来の美味しさを
大切にして作ったジャム、Bimi Smile「いちごジャム・ブルーベリージャム・マンゴージャム・
オレンジジャム」の4種類をご紹介します。

この4種類のジャムは、フルーツ栽培が盛んな山形県の加工業者、セゾンファクトリーとフレスタが、
共同開発した商品です。ジャムの原料となる、いちご、ブルーベリー、マンゴー、オレンジは、それぞれ
その時期、最も品質の良い物を、国内外を問わず、各地から取り寄せて使っています。
いずれも、果物の皮むき・切り刻みを、手間ひま惜しまず手作業で行った後、果肉の原形を残す、
プレザーブスタイルと呼ばれる加工法で、果物本来の美味しさを逃がさないように、作っています。
また、砂糖も、市販されている一般的なジャムと比べて、極力控えることで、果物が元々持っている
甘さや風味を、しっかり味わうことができます。

粒々感と甘酸っぱさが特長のいちご、コクと甘酸っぱさを活かしたブルーベリー、なめらかな果肉感と
濃厚な風味を味わえるマンゴー、そして、ジューシーな果肉と、ほろ苦いピールの風味が特長のオレンジ。
Bimi Smileブランドがこだわった、4種類のジャムは、フレスタ各店舗のパン売場で販売中です。

パンなどに塗って食べるのは勿論ですが、しっかり果物感を味わえるので、プレーンタイプのヨーグルト
にかけて食べるのも、おすすめです。自然が生んだ、甘さをタップリとお楽しみください。
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         <category>今週のBimi Smile</category>
         <pubDate>Fri, 20 Jan 2012 16:25:00 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>「二人のアカボシ／キンモクセイ」</title>
         <description>224回目の今日お届けしたのは、「キンモクセイ／二人のアカボシ」でした。

「メンバーそれぞれ地元の友達同士で、高校ではお互いにバンドを組んで学園祭に出たり、地元のライブハウスでイベントを組んだりと共に刺激し合い、成長し合う仲でした。その後音楽の専門学校に進んだりと本格的に音楽に打ち込むようになっていき、プロの道を意識した活動を始めるべくキンモクセイの前身となるバンドを組んだのは、音楽の専門学校を卒業した頃だったように覚えています。メンバーそれぞれ自分の得意とするジャンルは様々で、ソウルが好きだったり、はたまたパンクが好きだったり、ジャズが好きだったりと、どちらかと言うと一見お互い引き合うはずも無いような、アンバランスな組み合わせでしたが、この５人が集まった時に何故かお互いに一致するキーワードは70年代J-POPでした。
当時は、ギターロックやガレージロックが溢れる中、ライブハウスではフォークテイストだったり百恵ちゃんのカバーをしたりとめちゃくちゃ浮きまくっていましたが、周りがやっていない事をやるのは快感であり、その時代にその音を出す事にとても意義を感じていました。きっとそんな部分に自分たちの居場所を見出した瞬間が、キンモクセイの誕生だったのではないでしょうか」。
キンモクセイのボーカル伊藤俊吾さんは、バンド結成当時について、こう振り返ります。

1999年10月、神奈川県相模原市に生まれた伊藤俊吾は、音楽仲間で高校の同級生・白井雄介と、彼の幼なじみの後藤秀人、そして音楽仲間の佐々木良、張替智弘の5人で、バンド「アジアンオールスターズ」を結成。翌2000年、バンド名を「キンモクセイ」と変更した彼らは、東京・下北沢のライブハウスに出演した際に、レコード会社「BMGファンハウス」のスタッフと出会います。

「僕がキンモクセイに初めて出会ったのは、別のバンドを観るために、下北沢のライブハウスに行った時、たまたま早く着きすぎて、偶然、彼らのライブを観たのがキッカケです。キンモクセイは、ライブの中にMCや、お客さん達との掛け合いがほとんど無くて、メンバーのルックスもパッとせず、&quot;地味なバンド&quot;と言うイメージしか持てませんでした。ただ、年齢が若いバンドにもかかわらず、彼らは、ちょっと懐かしい、昭和の歌謡曲の匂いがする曲を演奏していて、当時のインディーズやメジャーで活躍していたバンドとは、あきらかに違う所に、僕は、興味を持って、声を掛けたんです」。
後に、「BMGファンハウス」で、キンモクセイのA&amp;Rを担当することになる、山口さんは、彼らとの出会いをこう振返ります。

こうして、メジャーデビューへの一歩を踏み出したキンモクセイは、対バン形式を中心に、ライブを積極的に展開していきます。
「僕は、ライブを数多くこなしていく中で、キンモクセイを徹底的に鍛えて、どんなステージに出ても、他のバンドとちゃんと差別化ができる、そんなバンドにしたいと、思ったんです」。山口さんは、キンモクセイのデビュー直前の頃について、こう語ります。
キンモクセイは、2001年1月に自主制作CD「キンモクセイ約18分」をリリースした後、全国14ヵ所を回るライブハウスツアーを行い、10月に、メジャー１stシングル「僕の行方」をリリースするのでした。

「もちろん、この曲の歌詞の中に、&quot;なごり雪は降らない&quot;とあるのは、かぐや姫の名曲「なごり雪」にちなんだフレーズです。「なごり雪」に出てくる駅での別れのシーンを、この曲の物語の主人公が自分に重ねています。「なごり雪」の曲の中では、&quot;季節外れの雪&quot;が切ない別れに情感や非現実感を与えていますが、この曲「僕の行方」では実際には雪は降ってくれない現実の無機質さを表現しました」。キンモクセイの伊藤俊吾さんは、自らのデビュー曲を、こう語ります。

ロックバンドでありながら、1970年代の歌謡曲を彷彿させるようなキンモクセイのサウンドは、懐かしさと新鮮さが重なり合った、不思議な音の空間を生み出し、世代を越えた幅広いファンを獲得します。

1stシングルに続いてキンモクセイは、翌2002年1月にリリースが予定されていた2ndシングルに、デビュー直前に伊藤が作った曲を選びます。
「この曲は、僕達が、デビュー直前に作った曲の中のひとつです。メジャーデビュー、という具体的な目標が決まり、メンバー全員が1970年代を意識したサウンドを作る事に夢中になっていた頃で、バンドとしても、キンモクセイのオリジナルサウンドを確立したい、という気持ちが、沸々と湧きあがり、まさに、その気持ちが頂点に達しようとしていた時期に作った曲なんです。この曲は、冬にリリースされた曲で、どちらかと言うと、凛としたイメージがサウンドにあるような気がしますが、意外にもこの曲を作っていたのは、真夏の暑いエアコンの効かない実家の自分の部屋で、暑さと戦いながら作った事を覚えています」。

「歌詞について言うと、僕の中ではとにかく「情景描写」がテーマでした。一つでも多くの情景を誰かと共感してみたいという気持ちが、言葉数の多さや、&quot;化学工場&quot;や&quot;橋の継ぎ目&quot;などの細かいディテールの多さに現れているんだと思います。歌詞や物語の世界観ももちろんポイントですが、何よりも70年代のニューミュジックを意識したサウンド面にもこだわりました。70年代を代表するエレクトリック・ピアノ「フェンダー・ローズ」にトレモロをかけた浮遊感のあるサウンドや、ティンパンアレイを彷彿させる都会的なノスタルジックがより郷愁や切なさを誘うのだと思います」。メンバーの伊藤俊吾さんは、この曲のこだわりについて、こう語ります。

さらに、A&amp;Rの山口さんのアイディアで、サウンド面だけでなく、ビジュアル面からも1970年代の懐かしい匂いを感じてもらうために、CDジャケットのデザインを、当時発売されていたインスタントラーメンのパケッケージを真似て作ります。
こうして、2002年1月、1970年代にこだわって作った、キンモクセイの2ndシングル「二人のアカボシ」は、リリースされるのでした。

2002年1月にリリースされた、キンモクセイの2ndシングル「二人のアカボシ」は、セールスチャート最高位10位を記録、全国のラジオ局31局ものパワープレイを獲得します。また、翌2月には、全国を地域毎に分けてCDパッケージデザインを変更した限定盤を3種類発売して、これも話題を集めます。
「この曲がヒットした事がキッカケで、その年の『NHK紅白歌合戦』にも出場するなど、この曲は、キンモクセイのメンバーそれぞれがデビュー前から模索していた、キンモクセイのオリジナルサウンドの到達点であり、スタートラインでもあったような気がします。曲を作った僕にとっても、その後自分が曲を作っていく上での、物差しにもなっています」。最後に、メンバーの伊藤俊吾さんは、こう振り返ってくれました。

バンドが進むべき道を切り拓いた、J-POP、冬の名曲が生まれた瞬間でした。

今日ＯＡした曲目
Ｍ１．夢の中へ／井上陽水
Ｍ２．僕の行方／キンモクセイ
Ｍ３．二人のアカボシ／キンモクセイ
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         <link>http://hfmweb.jp/blog/shokutaku/2012/01/70j-pop_19991052000bmg_mc_bmga.html</link>
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         <category>PICKUP SONG</category>
         <pubDate>Fri, 13 Jan 2012 16:25:25 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>VOL.221「山口県産　岩国尾津白花れんこん」</title>
         <description><![CDATA[フレスタが、品質、おいしさ、安心、安全などにこだわった商品を、自信をもっておすすめするBimi Smileブランド。
きょうは、もっちりとした食感と、甘みを味わえるれんこん、Bimi Smile「山口県産　岩国尾津白花れんこん」をご紹介します。

初夏に植えたれんこんは、秋から冬にかけて、収穫の最盛期を迎えますが、山口県岩国市尾津地区は、およそ200年前から、
れんこん栽培に取り組んでおり、日本でも有数のれんこんの産地として知られています。
また、普通、れんこんの穴は八つと言われていますが、岩国れんこんは、穴の数が自然に一つ多く、九つあるのも特徴です。

フレスタでは、岩国市尾津地区の農家・松重達雄さんと契約。
松重さんが作ったれんこんは、化学農薬・化学肥料の使用量を、通常の栽培方式と比べて、50%以上減らした農産物のみが
認められる「農林水産省、ガイドラインによる特別栽培農産物」に認定されていて、この、松重さんが作った尾津白花れんこん
のみを、Bimi Smile「山口県産　岩国尾津白花れんこん」として、出荷しています。

初めはシャキシャキっと、後でもっちりくる食感と、甘みが特長の、BimiSmile「山口県産　岩国尾津白花れんこん」。
定番の煮物はもちろんですが、挽肉をはさんだはさみ揚げや、潰して、つみれのようにして揚げた天麩羅もおすすめです。

Bimi Smile「山口県産　岩国尾津白花れんこん」は、フレスタ各店舗の土物コーナーで販売中です。
寒さが身に沁みるこれからの季節、温かいれんこん料理を食べて、体の芯から温まってみませんか？
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         <link>http://hfmweb.jp/blog/shokutaku/2012/01/post_269.html</link>
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         <category>今週のBimi Smile</category>
         <pubDate>Fri, 13 Jan 2012 16:25:00 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>VOL.220「愛媛県産　里芋　伊予美人」</title>
         <description><![CDATA[フレスタが、品質、おいしさ、安心、安全などにこだわった商品を、自信をもっておすすめするBimi Smileブランド。
きょうは、もっちりとした食感と、濃厚な甘みが特長の里芋、Bimi Smile「愛媛県産　里芋　伊予美人」をご紹介します。

「伊予美人」とは、愛媛県農業試験場が開発した里芋の新品種で、愛媛県と香川県の県境に位置する、四国中央市の宇摩地域で主に栽培されている、もっちりとした食感と非常にやわらかい肉質、濃厚な甘みが魅力の里芋です。

四国中央市の宇摩地域は、300年近く前から、地域の特産として里芋を作り続け、愛媛県内最大の里芋の生産地として、古くから親しまれています。

フレスタでは、夏場から秋にかけて、「ＪＡうま」の指定農家で栽培、収穫された「伊予美人」を、Bimi Smile「愛媛県産　里芋　伊予美人」として販売しています。

このBimi Smile「愛媛県産　里芋　伊予美人」は、煮物にして食べるのはもちろんですが、シチューやカレーに入れて食べると、より一層、里芋の甘さを味わっていただくことができます。

Bimi Smile「愛媛県産　里芋　伊予美人」は、フレスタ各店舗の野菜コーナーで販売中です。
温かい煮込み料理が恋しくなるこれからの季節、ぜひ一度召し上がってみてください。

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         <category>今週のBimi Smile</category>
         <pubDate>Fri, 06 Jan 2012 16:25:24 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>「Winter&apos;s Tale～冬物語～／高野寛＆田島貴男」</title>
         <description>223回目の今日お届けしたのは、「高野寛＆田島貴男／Winter&apos;s Tale～冬物語～」でした。

「僕が、昔から憧れていたのは、ティン・パン・アレイやYMOといった、ソロミュージシャンが集まって生まれたグループでした。グループとしての活動だけじゃなく、メンバーそれぞれのソロアルバムに、お互いがゲスト参加したりする、ミュージシャン同士の音楽的な繋がりに憧れていたんです。自分がプロミュージシャンになってから、その思いはより強くなって、僕もいつかは、その境地に辿り着きたいと思い続けていたんです」。
高野寛さんは、これまで様々なミュージシャンとセッションをしてきた理由について、こう振り返ります。

1964年12月、静岡県三島市に生まれた高野寛は、13歳の時に、兄の影響でギターを弾き始め、1980年に地元の高校に入学後は、友人達とバンドを結成。YMO、ザ・ビートルズ、トッド・ラングレンなど、幅広い音楽を聴き、それらを参考にして曲を作り、その曲を、自宅で録音し始めるようになります。
1986年、高野寛は、大阪芸術大学芸術学部に在学中に、元YMOの高橋幸宏、ムーンライダースの鈴木慶一の二人が主催した「究極のバンド」オーディションに、ギタリスト志望で応募し、見事合格。翌1987年に、高橋と鈴木が作った音楽ユニット「The Beatniks」が行ったライブツアーに、ギタリストして参加します。

「幸宏さんと、慶一さんが主催した、「究極のバンド」オーディションの狙いは、バンドそれぞれのパートの合格者を集めて、新たなバンドを作る事だったんですが、デモテープまで作った段階で、メンバーの考え方の違いからバンド構想は空中分解し、立ち消えになってしまったんです。ただ、僕は、幸宏さんに、ギタリストとしての才能を評価してもらって、The Beatniksのライブツアーに参加する事が決まったんです」。
憧れのミュージシャンのひとりもでもあった高橋幸宏の誘いで、ギタリストとして、The Beatniksのツアーに参加した高野寛でしたが、その一方で、高橋幸宏から、ある提案を受けます。
「僕がオーディション用に作った曲を聴いた、幸宏さんから、&quot;シンガーとして、自分で歌ってみれば&quot;と言れたんです。全く予期していなかった、幸宏さんの言葉に、僕は、自分が歌う姿をイメージできず、最初は戸惑いを感じたんですが、最終的には、思い切ってチャレンジする事にしたんです」。

こうして、高野寛は、シンガーソングライターとしてデビューする事を決意。1988年10月に、1stシングル「See You Again」をリリースするのでした。

1988年10月、高野寛は、高橋幸宏がプロデュースを手掛けた1stシングル「See You Again」と、アルバム『hullo hulloa』をリリース。新人離れした、その非凡なポップ・センスは、音楽関係者の高い評価を集めます。

翌1989年7月、高野寛は、初めてセルフプロデュースで作った2ndアルバム『RING』をリリースした後に、翌1990年に発売予定の3rdアルバムを、ロック・ミュージシャンのトッド・ラングレンにプロデュースしてもらうために、ニューヨークへ渡ります。
「1stアルバムを作り終えた直後に、僕が所属していたレコード会社に、トット・ラングレン側から、&quot;日本人アーティストをプロデュースしたい&quot;、というオファーがあったんです。僕が、トッド・ラングレンの大ファンだったのを知っていた担当ディレクターが、完成したばかりの1stアルバムの音源を、トッド側に送って、あっという間にプロデュースしてもらう話が決まったんです。その時、既に2ndアルバムの制作は始まっていたので、2ndアルバムはセルフプロデュースで作って、その次の3rdアルバムをトッドにお願いする事にしたんです」。

こうして、トッド・ラングレンがプロデュースを手掛けた高野寛の3rdアルバム『CUE』は、1990年3月にリリースされ、そのアルバムに先駆けて、4枚目のシングル「虹の都へ」が2月にリリースされるのでした。
1990年2月にリリースされた、高野寛の4枚目のシングル「虹の都へ」は、スポーツメーカーMIZUNOの、スキーウェアのCMソングに起用され、セールスチャート最高位2位、約50万枚の売上を記録し、高野寛にとって初めてのヒットナンバーとなります。
「トッド・ラングレンから、色々な事を学んだ中でも、特に印象に残っているのが、 &quot;あらゆるプロデュースの中でも、セルフプロデュースが一番難しい&quot;、という言葉です。アマチュア時代から自宅録音を始め、セルフプロデュースを当たり前のように思っていた僕の自信は、簡単に打ちのめされました。他人の事をあれこれ言う事は簡単だけど、自分を客観的に見るのは、本当に難しいと思いますし、プロデュースにおいて客観性が重要なことは、今でも、身に沁みて実感しています。」。

1992年、高野寛は、5枚目のアルバム『th@nks』の制作を、ゲストミュージシャンに忌野清志郎、大貫妙子、高橋幸宏らを迎えて行います。
「憧れの存在でもあった超一流ミュージシャンの方々と実際にアルバム制作が始まった時、僕は、とにかく緊張していたんですが、先輩方は、時にはユーモアを交えながら、まずはコラボレーションを楽しむことを教えてくれたんです。仕事への集中力、多彩なアイディア、豊富な知識、とにかく、たくさんのことを学ぶことができました」。

こうして、高野寛は、トッド・ラングレンからプロデュースの難しさを、憧れの先輩ミュージシャン達からは、アーティスト同士のコラボレーションの有り方について学んでいきます。そんな高野寛の下へ、１９９２年の夏、所属レコード会社の東芝EMIから、ひとつの提案がなされます。
「それは、僕の音楽仲間でもあった、オリジナル・ラブの田島貴男と一緒に曲を作って欲しいという提案でした。僕が彼と知り合ったのは、以前、田島貴男がオリジナル・ラブと、フリッパーズ・ギターの前身バンド「ロリポップ・ソニック」の、二つのバンドを掛け持ちしていた頃で、渋谷のライブハウスで彼らのライブを観た後、音楽的に意気投合して、仲良くなっていたんです。その田島君が、オリジナル・ラブとして、僕と同じ東芝EMIから1991年にデビューして、この時、一緒に曲を作る事になったんです。」

高野寛は、メロディ作りを、田島貴男に任せ、高野自身は歌詞を書くことを決めます。
「曲作りの作業は、僕のスタジオに、田島君がソウルの名曲が入ったカセットテープを持ってきて、そのカセットテープを聴くところから始まったんです。とにかく田島君が、アイディアを次々と出してくるので、どうやってまとめれば良いのか、苦労しました。完成したメロディに、僕は歌詞を書いたんですが、アルバム『th＠nks』を作る時に、ミュージシャンの先輩方から学んだ、コラボレーションを楽しむことを大切に、歌詞にオリジナル・ラブの1stアルバムのタイトルを入れてみたり、CDジャケットのビジュアルにも、フリッパーズ・ギターのパロディを加えてみたりと、田島君が楽しんでくれるようなアイディアを詰め込んだんです」。

こうして、1992年11月、サッポロビール「冬物語」のCMソングとして起用された、高野寛＆田島貴男の「Winter&apos;s Tale～冬物語～」は、リリースされるのでした。

1992年11月にリリースされた、高野寛＆田島貴男のシングル「Winter&apos;s Tale～冬物語～」。
「スタジオで、田島君と一緒に盛り上がったことは、今でもハッキリと覚えています。二人で思いついた事を、物凄いスピードで形にして作ったこの曲は、曲を作る作業の中でも、レコーディング作業でも、悩んだ記憶がありません。そんな形で曲が完成する事は滅多になく、音楽の神様からプレゼントを貰ったような気分で作った曲です。トッド・ラングレン、そしてミュージシャンの先輩方から学んだ、プロデュース、コラボレーションの極意が活かされた感じです。」最後に、高野寛さんは、こう振り返ってくれました。
憧れのミュージシャンから学んだポップスの魔法が、J-POP、冬の名曲を生みだした瞬間でした。

今日ＯＡした曲目
Ｍ１．テクノポリス／ＹＭＯ
Ｍ２．Ｓｅｅ　Ｙｏｕ　Ａｇａｉｎ／高野寛
Ｍ３．虹の都へ／高野寛
Ｍ４．Winter&apos;s Tale～冬物語～／高野寛
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         <link>http://hfmweb.jp/blog/shokutaku/2012/01/winters_tale.html</link>
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         <category>PICKUP SONG</category>
         <pubDate>Fri, 06 Jan 2012 16:25:21 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>「それでも信じてる／FUNKEY MONKEY BABYS」</title>
         <description>222回目の今日お届けしたのは、「FUNKEY MONKEY BABYS／それでも信じてる」でした。

「彼らは、ヒット曲を出して、自分達の車を持ったり、美味しいご飯を食べて肌の艶が良くなった部分はあるかもしれませんが、泥臭くてハングリーな音楽に対する一途な姿勢は、デビュー前から何も変わっていません。それが、彼らの良さでもあり、強みだと、僕やスタッフは思っています」。
デビュー前から、レコード会社でFUNKEY MONKEY BABYSの制作担当ディレクターを務めている若尾さんは、こう語ります。

2003年12月、東京都八王子市を中心に、ソロラッパーとして活動していたファンキー加藤は、クラブイベントを通じて知り合った、同じ八王子出身のMCモン吉、そしてモン吉の友人でDJのケミカルの3人で、HIP HOPグループ「FUNKEY MONKEY BABYS」を結成します。
2005年3月、FUNKEY MONKEY BABYSは、イベントで知り合った「ケツメイシ」のDJ KOHNOの勧めで、当時TFM系で放送されていた、ケツメイシのラジオ番組『ナイトレンジャー』のデモテープオーディションに応募し、準優勝に輝きます。それをキッカケに、FUNKEY MONKEY BABYSは、関東各地のクラブに出演するようになり、横浜のクラブ「LOGOS」に出演した際に、現在の所属事務所のスタッフと出会い、メジャーデビューが決まります。

「僕が彼らに初めて出会ったのは、2005年の春で、上司に、&quot;面白いバンドがいる&quot;と言われ紹介されたんです。当時は、ケツメイシ、RIP SLYMEと言った日本のHIP HOPミュージシャン達が、ポップスの要素を取り入れた曲を相次いでリリースして、お茶の間にも、HIP HOPと言う音楽ジャンルが少しずつ浸透し始めた時期でした。そう言った意味でも、FUNKEY MONKEY BABYSがデビューするタイミングは、恵まれていたと思います」。
こうして、2006年1月にFUNKEY MONKEY BABYSは、1stシングル「そのまんま東へ」をリリース。タレントの「そのまんま東」をCDジャケットに起用したシングルは、音楽ファンの間で話題を集めます。

その後もFUNKEY MONKEY BABYSは、HIP HOPやラップをベースに、特定の音楽ジャンルに縛られることのない、オリジナルサウンドで勝負。6月には、3枚目のシングル「ALWAYS」をリリースするのでした。

2006年6月、FUNKEY MONKEY BABYSは、3枚目のシングル「ALWAYS」をリリースした後も、7月には1stアルバム『FUNKEY MONKEY BABYS』をリリース。そして翌2007年1月にリリースした、4枚目のシングル「Lovin&apos; Life」が、セールスチャート最高位10位に。さらに、5月にリリースした5枚目のシングル「ちっぽけな勇気」が、チャート最高位8位を記録します。
「この頃の彼らは、まるでジェットコースターのように、一年、二年先と言った未来の事よりも、明日、一週間先、長くても一ヵ月先までと言った、目先の事に対して、必死で取り組むことしか考えられない程、仕事に追われるようになっていたんです。でも、忙しさを極めていたけれど、彼らは、何でも真剣に取り組み、色んな事を提案し、挑戦してくれたんです」。

曲を聴いた誰もが喜び、楽しんでもらえるようにと考えたFUNKEY MONKEY BABYSの音楽は、世代を越えて多くの人達から支持を集めます。そして、2009年6月には、初の単独日本武道館ライブを実現させたファンモンは、その年のNHK紅白歌合戦に、11月にリリースした11枚目のシングル「ヒーロー」で、初出場を果たすのでした。

「彼らは、デビュー前からずっと、&quot;身近な人のために笑顔や元気を与えることができる、応援歌を作りたい&quot;という気持ちで曲を作り続けています。曲が売れて、どれだけお金持ちになったとしても、彼らをずっと応援し続けてくれている地元八王子の人達や、スタッフ、そしてファンに対する感謝の気持ち、さらに生活者の目線を忘れず、その思いを、歌詞に落とし込んでいるんです。このヒーローにも、そんな気持ちが、シンプルに盛り込まれています」。

2011年に入って直ぐ、テレビ朝日から、FUNKEY MONKEY BABYSへ、4月から始まるドラマの主題歌のオファーが届きます。
「ドラマのストーリーが、学園物だったので、最初は&quot;青春&quot;をテーマに、明るく、元気でアップテンポな曲を作っていたんです。
ところが、曲が完成する直前の3月11日、東日本大震災に彼らは遭遇します。３人は、ちょうど福島でのライブを終えた帰り道で、新幹線の中に11時間も閉じ込められた後、救出され、やっとの思いで東京に戻ってきたんです。数日後に、レコーディングは再開されるんですが、3人は&quot;僕達ミュージシャンは、今回の地震で被災された方のために、何ができるんだろうか？&quot;&quot;今、明るく、元気な曲を作っていいんだろうか？&quot;という気持ちに苛まれまれてしまうんです」。

メンバーは、1年前からファンモンのプロデュースを担当していたYANAGIMMANに悩みを相談します。すると彼は、新たな曲のコードをレコーディングスタジオのピアノで弾きはじめます。
「YANAGIMANが、何気なしに弾いていたコードに、メンバーの加藤が&quot;それです!&quot;と声を上げたんです。そこから、一気に新しい曲作りが始まったんです」。

ファンモンらしい、明るく、聴く人誰もが思わず元気になっていくような力強いメロディで作っていた曲は、みんなの心が寄り添っていくような、優しい癒しの歌へと変化していきます。
「メロディを変えた事で、当然、歌詞も書き換える事になりました。もとの歌詞は、&quot;頑張れ&quot;と言って、強く背中を押すようなイメージのものでした。それが、何も言わずに肩を並べて、同じ空と大地をただ一緒に見る。それだけでも全然違うし、ぬくもりは、ちゃんと伝わるはず。そう言ったメッセージを持った歌詞に変える事にしたんです。そして、そう考えた時、メンバー自身が、震災直後は、見失いかけていた音楽の力を、&quot;もう一度信じてみよう。何があっても、とにかく信じ、願っていこう&quot;と思い直し、そういう気持ちを言葉に込めていったんです。さらに加えて、川村結花さんに、歌詞の補作をお願いしました。自分達の力だけに留まらず、専門家のアイディアを加える事で、より良い作品に仕上げていこうと、メンバー自信が強く思ったからなんです」。

こうして、2011年6月、テレビ朝日系ドラマ『アスコーマーチ』の主題歌として起用された、FUNKEY MONKEY BABYSの16枚目のシングルとなる、シングル「それでも信じてる」が、リリースされるのでした。

2011年6月にリリースされた、FUNKEY MONKEY BABYSの16枚目のシングル「それでも信じてる」。
「何があっても、希望を捨てず、祈り、願い、信じ続けることで、次への一歩が開けてくるという、ファンモンの思いが込められたこの曲は、東北の人達からはもちろんですが、東北地方以外の人達からも、たくさんの共感をいただきました。歌ができる事は少ないかもしれないけど、いつも自分たちを応援してくれる人達のために&quot;何かをしたい&quot;というファンモンの気持ちが、心の底から伝わったんでしょうね」。最後に、若尾さんは、こう振り返ってくれました。

メンバー自身が、震災に遭遇した事をキッカケに、信じる事の大切さを改めて強く感じた、
J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。

今日ＯＡした曲目
Ｍ１．そのまんま東へ／FUNKEY MONKEY BABYS
Ｍ２．ALWAYS／FUNKEY MONKEY BABYS
Ｍ３．ヒーロー／FUNKEY MONKEY BABYS
Ｍ４．それでも信じてる／FUNKEY MONKEY BABYS

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         <link>http://hfmweb.jp/blog/shokutaku/2011/12/_funkey_monkey_babys_200312mcd.html</link>
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         <category>PICKUP SONG</category>
         <pubDate>Fri, 30 Dec 2011 16:26:16 +0900</pubDate>
      </item>
      
      <item>
         <title>VOL.219「茶碗蒸」</title>
         <description><![CDATA[フレスタが、品質、おいしさ、安心、安全などにこだわった商品を、自信をもっておすすめするBimi Smileブランド。
きょうは、安心・安全面に配慮し、なおかつ、ビタミンEとビタミンDが、普通のたまごの５個分も含まれるなど、
栄養満点の広島生まれのたまご、Bimi Smile「ピュア・セーフティたまご」を原料にして作った、Bimi Smile「茶碗蒸」をご紹介します。

フレスタでは、広島市内で唯一の「たまご」の大型生産地、広島市安佐北区小河原地区の養鶏農家と契約。
生まれて400日までの若い鶏に、遺伝子組み換えをしていないトウモロコシを飼料として与えて育て、その鶏から産まれた"たまご"のみを、Bimi Smile「ピュア・セーフティたまご」として出荷しています。

ぷりぷりとした柔らかい黄身、そしてビタミンＥとビタミンＤが、普通のたまごの５個分も含まれている、Bimi Smile「ピュア・セーフティたまご」。このBimi Smile「ピュア・セーフティたまご」を使って、メインの具材に松茸、海老、さらに秋冬限定で、蟹を使った３種類を、Bimi Smile「茶碗蒸」として販売しています。
また、グリーンピース、鶏肉、しいたけなど、他の具も含めて、すべての材料に保存料や着色料は使っていませんので、安心・安全に食べて頂くことができます。

このBimi Smile「茶碗蒸」は、フレスタ各店舗の即席商材コーナーで販売中です。

沸騰したお湯の中でおよそ５分間温めるか、電子レンジで90秒ほど温めて、お召し上がりください。
とろ～りとした食感と、ピュア・セーフティたまごならではの、甘みを味わうことができますよ。
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         <category>今週のBimi Smile</category>
         <pubDate>Fri, 30 Dec 2011 16:25:45 +0900</pubDate>
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         <title>「デスクデスマスクリスマス／ネオンパーク」</title>
         <description>221回目の今日お届けしたのは、「ネオンパーク／デスクデスマスクリスマス」でした。

「当時、日本ではやっと認知され始めていたHIP HOPやラップは、まだまだ洋楽性が高く、彼らがやっていた、ラップを日本語で遊ぶ音楽に、僕は新鮮さを感じていたんです。そんな時代の先駆けになりそうだった新しい音楽に、僕の働いていた音楽事務所「ジャグラー」も、音楽的なチャレンジ精神に溢れていたエピックソニーも可能性を感じたんです」。当時、音楽事務所ジャグラーで、ネオンパークの制作担当を務めた原田さんは、こう振り返ります。

1994年、早稲田大学の音楽サークル出身で、出版社に勤めていた井石淳、広告代理店の営業マンだった吉倉哲志、そして医療メーカーの営業マンをしていた木村浩の３人は、友人の紹介で知り合ったボイストレーナーの麻生郷子を加えて、バンド「ネオンパーク」を結成します。
「バンド名の由来となったのは、アメリカのロックバンド「リトル・フィート」のジャケットデザインなどで知られるイラストレーター、ネオンパークです。井石、吉倉、木村の３人は、昼間はサラリーマンとして働き、その日頃の生活で溜まったストレスを、おもしろ可笑しく作った音楽を通じて発散したいと考えてバンドを作ったんですが、その考え方が、イラストレーター・ネオンパークの、人間の潜在的意識や感情をパロディ化した作風と、相通じる部分があると思い、バンド名をネオンパークと名付けたそうです」。

バンド結成から1年近く経った1995年のある日、井石らネオンパークのメンバーは、自分達が作ったデモテープを、いくつかの音楽事務所やレコード会社に送付。その内の１本が、当時音楽事務所ジャグラーに勤めていた、原田さんの耳にとまります。

「歌詞が優れているとか、メロディが良かったとかじゃなく、ただ単純に聴いて&quot;面白い&quot;と思ったんです。デモテープを聴いた直後、ちょうど、渋谷のライブハウス「ラ・ママ」で彼らのライブがあったので、観に行ったんです。お客は、僕を含め数人足らずだったんですが、スーツ姿でメガネを飛ばしながら激しく踊りまくる井石と、紅一点、麻生の2MCスタイルで歌うネオンパークの音楽は、カテゴリーを限定するのは難しいけど、分かり易く言えばラップでした。初めは、&quot;コミカルなバンドだな&quot;と思って観ていたんですが、演奏している彼らの、真剣な姿と歌のギャップが面白くて仕方なかったんです」。

こうして、ネオンパークを気に入った原田さんは、彼らをメジャーデビューさせるために、レコード会社数社に打診。その結果、エピックソニーと契約を結びます。
「ネオンパークにとって幸運だったのは、当時のエピックソニーは、音楽性も大事だけど、独創性に溢れた、それまでにない音楽に積極的に取り組んでいく、チャレンジ精神に溢れていたことです。
ネオンパークの制作担当ディレクターになった山田勲さんも、既存の枠に捉われない、チャレンジ精神豊富な制作ディレクターでした。もっとも、この山田さんは、もともとは、家電メーカーのソニー本社から出向してきた方で、ソニー時代にはDATの開発にも関わった技術畑出身の方でした。だから、ネオンパークも、新商品を開発するのと同じように、面白がってくれたんじゃないかと思います」。

こうして、1996年9月、ネオンパークは、1stシングル「用がなければ帰ります」をリリースするのでした。

1996年9月、ネオンパークは、1stシングル「用がなければ帰ります」をリリースします。
「彼らが、デビューにあたって準備したオリジナル曲は、およそ40曲。その中から、まずはシングル2曲と、アルバム用の曲を選び、1stシングルに選んだのが、この「用がなければ帰ります」です。当時は、サラリーマンの間で、サービス残業が当たり前のようになり始めた時期で、現役バリバリのサラリーマンだった井石、吉倉、木村の３人は、自分達の心境を含めて、世の中のそう言った状況をパロディ化し、皮肉を込めて曲を作ったそうです。ディレクターの山田さんも、エピックソニーに転籍してくるまでは、いわゆるサラリーマンだったし、&quot;彼らの気持ちは、よく分かる&quot;と言ってくれたんです」。

曲を作った本人達は、いたって真面目に作ったと言うものの、世相を皮肉ったネオンパークがリリースした、1stシングル「用がなければ帰ります」は、ニッポン放送を始め、ラジオ各局でOAされると、話題を集めていきます。
さらに、1stシングルのリリースから2ヵ月後の11月に、2ndシングルをリリースされる事が決まり、ネオンパークのメンバーは、次の曲も、彼らが曲を作る時にコンセプトにしていた、サラリーマンの日常生活を柱に、そこに、季節ネタのクリスマスを盛り込んだ曲を選びます。

「僕は、この曲をオーソドックスなクリスマスソングにするつもりは無く、どうアレンジしたら面白くなるか考えて、ちょっと独創的な弦楽器のアレンジを加える事を思いついたんです。そこで僕は、以前、遊佐未森の担当をしていた時に、彼女の曲を、弦のアレンジで、スケール感溢れるものに仕上げてくれた、作曲家の野見祐二さんにお願いしたんです。当時、野見さんは、坂本龍一さんの楽曲アレンジや、スタジオ・ジブリの作品『耳をすませば』の音楽を担当していました。ネオンパークの曲は、歌と言うよりも、ただ歌詞を朗読し、サビの部分だけ歌っている、といった、平坦なイメージの曲だったんですが、野見さんのアレンジを加えた事で、クリスマスの夜に、雪が深々と降ってくるイメージと、不思議なスケール感を表現することができたんです」。

こうして、1996年11月、ネオンパークの2ndシングル『デスクデスマスクリスマス』は、リリースされるのでした。

1996年11月、ネオンパークがリリースした、2ndシングル「デスクデスマスクリスマス」。
「当時、僕が居た音楽事務所「ジャグラー」は、既存の枠に捉われない個性的なアーティストを見つけて、育てるのが大好きな会社で、一方、エピックソニーも、夢中になって新しい物を探していたレコード会社だったんです。この2社が組んだからこそ、ネオンパークもメジャーデビューできたのかもしれないし、今でもこうやって、一部の音楽ファンの間で伝説になっているバンドなのかもしれません。彼らが、メジャーで発売した曲は、たった2曲だったかもしれないけど、クリスマスの時期になると、思いだして聴いてもらえる曲になった事は、彼らにとっても幸運だったと思います」。最後に、原田さんはこう振り返ってくれました。

チャレンジ・スピリッツ溢れるスタッフとの出会いが、
個性溢れるJ-POPクリスマスソングを産み落とした瞬間でした。

今日ＯＡした曲目
Ｍ１．用がなければ帰ります／ネオンパーク
Ｍ２．デスクデスマスクリスマス／ネオンパーク


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         <category>PICKUP SONG</category>
         <pubDate>Fri, 23 Dec 2011 16:26:18 +0900</pubDate>
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         <title>VOL.218「国産大豆油揚げ」</title>
         <description><![CDATA[フレスタが、品質、おいしさ、安心、安全などにこだわった商品を、自信をもっておすすめするBimi Smileブランド。
きょうは、国産大豆のみを原料にした、大豆本来の甘みを味わえる油揚げ、Bimi Smile「国産大豆油揚げ」をご紹介します。

このBimi Smile「国産大豆油揚げ」は、原料となる大豆に、風味が強く、しっかりとした甘さが特徴の北海道産の大豆"ユキホマレ"を中心とした、国産大豆のみを使っています。この"ユキホマレ"を中心とした国産大豆を、中国地方の中腹、庄原市東城町、帝釈峡近くにある工場へ運び、帝釈川から流れる良質な水と、にがりを加えて、まずは木綿豆腐を作ります。もちろん、この時に、保存料や消泡材などの添加物は、一切使っていません。

次に、この木綿豆腐を、薄く小さく切って圧縮し、水を抜いて油揚げの生地を作ります。
こうして、できあがった油揚げの生地を、最初は100～110℃の低温の油で、約20分揚げます。さらに、およそ3倍近くまでにふくらんだ生地の、余分な水分を飛ばした後、表面を硬くして、収縮を防ぐために、今度は170℃の高温の油で、再び約20分ほどカラッと揚げると、Bimi Smile「国産大豆油揚げ」のできあがりです。

このBimi Smile「国産大豆油揚げ」は、フレスタ各店舗のお豆腐コーナーで販売中です。
お味噌汁や煮物の具としてはもちろんですが、油揚げの両面をフライパンで軽く炙った後、一口大の大きさに切って、ポン酢につけ、おつまみ感覚でお酒と一緒に頂くのもおすすめですよ。
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         <category>今週のBimi Smile</category>
         <pubDate>Fri, 23 Dec 2011 16:25:40 +0900</pubDate>
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         <title>「12月のエイプリル・フール／EPO」</title>
         <description>220回目の今日お届けしたのは、「EPO／12月のエイプリル・フール」でした。

「私にとっての20代は、音楽的な反抗期そのもので、ポップスなんかもう嫌だ。私らしい音楽を作りたい。そういった、プレッシャーとストレスが続く日々の連続だったんです。でも、デビューから30年近く経った今、改めてこの時に作った曲を聴き直してみると、ポップスの素晴らしさや楽しさを実感することができるんです」。EPOさんは、デビュー間もない頃に作った自身の音楽について、こう語ります。

1960年5月、東京都に生まれた佐藤永子ことEPOは、彼女が3歳の時に、ピアノを習い始め、父親の影響でクラシックを聴いて育ちます。その後、EPOは、カーペンターズを中心とした70年代ポップス、山本直純、小林亜星と言った、日本の作曲家が作ったコミカルなCMソングを聴いて、歌が聴く人を引き付ける魅力に取りつかれ、彼女自身も、自分が書いた日記の文章に、ピアノで曲を付け始めるようになります。

1976年春、EPOは都立高校に入学すると、学校の先輩達と4人組バンド「Laugh」を結成し、彼女は、ピアノとバックコーラスを担当します。翌1977年、Laughは、オリジナルソングを作って、当時ニッポン放送でオンエアされていたコンテスト番組『ライオン・フォーク・ビレッジ』で優勝、メジャーデビューのチャンスをつかみます。
しかし、EPOより一つ年上だった、他のメンバーは、大学進学を控えメジャーデビューを断念、Laughは解散することとなります。

「Laughは解散して、バンドとしてのデビューの話は消えたんですが、私自身は、レコード会社から、ソングライティング力と、コーラス・ワークを評価してもらって、シンガーソングライターとしてのデビューを誘われたんです。ただ、私は、その時、推薦入試で東京女子体育大学へ進学するつもりだったので、&quot;1年待って欲しい&quot;とお願いしたんです」。
1979年、EPOは、東京女子体育大学に入学後、竹内まりやなどのバックコーラスとして音楽活動を再開します。また、実際に使われることはありませんでしたが、大瀧詠一が作ったサントリーレモンのCMソングを、デビュー直前のシャネルズ(後のラッツ&amp;スター)と共演するなど、EPOは、着実にシンガーとしての評価を高めていき、1980年3月に、1stシングル「DOWN TOWN」でデビューするのでした。

1980年3月、EPOは、1stシングルとして、山下達郎が在籍していたシュガーベイブの代表曲「DOWN TOWN」のカバー曲をリリースします。
「シュガーベイブの代表曲でもあるこの曲を、1stシングルに選んだ理由は、私が候補として作った曲の中に、1stシングルとしてピッタリの曲が無かったのと、シュガーベイブを、私が大好きだったからです。スタジオで、スタッフと選曲について話をしていた時に、偶然にもスタジオの前を山下達郎さんが通っていたので、私は走って追いかけて、&quot;シュガーベイブの曲をカバーさせてください&quot;と言って、お願いしたんです。当時、同じRCAレコード所属していた山下達郎さんは、直ぐにOKしてくれて、1stシングルに決まったんです」。

こうして、EPOが歌ったシュガーベイブのカバー曲「DOWN TOWN」は、リリースから1年経った翌1981年5月に、フジテレビ系のバラエティ番組『オレたちひょうきん族』のエンディング・テーマ曲として起用されます。また同時に、EPOが番組オリジナルで作った、ジングルも使われて、彼女の名前は、音楽ファン以外の幅広い人達にも、知られていきます。
「この頃の私は、大学を中退して、音楽活動に専念しはじめた頃でした。しかし、自分が信念を持って作りたいと思っていたポップスナンバーが、レコード会社の人からは、&quot;売れないから&quot;と言った理由で却下されて、自分の曲に対する想いを、どう表現すればいいのか、分からなくなっていた時期でもあったんです」。

EPOは、彼女自身が抱えていた音楽活動に対する悩みや不安感を心にしまい込み、表面上は、平然を装って音楽活動を続け、1983年2月に、5枚目となるシングル「う、ふ、ふ、ふ、」をリリースするのでした。

1983年2月にリリースされた、EPOの5枚目のシングル「う、ふ、ふ、ふ、」は、資生堂の春のキャンペーンソングとして起用され、ヒットします。
「CMソングに使われた事で曲は売れ、&quot;EPOはいつも元気な音楽を歌っている&quot;といったイメージが、音楽ファンに広がっていったんです。しかし、実際には、この頃の私は、プレッシャーとストレスで、精神的にも体力的にもボロボロで、体調を壊す事も度々あったんです」。
売れる音楽と自分のやりたい音楽のギャップに、もがき苦しんでいたEPOは、翌1984年に、レコード会社をRCAレコードから、新しく誕生したばかりのMIDIに移籍します。

1984年2月、EPOは、高見知佳に楽曲「くちびるヌード」を提供。春の資生堂のキャンペーンソングに起用されたこの曲は、セールスチャート最高位16位を記録するヒット曲となって、EPOはソングライターとしても才能を開花させていきます。
「他のアーティストに曲を提供したのは、この時が初めての経験だったんですが、自分の曲を作る時とは違った、楽しさを感じる事ができたんです。自分の曲を作る時は、実体験をモチーフに曲を作る事が多かったんですが、他の人の曲は、もう少し客観的に、曲を作る事ができたんです。私の曲作りに欠けていたもの、それが客観性だという事に、気がついたんです」。

EPOは、1985年に入ってCMソングを含む3枚のシングルをリリースした後、4枚目のシングルに、彼女自身の体験をモチーフにしたクリスマスソングを作る事を決めます。
「曲作りを始めた頃、それまで、私の中では&quot;オンリー・ワン&quot;だと思っていたボーイフレンドが、実は&quot;オール・オブ・ワン&quot;だった事が分かったんです。せつなくて、やりきれない、辛い想いを持ったままでも、仕事はしなくちゃいけませんでした。
それから、クリスマスは、女の子にとっては特別な日のはずなのに、音楽を仕事にしていた私にとっては、仕事が入る確率が高くて、毎年、友達やボーイフレンドとも約束ができなくて、大嫌いな日でもあったんです。そこで、その二つの想いを、上手く組み合わせて、歌詞を書きました」。

こうして、1985年11月、EPOが彼女自身の、辛い想いをモチーフに書いた、10枚目のシングル『12月のエイプリル・フール』は、リリースされるのでした。

1985年11月にリリースされた、EPOの10枚目のシングル「12月のエイプリル・フール」。
「曲を作った当初は、ただ季節感を大切に、曲の中にどれだけ自分の経験を投影できるかだけを考えて歌っていました。しかし、時が経ち、クリスマスを意識し始める毎年冬の始めになると、この曲がテレビやラジオから必ず流れ、私のライブでもこの曲を楽しみに待っている人が増え続けているんです。しかも、ライブにやって来た人達から寄せられるメッセージを読んでみると、実は同じような体験をした人が沢山いる事が分かったんです。自分がもがき苦しみながらも作った20代に作った曲が、発売から25年近く経った今でも、多くの人達に愛され続けている事を、私は、今、嬉しく思っています」。最後に、EPOさんはこう振り返ってくれました。

どうにもならない想いが、多くの女性たちの共感を呼ぶ、クリスマスソングを産み落とした瞬間でした。

今日ＯＡした曲目
Ｍ１．トップ・オブ・ザ・ワールド／カーペンターズ
Ｍ２．DOWN TOWN／EPO
Ｍ３．う、ふ、ふ、ふ、／ＥＰＯ
Ｍ４．12月のエイプリル・フール
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         <link>http://hfmweb.jp/blog/shokutaku/2011/12/12epo.html</link>
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         <category>PICKUP SONG</category>
         <pubDate>Fri, 16 Dec 2011 16:25:46 +0900</pubDate>
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