
227回目の今日お届けしたのは、「ZOO/Choo Choo TRAIN」でした。
「僕は、大学在学中の1986年頃から、大学の先輩でもある、シンガーソングライターの池田聡さんのライブに、コーラスとして参加して、そこで出会った、音楽プロデューサーの工藤史人さんに、曲作りのイロハを教えてもらったんです。その後、僕は、作曲家としても仕事を始め、1989年か1990年だった思いますが、フォーライフレコードのスタッフからの依頼で、ZOOの1stシングルを作る事になったんです」
ZOOのデビュー直後の曲を手掛けていた、シンガーソングライターの中西圭三さんは、こう語ります。
1989年6月、テレビ朝日でスタートしたダンス番組『DADA L.M.D』に参加したダンサー8人が、ダンスユニット「L.M.Dダンサー」を結成。その年の10月に、彼らはユニット名を「ZOO」と改名し、翌1990年1月に、ダンサー1名を加え9人となります。そして、ZOOは、4月から新たに『GROOVIN SCENE DADA』としてリニューアルした番組のオープニング・テーマを、歌う事になるのでした。
「『GROOVIN SCENE DADA』は、1970年代に、アメリカの音楽シーンで一世を風靡したダンス番組、『ソウルトレイン』をイメージした番組でした。当時は、日本でも、バラエティ番組から生まれたダンスコンテスト「ダンス甲子園」が人気を集め、POPSから派生したダンス・ミュージックが、脚光を集めていた時期でした。僕も曲作りの中で、ダンス・ミュージックを意識し始めていて、そういった意味では、曲を作るタイミング的は恵まれていたと思います。」
「ただ、当時のJ-POPの中では、ダンス・ミュージックは、まだまだアンダーグラウンドなイメージが強く、代表的なアーティストだった久保田利伸さん、バブルガム・ブラザーズ、m.c.A・Tが作っていた曲も、ファンキーなリズム感を活かした曲がほとんどでした。僕は、自分がダンス・ミュージックを作るなら、彼らと同じ路線で作るのではなく、番組が"ソウルトレイン"をイメージするなら、"フィラデルフィア・ソウル"を参考にした方がいいのでないかと考えたんです。 "フィラデルフィア・ソウル"は、ストリングスやブラス・アンサンブルを使っているのが特長で、僕は、作曲を学んだ工藤さんから、そのスタイルを教えてもらったんです。僕は、弦の響きを使った曲が大好きだったこともあって、"フィラデルフィア・ソウル"が好きになり、ZOOの曲を作る事が決まった時、そのイメージで、曲を作ることを思いついたんです」。
こうして、1990年5月、中西圭三が作った、ZOOの1stシングル『Careless Dance』は、リリースされるのでした。
1990年5月、中西圭三が作った、ZOOの1stシングル「Careless Dance』は、セールスチャート最高位64位、約1万6千万の売上を記録します。
「リズム感を大切に作った、1stシングル「Careless Dance」は、『GROOVIN SCENE DADA』以外にも、同じテレビ朝日の音楽バラエティ番組『華麗にAh!so』のオープニング・テーマ曲としても使われました。しかし、二つの番組のオープニング・テーマ曲に使われたにも関わらず、セールスは今ひとつ伸び悩んだんです」
1990年冬、フォーライフレコードのスタッフは、ZOOの2ndシングルを、当時、、ZOOのライバル的な存在でもあったLLブラザーズの音楽プロデュースを手掛けていた羽田一郎に依頼します。
「まだ実績が無かった僕や、当時、一緒に曲を作っていた小西貴雄にとって、実績のある羽田さんは、当然、意識する存在でした。結果的に、2ndシングルを羽田さんが作る事が決まったことに対して、悔しかったけど、僕らにとっては、その次の曲を作るための大きな刺激となったんです」。
1991年2月、羽田一郎が手掛けた、ZOOの2ndシングル「GIVEN」はリリースされますが、セールスチャート最高位56位、約1万6千枚の売上におわり、中西圭三の下へ、7月に発売予定の、3枚目のシングルを作るチャンスが再び巡ってきます。
「ZOOのシングルを作るチャンスが、再び巡ってきた時、とにかく僕は、何か聴く人にインパクトを与える曲を作りたいと考え、当時、日本のダンスミュージックシーンの中でも、MCハマーと並んで大きくクローズアップされていた、ボビー・ブラウンを意識した、ポップで楽しく、踊れる曲を作ることを、漠然としてですが、考えたんです」
1991年7月、再び中西圭三が作った、ZOOの3rdシングル「Native」は、約3万2千枚の売上を記録し、それまでの2作と比べると、売上も、少しながら増加します。
「特にコンセプトとして狙った訳ではないんですが、曲を仕上げていくにつれて、曲にアウトドア感とヒップな感じが、ほど良く混ざり合って、セールス的には今ひとつでしたが、自分の中では、曲作りに対する手ごたえとしては残ったんです」。中西圭三さんは、この曲について、こう語ります。
そして、この3rdシングルを聴いた、JR東日本の広報担当者から、ZOO、そして中西圭三の下へ、その年の冬のJR東日本スキーキャンペーンソング提供の話が届きます。
「1980年代後半から、全国的にスキーブームが到来していて、若者は、冬になると、北海道や、新潟県の苗場や湯沢町へスキーに出掛けるようになっていました。そんな時代、JR東日本も、上越新幹線を使って、自社で運営を始めた「ガーラ湯沢スキー場」への集客を目的に、「JR東日本SKI SKIキャンペーン」を展開する事になり、そのキャンペーンソングの話を、僕とZOOの下へ持って来てくれたんです」。
「JR東日本側からは、英語で蒸気機関車の音を表現する擬音「Choo Choo 」と言う言葉を歌詞に使って、リズム感のある、ダンス・ミュージックを作って欲しいと言われました。
僕は、その「Choo Choo」と言う言葉から、イメージを膨らませ、時代が駆け抜けていくようなリズム感やテンポを持った曲を作っていったんです。さらに、当時、一緒に曲を作っていた小西貴雄が、アメリカのブラックミュージック・アーティスト「D-TRAIN」の曲「Keep On」をサンプリングして、イントロに使うことを提案してくれたんです」。中西圭三さんは当時をこう振り返ります。
出来上がったメロディに、1stシングルから、中西さんとコンビで曲を作ってきた、作詞家の佐藤ありすさんが、歌詞を付け、曲は完成します。
こうして、「雪男。雪女」をテーマに、JR東日本が始めた、「SKI SKIキャンペーン」CMソング、ZOOの4枚目のシングル「Choo Choo TRAIN」は、1991年11月にリリースされるのでした。
ZOOの4枚目のシングル「Choo Choo TRAIN」は、リリースに先駆け10月からCMがOAされると、話題を集め、11月にリリースされると、一気にブレイクし、セールスチャート最高位3位、約105万枚の売上を記録します。
「リリースから12年後の2003年、ZOOのオリジナルメンバーの一人でもあったHIROが、彼がリーダーを務めるEXILEの曲として改めてリリースして、今では、EXILEのライブでも欠かせない曲となっています。オリジナルメンバーのHIROが、立場が変わっても、この曲をリスペクトし、歌い続けくれている事に感謝しています。と同時に、これからも歌い続けて欲しいと願っています」
最後に、中西圭三さんは、こう語ってくれました。
日本のダンス・ミュージックがJ-POPのカテゴリーのひとつとして認知されるキッカケとなった、
J-POPダンスナンバーの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ソウルトレインのテーマ/MFSB
M2.Careless Dance/ZOO
M3.Native/ZOO
M4.Choo Choo TRAIN/ZOO
226回目の今日お届けしたのは、「広瀬香美/ゲレンデがとけるほど恋したい」でした。
「僕が彼女に初めて出会ったのは、1990年か1991年です。当時僕が所属していたセクションでは、フライング・キッズ、アン・ルイス、小泉今日子、嘉門達夫と、さまざまなアーティストを担当していたんですが、何か、新しい軸となる、アーティストを探していたんです。そんな時に、LA在住の日本人ギタリスト・平野T.J.ヨーイチさんから、彼女を紹介されたんです」。
デビュー前から、ビクターエンタテイメントで、広瀬香美の共同プロデューサーを務めている田村さんは、こう語ります。
1966年4月、福岡県太宰府市に生まれた広瀬香美は、地元の福岡女学院音楽科を卒業後、国立音楽大学作曲家へ進学。大学在学中にアメリカ・ロサンゼルスを旅行した際に観た、ボビー・ブラウンとベイビー・フェイスのライブをキッカケに、彼女はPOPSに夢中になっていきます。
1988年、広瀬香美は、国立音楽大学を卒業後、アメリカに音楽留学し、友人からマイケル・ジャクソンのボイス・トレーナー、セス・リッグスを紹介されて、ボーカルレッスンをスタート。その後、LAで知り合った日本人ギタリスト・平野T.J.ヨーイチを通じて、ビクターエンタテインメントの田村さんを紹介され、1991年からデモテープ作りを始めます。
「当時は、大黒摩季やZARDといった、TVにも出ない、ライブもやらない。ただ曲を作って、リリースするだけの、それまでのアーティストとは違った、新しい存在価値を持ったアーティストが続々とデビューし始めていた時期でした。そこで僕は、広瀬を彼女達と同じような存在に育ててみたいと考えたんです。そう言った意味では、彼女がデビューするタイミングは恵まれていたと思います。
ただ、広瀬は、バラードやスローテンポの曲作りは得意でしたが、アップテンポの曲作りが苦手だったんです。当時、音楽業界では、デビュー曲は、アップテンポの曲を選ぶのが常識だったので、僕は考え抜いた末に、彼女をシングルではなく、アルバムでデビューさせて、音楽ファンが彼女に対してどういった反応を示すのか、確かめることにしたんです」。
こうして、1992年7月、広瀬香美は、まずは1stアルバム『Bingo!』をリリース。半年後の12月に、1stシングル「愛があれば大丈夫」をリリースするのでした。
1992年12月、広瀬香美は、映画『病は気から 病院へ行こう2』の主題歌にも起用された、1stシングル「愛があれば大丈夫」をリリースします。
「広瀬は、1stアルバム『Bingo!』を作った頃、まだレコーディング経験や知識にも乏しく、ボーカリストとしても、実際のレコーディングの現場で、自分をどう表現すれば良いのか分かっていなかったんです。そこで僕は、1stアルバムでは、Hip-Hopを始め、多彩なジャンルの曲を、彼女に作って歌わせることにしたんです。とにかく、色々な曲を聴かせて、表現力を高めていったんです」。
田村さんは、広瀬香美に、メロディのコードや、テンポ感など曲作りについても具体的な指示を出して、彼女が苦手としていたアップテンポな曲作りに、一緒に取り組んでいきます。
1993年夏、広瀬香美の下へ、スポーツ用品専門店「アルペン」から、冬のキャンペーンソング提供の話が届きます。
「アルペンの担当者が、広瀬香美が、その年の3月にリリースした、2ndアルバム『GOOD LUCK!』を聴いて、彼女の音域の広い歌声と、ドラマティックで聞き心地の良いメロディを評価してくれ、オファーしてくれたんです。僕は、彼女に、CMソングだから、普段はあまり使わない、インパクトのある言葉を使ったほうがいいと、アドバイスしました」。田村さんは、当時をこう振り返ります。
広瀬香美は、彼女が、中学時代に、街中を歩いている時に浮かんだメロディを書き留めておいたメモを参考に、デモテープを制作。歌詞も、田村さんのアドバイスに従い、普段は使わない言葉を、わざとサビの部分に使って曲を作っていきます。
こうして、1993年12月、「アルペン」の冬のキャンペーンソングに起用された、広瀬香美の3rdシングル「ロマンスの神様」は、リリースされるのでした。
1993年12月にリリースされた、広瀬香美の3rdシングル「ロマンスの神様」は、セールスチャート最高位1位、約175万枚の売上を記録する大ヒット曲となります。
「"ロマンスの神様"という、普段は使わない言葉をサビに使った事に、当時、レコード会社内部には、数多くの反対意見があったんです。しかし、反対を押し切ってリリースし、結果的には大ヒットに繋がって、今までの常識に捉われてはいけない、という気持ちが、僕らに生まれてきたんです。サウンドやメロディの流行りは、時代によって変わるし、歌詞の傾向や言葉遣いもどんどん変わっていく。この曲で、広瀬香美のPOPSが完成したとは思わず、その後も、新しいサウンドをどんどん聴いて、取り入れられるものは、貪欲に取り入れていくことにしたんです」。
翌1994年、広瀬香美は再びアルペンの冬のキャンペーンソングに「幸せをつかみたい」を提供。さらにその翌年の1995年、広瀬香美の下に、3年連続となる、アルペンの冬のキャンペーンソング提供の話と、12月に公開予定の映画の主題歌提供の話が届きます。
「映画のスポンサーとなったのが、アルペンで、映画のタイトルを、そのまま曲のタイトルに使って、さらに、その曲を冬のキャンペーンソングに使う事が条件だったんです」田村さんは、当時を、こう振り返ります。
広瀬香美は、この曲のデモテープを、まずミディアムテンポで作った後、次にラフミックスの段階で、アップテンポに変えていきます。そして完成したメロディに、歌詞を書く段階で、田村さんは、歌詞にある仕掛けを作ります。
「僕は、映画の主題歌としてよりも、CMソングとして使われる事を優先的に考えたんです。15秒という限られた時間の中に、キャッチーな言葉を当てはめられれば、「ロマンスの神様」と同じように、曲を聴いた人達に強いインパクトを与える事ができるはず。広瀬も、僕の考えに共感してくれて、CMに使われる曲の部分に、"絶好調 真冬の恋"という、普段はあまり使わないフレーズを使ったんです」。
こうして、3年連続となるアルペンのCMソングで、映画「ゲレンデがとけるほど恋したい」の主題歌となった、広瀬香美の7枚目のシングル「ゲレンデがとけるほど恋したい」は、1995年12月にリリースされるのでした。
1995年12月にリリースされた、広瀬香美7枚目のシングル「ゲレンデがとけるほど恋したい」は、セールスチャート最高位6位、約39万枚の売上を記録します。
「CMソング1曲目に使われた「ロマンスの神様」から始まった、広瀬香美のPOPS路線も、この3作目の「ゲレンデがとけるほど恋したい」でひと区切りとなりました。それは、僕と彼女の中で、デビュー前の彼女の課題であった、"アップテンポな曲への苦手意識"がクリアされたと判断したからです。ですから、この曲は、シンガーソングライター広瀬香美の、第1段階の集大成とも言える曲です」最後に、田村さんは、こう振り返ってくれました。
CMソングという限られた条件の中でのソングライティングが、
アーティスト自信の課題もクリアさせた、J-POPの冬の定番ソングが生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Every Little Step/ボビー・ブラウン
M2.愛があれば大丈夫/広瀬香美
M3.ロマンスの神様/広瀬香美
M4.ゲレンデがとけるほど恋したい/広瀬香美
225回目の今日お届けしたのは、「松任谷由実/サーフ天国、スキー天国」でした。
「ユーミンが、アルバム『SURF&SNOW』を作った原点は、1974年にリリースした、2ndアルバム『MISSLIM』に収録されていた曲「海を見ていた午後」にあると、僕は思っています。ユーミンが、海を眺めながらソーダ水を飲み、目の前の海を貨物船が通る情景を描いたこの曲は、その後の彼女が、海や山、季節の移ろい、そして季節にちなんだ行事などをテーマに曲を書く、出発点となった曲ではないでしょうか」。松任谷由実の制作ディレクターを務めた、下河辺さんは、こう語ります。
1972年7月、シングル「返事はいらない」でデビューした、シンガーソングライター荒井由実は、2ndアルバム『MISSLIM』に収録した曲「海を見ていた午後」で、目に映る物、風景を、歌詞に登場する主人公とシンクロさせて描く、ユーミンならではの手法を確立させます。
1976年秋、ユーミンは、音楽面で彼女をサポートしていた、松任谷正隆さんと結婚。家庭と歌手活動の両立の難しさから、一時は、シンガーとしては引退し、作家として活動することを考えます。しかし、時が経つにつれ、スタッフの説得、そして何により、彼女自身が、自らが曲を書いて、自らが歌うことへの強い思いを捨てきれず、1978年3月、ユーミンは、シンガーソングライターとして音楽シーンに復帰し、1年半ぶりとなるアルバム『紅雀』をリリース。8月には、神奈川県・葉山町の葉山マリーナで、後に「SURF&SNOW in逗子マリーナ」として生まれ変わっていく、初めてのリゾート・コンサート「葉山マリーナ サマーリゾートコンサートVol.1」を開催します。
1978年8月、ユーミンは、日本のヨットの発祥地として、当時、流行に敏感な若者の間では、マリンリゾートのメッカとして賑わっていた神奈川県・葉山町の「葉山マリーナ」で、初めてのリゾート・コンサートを開催。ユーミンが、マリーナ内のプールに作られたステージで繰り広げたコンサートでは、水を使った演出や、アウトドアならではの開放感で、話題となります。
さらに、その年の11月にリリースした、アルバム『流線形'80』には、「ロッヂで待つクリスマス」、「真冬のサーファー」と、スキーやサーフィンを題材にした曲を収録し、若者の間には、"リゾート=ユーミン"といったイメージが、少しずつ植えつけられていきます。
「当時は、ユーミン自身、サーフィンや、スキーの経験は無かったはずです。ただ、彼女は、当時の大学生が夢中になって読んでいた、『POPEYE』や『JJ』と言ったファッション雑誌を、若者達と同じように読んで、流行の流れをつかみ、夏=海、海=サーフィン。もしくは、冬=雪、雪=スキーと言うイメージを膨らませて、彼女の強みでもあった情景描写溢れる、高いソングライティング能力で、リゾートにあこがれる若者たちの心をつかむ曲を作っていったんです」。下河辺さんは、当時を、こう振り返ります。
ユーミンは、彼女の曲の中でも、リゾートをテーマにした曲の人気が、高い事をメディアや、コンサートでも察知。1980年夏、その年の冬にリリースを予定していた次のアルバムを、リゾートをテーマに作る事を決め、その中の一曲として、2年前の1978年に、彼女が、歌手・川崎龍介に提供した曲を、歌詞、アレンジ、そしてタイトルを変えて収録する事を決めます。
「1976年、僕が、加山雄三さんの事務所「加山プロモーション」からデビューが決まって、所属レコード会社「ワーナー・ミュージック」のディレクターと打合せを進めていた時、当時、彼の音楽仲間だった、ユーミンを紹介されたんです。それで、ユーミンが、僕のために3曲ほど作ってくれる事が決まったんです」。
現在「RKK熊本放送」でラジオパーソナリティを務める、川崎龍介さんは、ユーミンから曲を提供された当時を、こう振り返ります。
「先にメロディができたんですが、歌詞を書く段階で、符割が上手くいかず、もう一度、メロディを直して、さらに、アレンジも、3回直して、制作開始から、半年以上が経って、ようやく曲が完成したんです」。
こうして、ユーミンが作詞・作曲した、川崎龍介の1stシングル「Summer Breeze」は、1978年6月にリリースされるのでした。
1978年6月にリリースされた、川崎龍介の1stシングル「Summer Breeze」。
「実は、1stシングルをリリースした直後に、担当ディレクターがレコード会社を退職してしまい、ユーミンが作ってくれた残りの2曲を、僕が歌うチャンスは無くなってしまいました。お蔵入りになった曲は、その後、ユーミン自身や、別のアーティストの曲になりました。この曲をリリースした2年後の1980年に、ユーミンがこの曲を、タイトルや歌詞を変えてリリースした事を知った時は、驚きました。余談ですが、事務所に印税収入の一部が入って、スタッフが喜んだ話を聞いています」。
川崎龍介さんは、当時をこう振り返ります。
さて、1980年の夏。ユーミンは、川崎龍介さんに提供した曲のリメイク曲を含んだ、リゾートをテーマにしたアルバムを作り始めます。
「彼女はアルバムを作る時、いつも最初は、3~4曲作ってスタジオに入ります。その後、アルバムテーマに沿って、スタジオの中で残りの曲を、メロディから作り始め、最後に歌詞を書いていくパターンが多いんです。この時も、同じでした。この曲については、既にメロディの原形があったので、一部を直した後、いかに歌詞をアルバムのテーマに沿って、書き直していく事がポイントでした。まず、曲のサビ部分"サーフ天国、スキー天国"という言葉を書いた後、次にユーミンがTVや雑誌で研究したスキーやサーフィンの情景を、言葉に置き換えていったんです」。当時、ユーミンを担当していた制作ディレクター下河辺さんは、こう振り返ります。
こうして、時代の一歩先を捉えた、ユーミンのアルバム『SURF&SNOW』は、1980年12月にリリースされるのでした。
1980年12月にリリースされた、松任谷由実のアルバム『SURF&SNOW』に収録された「サーフ天国、スキー天国」は、冬の定番曲として毎年、TVやラジオから流れ、1987年には映画『私をスキーに連れてって』の挿入歌としても起用されます。
「ユーミンは、アルバム『SURF&SNOW』をリリースした翌年の1981年3月に、リゾート・コンサートのウィンターバージョン「SURF&SNOW in 苗場」を初めて開催します。"スキーの後に楽しめるコンサートを"というコンセプトで始まったこのコンサートは、その後、苗場の冬には欠かせない、イベントへと成長し、ユーミンには、"冬の女王"と言う名のニックネームも付けられました。時代を先取りする感性に優れたユーミンの音楽は、このアルバムをキッカケに、若者たちのデートには欠かせない音楽になったと言っても過言ではないでしょう」。
最後に、下河辺さんは、こう振り返ってくれました。
若者の流行を敏感にキャッチし、歌で表現した、J-POPの冬の定番ソングが生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.海を見ていた午後/荒井由実
M2.ロッヂで待つクリスマス/松任谷由実
M3.Summer Breeze/川崎龍介
M4.サーフ天国、スキー天国/松任谷由実
224回目の今日お届けしたのは、「キンモクセイ/二人のアカボシ」でした。
「メンバーそれぞれ地元の友達同士で、高校ではお互いにバンドを組んで学園祭に出たり、地元のライブハウスでイベントを組んだりと共に刺激し合い、成長し合う仲でした。その後音楽の専門学校に進んだりと本格的に音楽に打ち込むようになっていき、プロの道を意識した活動を始めるべくキンモクセイの前身となるバンドを組んだのは、音楽の専門学校を卒業した頃だったように覚えています。メンバーそれぞれ自分の得意とするジャンルは様々で、ソウルが好きだったり、はたまたパンクが好きだったり、ジャズが好きだったりと、どちらかと言うと一見お互い引き合うはずも無いような、アンバランスな組み合わせでしたが、この5人が集まった時に何故かお互いに一致するキーワードは70年代J-POPでした。
当時は、ギターロックやガレージロックが溢れる中、ライブハウスではフォークテイストだったり百恵ちゃんのカバーをしたりとめちゃくちゃ浮きまくっていましたが、周りがやっていない事をやるのは快感であり、その時代にその音を出す事にとても意義を感じていました。きっとそんな部分に自分たちの居場所を見出した瞬間が、キンモクセイの誕生だったのではないでしょうか」。
キンモクセイのボーカル伊藤俊吾さんは、バンド結成当時について、こう振り返ります。
1999年10月、神奈川県相模原市に生まれた伊藤俊吾は、音楽仲間で高校の同級生・白井雄介と、彼の幼なじみの後藤秀人、そして音楽仲間の佐々木良、張替智弘の5人で、バンド「アジアンオールスターズ」を結成。翌2000年、バンド名を「キンモクセイ」と変更した彼らは、東京・下北沢のライブハウスに出演した際に、レコード会社「BMGファンハウス」のスタッフと出会います。
「僕がキンモクセイに初めて出会ったのは、別のバンドを観るために、下北沢のライブハウスに行った時、たまたま早く着きすぎて、偶然、彼らのライブを観たのがキッカケです。キンモクセイは、ライブの中にMCや、お客さん達との掛け合いがほとんど無くて、メンバーのルックスもパッとせず、"地味なバンド"と言うイメージしか持てませんでした。ただ、年齢が若いバンドにもかかわらず、彼らは、ちょっと懐かしい、昭和の歌謡曲の匂いがする曲を演奏していて、当時のインディーズやメジャーで活躍していたバンドとは、あきらかに違う所に、僕は、興味を持って、声を掛けたんです」。
後に、「BMGファンハウス」で、キンモクセイのA&Rを担当することになる、山口さんは、彼らとの出会いをこう振返ります。
こうして、メジャーデビューへの一歩を踏み出したキンモクセイは、対バン形式を中心に、ライブを積極的に展開していきます。
「僕は、ライブを数多くこなしていく中で、キンモクセイを徹底的に鍛えて、どんなステージに出ても、他のバンドとちゃんと差別化ができる、そんなバンドにしたいと、思ったんです」。山口さんは、キンモクセイのデビュー直前の頃について、こう語ります。
キンモクセイは、2001年1月に自主制作CD「キンモクセイ約18分」をリリースした後、全国14ヵ所を回るライブハウスツアーを行い、10月に、メジャー1stシングル「僕の行方」をリリースするのでした。
「もちろん、この曲の歌詞の中に、"なごり雪は降らない"とあるのは、かぐや姫の名曲「なごり雪」にちなんだフレーズです。「なごり雪」に出てくる駅での別れのシーンを、この曲の物語の主人公が自分に重ねています。「なごり雪」の曲の中では、"季節外れの雪"が切ない別れに情感や非現実感を与えていますが、この曲「僕の行方」では実際には雪は降ってくれない現実の無機質さを表現しました」。キンモクセイの伊藤俊吾さんは、自らのデビュー曲を、こう語ります。
ロックバンドでありながら、1970年代の歌謡曲を彷彿させるようなキンモクセイのサウンドは、懐かしさと新鮮さが重なり合った、不思議な音の空間を生み出し、世代を越えた幅広いファンを獲得します。
1stシングルに続いてキンモクセイは、翌2002年1月にリリースが予定されていた2ndシングルに、デビュー直前に伊藤が作った曲を選びます。
「この曲は、僕達が、デビュー直前に作った曲の中のひとつです。メジャーデビュー、という具体的な目標が決まり、メンバー全員が1970年代を意識したサウンドを作る事に夢中になっていた頃で、バンドとしても、キンモクセイのオリジナルサウンドを確立したい、という気持ちが、沸々と湧きあがり、まさに、その気持ちが頂点に達しようとしていた時期に作った曲なんです。この曲は、冬にリリースされた曲で、どちらかと言うと、凛としたイメージがサウンドにあるような気がしますが、意外にもこの曲を作っていたのは、真夏の暑いエアコンの効かない実家の自分の部屋で、暑さと戦いながら作った事を覚えています」。
「歌詞について言うと、僕の中ではとにかく「情景描写」がテーマでした。一つでも多くの情景を誰かと共感してみたいという気持ちが、言葉数の多さや、"化学工場"や"橋の継ぎ目"などの細かいディテールの多さに現れているんだと思います。歌詞や物語の世界観ももちろんポイントですが、何よりも70年代のニューミュジックを意識したサウンド面にもこだわりました。70年代を代表するエレクトリック・ピアノ「フェンダー・ローズ」にトレモロをかけた浮遊感のあるサウンドや、ティンパンアレイを彷彿させる都会的なノスタルジックがより郷愁や切なさを誘うのだと思います」。メンバーの伊藤俊吾さんは、この曲のこだわりについて、こう語ります。
さらに、A&Rの山口さんのアイディアで、サウンド面だけでなく、ビジュアル面からも1970年代の懐かしい匂いを感じてもらうために、CDジャケットのデザインを、当時発売されていたインスタントラーメンのパケッケージを真似て作ります。
こうして、2002年1月、1970年代にこだわって作った、キンモクセイの2ndシングル「二人のアカボシ」は、リリースされるのでした。
2002年1月にリリースされた、キンモクセイの2ndシングル「二人のアカボシ」は、セールスチャート最高位10位を記録、全国のラジオ局31局ものパワープレイを獲得します。また、翌2月には、全国を地域毎に分けてCDパッケージデザインを変更した限定盤を3種類発売して、これも話題を集めます。
「この曲がヒットした事がキッカケで、その年の『NHK紅白歌合戦』にも出場するなど、この曲は、キンモクセイのメンバーそれぞれがデビュー前から模索していた、キンモクセイのオリジナルサウンドの到達点であり、スタートラインでもあったような気がします。曲を作った僕にとっても、その後自分が曲を作っていく上での、物差しにもなっています」。最後に、メンバーの伊藤俊吾さんは、こう振り返ってくれました。
バンドが進むべき道を切り拓いた、J-POP、冬の名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.夢の中へ/井上陽水
M2.僕の行方/キンモクセイ
M3.二人のアカボシ/キンモクセイ
223回目の今日お届けしたのは、「高野寛&田島貴男/Winter's Tale~冬物語~」でした。
「僕が、昔から憧れていたのは、ティン・パン・アレイやYMOといった、ソロミュージシャンが集まって生まれたグループでした。グループとしての活動だけじゃなく、メンバーそれぞれのソロアルバムに、お互いがゲスト参加したりする、ミュージシャン同士の音楽的な繋がりに憧れていたんです。自分がプロミュージシャンになってから、その思いはより強くなって、僕もいつかは、その境地に辿り着きたいと思い続けていたんです」。
高野寛さんは、これまで様々なミュージシャンとセッションをしてきた理由について、こう振り返ります。
1964年12月、静岡県三島市に生まれた高野寛は、13歳の時に、兄の影響でギターを弾き始め、1980年に地元の高校に入学後は、友人達とバンドを結成。YMO、ザ・ビートルズ、トッド・ラングレンなど、幅広い音楽を聴き、それらを参考にして曲を作り、その曲を、自宅で録音し始めるようになります。
1986年、高野寛は、大阪芸術大学芸術学部に在学中に、元YMOの高橋幸宏、ムーンライダースの鈴木慶一の二人が主催した「究極のバンド」オーディションに、ギタリスト志望で応募し、見事合格。翌1987年に、高橋と鈴木が作った音楽ユニット「The Beatniks」が行ったライブツアーに、ギタリストして参加します。
「幸宏さんと、慶一さんが主催した、「究極のバンド」オーディションの狙いは、バンドそれぞれのパートの合格者を集めて、新たなバンドを作る事だったんですが、デモテープまで作った段階で、メンバーの考え方の違いからバンド構想は空中分解し、立ち消えになってしまったんです。ただ、僕は、幸宏さんに、ギタリストとしての才能を評価してもらって、The Beatniksのライブツアーに参加する事が決まったんです」。
憧れのミュージシャンのひとりもでもあった高橋幸宏の誘いで、ギタリストとして、The Beatniksのツアーに参加した高野寛でしたが、その一方で、高橋幸宏から、ある提案を受けます。
「僕がオーディション用に作った曲を聴いた、幸宏さんから、"シンガーとして、自分で歌ってみれば"と言れたんです。全く予期していなかった、幸宏さんの言葉に、僕は、自分が歌う姿をイメージできず、最初は戸惑いを感じたんですが、最終的には、思い切ってチャレンジする事にしたんです」。
こうして、高野寛は、シンガーソングライターとしてデビューする事を決意。1988年10月に、1stシングル「See You Again」をリリースするのでした。
1988年10月、高野寛は、高橋幸宏がプロデュースを手掛けた1stシングル「See You Again」と、アルバム『hullo hulloa』をリリース。新人離れした、その非凡なポップ・センスは、音楽関係者の高い評価を集めます。
翌1989年7月、高野寛は、初めてセルフプロデュースで作った2ndアルバム『RING』をリリースした後に、翌1990年に発売予定の3rdアルバムを、ロック・ミュージシャンのトッド・ラングレンにプロデュースしてもらうために、ニューヨークへ渡ります。
「1stアルバムを作り終えた直後に、僕が所属していたレコード会社に、トット・ラングレン側から、"日本人アーティストをプロデュースしたい"、というオファーがあったんです。僕が、トッド・ラングレンの大ファンだったのを知っていた担当ディレクターが、完成したばかりの1stアルバムの音源を、トッド側に送って、あっという間にプロデュースしてもらう話が決まったんです。その時、既に2ndアルバムの制作は始まっていたので、2ndアルバムはセルフプロデュースで作って、その次の3rdアルバムをトッドにお願いする事にしたんです」。
こうして、トッド・ラングレンがプロデュースを手掛けた高野寛の3rdアルバム『CUE』は、1990年3月にリリースされ、そのアルバムに先駆けて、4枚目のシングル「虹の都へ」が2月にリリースされるのでした。
1990年2月にリリースされた、高野寛の4枚目のシングル「虹の都へ」は、スポーツメーカーMIZUNOの、スキーウェアのCMソングに起用され、セールスチャート最高位2位、約50万枚の売上を記録し、高野寛にとって初めてのヒットナンバーとなります。
「トッド・ラングレンから、色々な事を学んだ中でも、特に印象に残っているのが、 "あらゆるプロデュースの中でも、セルフプロデュースが一番難しい"、という言葉です。アマチュア時代から自宅録音を始め、セルフプロデュースを当たり前のように思っていた僕の自信は、簡単に打ちのめされました。他人の事をあれこれ言う事は簡単だけど、自分を客観的に見るのは、本当に難しいと思いますし、プロデュースにおいて客観性が重要なことは、今でも、身に沁みて実感しています。」。
1992年、高野寛は、5枚目のアルバム『th@nks』の制作を、ゲストミュージシャンに忌野清志郎、大貫妙子、高橋幸宏らを迎えて行います。
「憧れの存在でもあった超一流ミュージシャンの方々と実際にアルバム制作が始まった時、僕は、とにかく緊張していたんですが、先輩方は、時にはユーモアを交えながら、まずはコラボレーションを楽しむことを教えてくれたんです。仕事への集中力、多彩なアイディア、豊富な知識、とにかく、たくさんのことを学ぶことができました」。
こうして、高野寛は、トッド・ラングレンからプロデュースの難しさを、憧れの先輩ミュージシャン達からは、アーティスト同士のコラボレーションの有り方について学んでいきます。そんな高野寛の下へ、1992年の夏、所属レコード会社の東芝EMIから、ひとつの提案がなされます。
「それは、僕の音楽仲間でもあった、オリジナル・ラブの田島貴男と一緒に曲を作って欲しいという提案でした。僕が彼と知り合ったのは、以前、田島貴男がオリジナル・ラブと、フリッパーズ・ギターの前身バンド「ロリポップ・ソニック」の、二つのバンドを掛け持ちしていた頃で、渋谷のライブハウスで彼らのライブを観た後、音楽的に意気投合して、仲良くなっていたんです。その田島君が、オリジナル・ラブとして、僕と同じ東芝EMIから1991年にデビューして、この時、一緒に曲を作る事になったんです。」
高野寛は、メロディ作りを、田島貴男に任せ、高野自身は歌詞を書くことを決めます。
「曲作りの作業は、僕のスタジオに、田島君がソウルの名曲が入ったカセットテープを持ってきて、そのカセットテープを聴くところから始まったんです。とにかく田島君が、アイディアを次々と出してくるので、どうやってまとめれば良いのか、苦労しました。完成したメロディに、僕は歌詞を書いたんですが、アルバム『th@nks』を作る時に、ミュージシャンの先輩方から学んだ、コラボレーションを楽しむことを大切に、歌詞にオリジナル・ラブの1stアルバムのタイトルを入れてみたり、CDジャケットのビジュアルにも、フリッパーズ・ギターのパロディを加えてみたりと、田島君が楽しんでくれるようなアイディアを詰め込んだんです」。
こうして、1992年11月、サッポロビール「冬物語」のCMソングとして起用された、高野寛&田島貴男の「Winter's Tale~冬物語~」は、リリースされるのでした。
1992年11月にリリースされた、高野寛&田島貴男のシングル「Winter's Tale~冬物語~」。
「スタジオで、田島君と一緒に盛り上がったことは、今でもハッキリと覚えています。二人で思いついた事を、物凄いスピードで形にして作ったこの曲は、曲を作る作業の中でも、レコーディング作業でも、悩んだ記憶がありません。そんな形で曲が完成する事は滅多になく、音楽の神様からプレゼントを貰ったような気分で作った曲です。トッド・ラングレン、そしてミュージシャンの先輩方から学んだ、プロデュース、コラボレーションの極意が活かされた感じです。」最後に、高野寛さんは、こう振り返ってくれました。
憧れのミュージシャンから学んだポップスの魔法が、J-POP、冬の名曲を生みだした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.テクノポリス/YMO
M2.See You Again/高野寛
M3.虹の都へ/高野寛
M4.Winter's Tale~冬物語~/高野寛
222回目の今日お届けしたのは、「FUNKEY MONKEY BABYS/それでも信じてる」でした。
「彼らは、ヒット曲を出して、自分達の車を持ったり、美味しいご飯を食べて肌の艶が良くなった部分はあるかもしれませんが、泥臭くてハングリーな音楽に対する一途な姿勢は、デビュー前から何も変わっていません。それが、彼らの良さでもあり、強みだと、僕やスタッフは思っています」。
デビュー前から、レコード会社でFUNKEY MONKEY BABYSの制作担当ディレクターを務めている若尾さんは、こう語ります。
2003年12月、東京都八王子市を中心に、ソロラッパーとして活動していたファンキー加藤は、クラブイベントを通じて知り合った、同じ八王子出身のMCモン吉、そしてモン吉の友人でDJのケミカルの3人で、HIP HOPグループ「FUNKEY MONKEY BABYS」を結成します。
2005年3月、FUNKEY MONKEY BABYSは、イベントで知り合った「ケツメイシ」のDJ KOHNOの勧めで、当時TFM系で放送されていた、ケツメイシのラジオ番組『ナイトレンジャー』のデモテープオーディションに応募し、準優勝に輝きます。それをキッカケに、FUNKEY MONKEY BABYSは、関東各地のクラブに出演するようになり、横浜のクラブ「LOGOS」に出演した際に、現在の所属事務所のスタッフと出会い、メジャーデビューが決まります。
「僕が彼らに初めて出会ったのは、2005年の春で、上司に、"面白いバンドがいる"と言われ紹介されたんです。当時は、ケツメイシ、RIP SLYMEと言った日本のHIP HOPミュージシャン達が、ポップスの要素を取り入れた曲を相次いでリリースして、お茶の間にも、HIP HOPと言う音楽ジャンルが少しずつ浸透し始めた時期でした。そう言った意味でも、FUNKEY MONKEY BABYSがデビューするタイミングは、恵まれていたと思います」。
こうして、2006年1月にFUNKEY MONKEY BABYSは、1stシングル「そのまんま東へ」をリリース。タレントの「そのまんま東」をCDジャケットに起用したシングルは、音楽ファンの間で話題を集めます。
その後もFUNKEY MONKEY BABYSは、HIP HOPやラップをベースに、特定の音楽ジャンルに縛られることのない、オリジナルサウンドで勝負。6月には、3枚目のシングル「ALWAYS」をリリースするのでした。
2006年6月、FUNKEY MONKEY BABYSは、3枚目のシングル「ALWAYS」をリリースした後も、7月には1stアルバム『FUNKEY MONKEY BABYS』をリリース。そして翌2007年1月にリリースした、4枚目のシングル「Lovin' Life」が、セールスチャート最高位10位に。さらに、5月にリリースした5枚目のシングル「ちっぽけな勇気」が、チャート最高位8位を記録します。
「この頃の彼らは、まるでジェットコースターのように、一年、二年先と言った未来の事よりも、明日、一週間先、長くても一ヵ月先までと言った、目先の事に対して、必死で取り組むことしか考えられない程、仕事に追われるようになっていたんです。でも、忙しさを極めていたけれど、彼らは、何でも真剣に取り組み、色んな事を提案し、挑戦してくれたんです」。
曲を聴いた誰もが喜び、楽しんでもらえるようにと考えたFUNKEY MONKEY BABYSの音楽は、世代を越えて多くの人達から支持を集めます。そして、2009年6月には、初の単独日本武道館ライブを実現させたファンモンは、その年のNHK紅白歌合戦に、11月にリリースした11枚目のシングル「ヒーロー」で、初出場を果たすのでした。
「彼らは、デビュー前からずっと、"身近な人のために笑顔や元気を与えることができる、応援歌を作りたい"という気持ちで曲を作り続けています。曲が売れて、どれだけお金持ちになったとしても、彼らをずっと応援し続けてくれている地元八王子の人達や、スタッフ、そしてファンに対する感謝の気持ち、さらに生活者の目線を忘れず、その思いを、歌詞に落とし込んでいるんです。このヒーローにも、そんな気持ちが、シンプルに盛り込まれています」。
2011年に入って直ぐ、テレビ朝日から、FUNKEY MONKEY BABYSへ、4月から始まるドラマの主題歌のオファーが届きます。
「ドラマのストーリーが、学園物だったので、最初は"青春"をテーマに、明るく、元気でアップテンポな曲を作っていたんです。
ところが、曲が完成する直前の3月11日、東日本大震災に彼らは遭遇します。3人は、ちょうど福島でのライブを終えた帰り道で、新幹線の中に11時間も閉じ込められた後、救出され、やっとの思いで東京に戻ってきたんです。数日後に、レコーディングは再開されるんですが、3人は"僕達ミュージシャンは、今回の地震で被災された方のために、何ができるんだろうか?""今、明るく、元気な曲を作っていいんだろうか?"という気持ちに苛まれまれてしまうんです」。
メンバーは、1年前からファンモンのプロデュースを担当していたYANAGIMMANに悩みを相談します。すると彼は、新たな曲のコードをレコーディングスタジオのピアノで弾きはじめます。
「YANAGIMANが、何気なしに弾いていたコードに、メンバーの加藤が"それです!"と声を上げたんです。そこから、一気に新しい曲作りが始まったんです」。
ファンモンらしい、明るく、聴く人誰もが思わず元気になっていくような力強いメロディで作っていた曲は、みんなの心が寄り添っていくような、優しい癒しの歌へと変化していきます。
「メロディを変えた事で、当然、歌詞も書き換える事になりました。もとの歌詞は、"頑張れ"と言って、強く背中を押すようなイメージのものでした。それが、何も言わずに肩を並べて、同じ空と大地をただ一緒に見る。それだけでも全然違うし、ぬくもりは、ちゃんと伝わるはず。そう言ったメッセージを持った歌詞に変える事にしたんです。そして、そう考えた時、メンバー自身が、震災直後は、見失いかけていた音楽の力を、"もう一度信じてみよう。何があっても、とにかく信じ、願っていこう"と思い直し、そういう気持ちを言葉に込めていったんです。さらに加えて、川村結花さんに、歌詞の補作をお願いしました。自分達の力だけに留まらず、専門家のアイディアを加える事で、より良い作品に仕上げていこうと、メンバー自信が強く思ったからなんです」。
こうして、2011年6月、テレビ朝日系ドラマ『アスコーマーチ』の主題歌として起用された、FUNKEY MONKEY BABYSの16枚目のシングルとなる、シングル「それでも信じてる」が、リリースされるのでした。
2011年6月にリリースされた、FUNKEY MONKEY BABYSの16枚目のシングル「それでも信じてる」。
「何があっても、希望を捨てず、祈り、願い、信じ続けることで、次への一歩が開けてくるという、ファンモンの思いが込められたこの曲は、東北の人達からはもちろんですが、東北地方以外の人達からも、たくさんの共感をいただきました。歌ができる事は少ないかもしれないけど、いつも自分たちを応援してくれる人達のために"何かをしたい"というファンモンの気持ちが、心の底から伝わったんでしょうね」。最後に、若尾さんは、こう振り返ってくれました。
メンバー自身が、震災に遭遇した事をキッカケに、信じる事の大切さを改めて強く感じた、
J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.そのまんま東へ/FUNKEY MONKEY BABYS
M2.ALWAYS/FUNKEY MONKEY BABYS
M3.ヒーロー/FUNKEY MONKEY BABYS
M4.それでも信じてる/FUNKEY MONKEY BABYS
221回目の今日お届けしたのは、「ネオンパーク/デスクデスマスクリスマス」でした。
「当時、日本ではやっと認知され始めていたHIP HOPやラップは、まだまだ洋楽性が高く、彼らがやっていた、ラップを日本語で遊ぶ音楽に、僕は新鮮さを感じていたんです。そんな時代の先駆けになりそうだった新しい音楽に、僕の働いていた音楽事務所「ジャグラー」も、音楽的なチャレンジ精神に溢れていたエピックソニーも可能性を感じたんです」。当時、音楽事務所ジャグラーで、ネオンパークの制作担当を務めた原田さんは、こう振り返ります。
1994年、早稲田大学の音楽サークル出身で、出版社に勤めていた井石淳、広告代理店の営業マンだった吉倉哲志、そして医療メーカーの営業マンをしていた木村浩の3人は、友人の紹介で知り合ったボイストレーナーの麻生郷子を加えて、バンド「ネオンパーク」を結成します。
「バンド名の由来となったのは、アメリカのロックバンド「リトル・フィート」のジャケットデザインなどで知られるイラストレーター、ネオンパークです。井石、吉倉、木村の3人は、昼間はサラリーマンとして働き、その日頃の生活で溜まったストレスを、おもしろ可笑しく作った音楽を通じて発散したいと考えてバンドを作ったんですが、その考え方が、イラストレーター・ネオンパークの、人間の潜在的意識や感情をパロディ化した作風と、相通じる部分があると思い、バンド名をネオンパークと名付けたそうです」。
バンド結成から1年近く経った1995年のある日、井石らネオンパークのメンバーは、自分達が作ったデモテープを、いくつかの音楽事務所やレコード会社に送付。その内の1本が、当時音楽事務所ジャグラーに勤めていた、原田さんの耳にとまります。
「歌詞が優れているとか、メロディが良かったとかじゃなく、ただ単純に聴いて"面白い"と思ったんです。デモテープを聴いた直後、ちょうど、渋谷のライブハウス「ラ・ママ」で彼らのライブがあったので、観に行ったんです。お客は、僕を含め数人足らずだったんですが、スーツ姿でメガネを飛ばしながら激しく踊りまくる井石と、紅一点、麻生の2MCスタイルで歌うネオンパークの音楽は、カテゴリーを限定するのは難しいけど、分かり易く言えばラップでした。初めは、"コミカルなバンドだな"と思って観ていたんですが、演奏している彼らの、真剣な姿と歌のギャップが面白くて仕方なかったんです」。
こうして、ネオンパークを気に入った原田さんは、彼らをメジャーデビューさせるために、レコード会社数社に打診。その結果、エピックソニーと契約を結びます。
「ネオンパークにとって幸運だったのは、当時のエピックソニーは、音楽性も大事だけど、独創性に溢れた、それまでにない音楽に積極的に取り組んでいく、チャレンジ精神に溢れていたことです。
ネオンパークの制作担当ディレクターになった山田勲さんも、既存の枠に捉われない、チャレンジ精神豊富な制作ディレクターでした。もっとも、この山田さんは、もともとは、家電メーカーのソニー本社から出向してきた方で、ソニー時代にはDATの開発にも関わった技術畑出身の方でした。だから、ネオンパークも、新商品を開発するのと同じように、面白がってくれたんじゃないかと思います」。
こうして、1996年9月、ネオンパークは、1stシングル「用がなければ帰ります」をリリースするのでした。
1996年9月、ネオンパークは、1stシングル「用がなければ帰ります」をリリースします。
「彼らが、デビューにあたって準備したオリジナル曲は、およそ40曲。その中から、まずはシングル2曲と、アルバム用の曲を選び、1stシングルに選んだのが、この「用がなければ帰ります」です。当時は、サラリーマンの間で、サービス残業が当たり前のようになり始めた時期で、現役バリバリのサラリーマンだった井石、吉倉、木村の3人は、自分達の心境を含めて、世の中のそう言った状況をパロディ化し、皮肉を込めて曲を作ったそうです。ディレクターの山田さんも、エピックソニーに転籍してくるまでは、いわゆるサラリーマンだったし、"彼らの気持ちは、よく分かる"と言ってくれたんです」。
曲を作った本人達は、いたって真面目に作ったと言うものの、世相を皮肉ったネオンパークがリリースした、1stシングル「用がなければ帰ります」は、ニッポン放送を始め、ラジオ各局でOAされると、話題を集めていきます。
さらに、1stシングルのリリースから2ヵ月後の11月に、2ndシングルをリリースされる事が決まり、ネオンパークのメンバーは、次の曲も、彼らが曲を作る時にコンセプトにしていた、サラリーマンの日常生活を柱に、そこに、季節ネタのクリスマスを盛り込んだ曲を選びます。
「僕は、この曲をオーソドックスなクリスマスソングにするつもりは無く、どうアレンジしたら面白くなるか考えて、ちょっと独創的な弦楽器のアレンジを加える事を思いついたんです。そこで僕は、以前、遊佐未森の担当をしていた時に、彼女の曲を、弦のアレンジで、スケール感溢れるものに仕上げてくれた、作曲家の野見祐二さんにお願いしたんです。当時、野見さんは、坂本龍一さんの楽曲アレンジや、スタジオ・ジブリの作品『耳をすませば』の音楽を担当していました。ネオンパークの曲は、歌と言うよりも、ただ歌詞を朗読し、サビの部分だけ歌っている、といった、平坦なイメージの曲だったんですが、野見さんのアレンジを加えた事で、クリスマスの夜に、雪が深々と降ってくるイメージと、不思議なスケール感を表現することができたんです」。
こうして、1996年11月、ネオンパークの2ndシングル『デスクデスマスクリスマス』は、リリースされるのでした。
1996年11月、ネオンパークがリリースした、2ndシングル「デスクデスマスクリスマス」。
「当時、僕が居た音楽事務所「ジャグラー」は、既存の枠に捉われない個性的なアーティストを見つけて、育てるのが大好きな会社で、一方、エピックソニーも、夢中になって新しい物を探していたレコード会社だったんです。この2社が組んだからこそ、ネオンパークもメジャーデビューできたのかもしれないし、今でもこうやって、一部の音楽ファンの間で伝説になっているバンドなのかもしれません。彼らが、メジャーで発売した曲は、たった2曲だったかもしれないけど、クリスマスの時期になると、思いだして聴いてもらえる曲になった事は、彼らにとっても幸運だったと思います」。最後に、原田さんはこう振り返ってくれました。
チャレンジ・スピリッツ溢れるスタッフとの出会いが、
個性溢れるJ-POPクリスマスソングを産み落とした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.用がなければ帰ります/ネオンパーク
M2.デスクデスマスクリスマス/ネオンパーク
220回目の今日お届けしたのは、「EPO/12月のエイプリル・フール」でした。
「私にとっての20代は、音楽的な反抗期そのもので、ポップスなんかもう嫌だ。私らしい音楽を作りたい。そういった、プレッシャーとストレスが続く日々の連続だったんです。でも、デビューから30年近く経った今、改めてこの時に作った曲を聴き直してみると、ポップスの素晴らしさや楽しさを実感することができるんです」。EPOさんは、デビュー間もない頃に作った自身の音楽について、こう語ります。
1960年5月、東京都に生まれた佐藤永子ことEPOは、彼女が3歳の時に、ピアノを習い始め、父親の影響でクラシックを聴いて育ちます。その後、EPOは、カーペンターズを中心とした70年代ポップス、山本直純、小林亜星と言った、日本の作曲家が作ったコミカルなCMソングを聴いて、歌が聴く人を引き付ける魅力に取りつかれ、彼女自身も、自分が書いた日記の文章に、ピアノで曲を付け始めるようになります。
1976年春、EPOは都立高校に入学すると、学校の先輩達と4人組バンド「Laugh」を結成し、彼女は、ピアノとバックコーラスを担当します。翌1977年、Laughは、オリジナルソングを作って、当時ニッポン放送でオンエアされていたコンテスト番組『ライオン・フォーク・ビレッジ』で優勝、メジャーデビューのチャンスをつかみます。
しかし、EPOより一つ年上だった、他のメンバーは、大学進学を控えメジャーデビューを断念、Laughは解散することとなります。
「Laughは解散して、バンドとしてのデビューの話は消えたんですが、私自身は、レコード会社から、ソングライティング力と、コーラス・ワークを評価してもらって、シンガーソングライターとしてのデビューを誘われたんです。ただ、私は、その時、推薦入試で東京女子体育大学へ進学するつもりだったので、"1年待って欲しい"とお願いしたんです」。
1979年、EPOは、東京女子体育大学に入学後、竹内まりやなどのバックコーラスとして音楽活動を再開します。また、実際に使われることはありませんでしたが、大瀧詠一が作ったサントリーレモンのCMソングを、デビュー直前のシャネルズ(後のラッツ&スター)と共演するなど、EPOは、着実にシンガーとしての評価を高めていき、1980年3月に、1stシングル「DOWN TOWN」でデビューするのでした。
1980年3月、EPOは、1stシングルとして、山下達郎が在籍していたシュガーベイブの代表曲「DOWN TOWN」のカバー曲をリリースします。
「シュガーベイブの代表曲でもあるこの曲を、1stシングルに選んだ理由は、私が候補として作った曲の中に、1stシングルとしてピッタリの曲が無かったのと、シュガーベイブを、私が大好きだったからです。スタジオで、スタッフと選曲について話をしていた時に、偶然にもスタジオの前を山下達郎さんが通っていたので、私は走って追いかけて、"シュガーベイブの曲をカバーさせてください"と言って、お願いしたんです。当時、同じRCAレコード所属していた山下達郎さんは、直ぐにOKしてくれて、1stシングルに決まったんです」。
こうして、EPOが歌ったシュガーベイブのカバー曲「DOWN TOWN」は、リリースから1年経った翌1981年5月に、フジテレビ系のバラエティ番組『オレたちひょうきん族』のエンディング・テーマ曲として起用されます。また同時に、EPOが番組オリジナルで作った、ジングルも使われて、彼女の名前は、音楽ファン以外の幅広い人達にも、知られていきます。
「この頃の私は、大学を中退して、音楽活動に専念しはじめた頃でした。しかし、自分が信念を持って作りたいと思っていたポップスナンバーが、レコード会社の人からは、"売れないから"と言った理由で却下されて、自分の曲に対する想いを、どう表現すればいいのか、分からなくなっていた時期でもあったんです」。
EPOは、彼女自身が抱えていた音楽活動に対する悩みや不安感を心にしまい込み、表面上は、平然を装って音楽活動を続け、1983年2月に、5枚目となるシングル「う、ふ、ふ、ふ、」をリリースするのでした。
1983年2月にリリースされた、EPOの5枚目のシングル「う、ふ、ふ、ふ、」は、資生堂の春のキャンペーンソングとして起用され、ヒットします。
「CMソングに使われた事で曲は売れ、"EPOはいつも元気な音楽を歌っている"といったイメージが、音楽ファンに広がっていったんです。しかし、実際には、この頃の私は、プレッシャーとストレスで、精神的にも体力的にもボロボロで、体調を壊す事も度々あったんです」。
売れる音楽と自分のやりたい音楽のギャップに、もがき苦しんでいたEPOは、翌1984年に、レコード会社をRCAレコードから、新しく誕生したばかりのMIDIに移籍します。
1984年2月、EPOは、高見知佳に楽曲「くちびるヌード」を提供。春の資生堂のキャンペーンソングに起用されたこの曲は、セールスチャート最高位16位を記録するヒット曲となって、EPOはソングライターとしても才能を開花させていきます。
「他のアーティストに曲を提供したのは、この時が初めての経験だったんですが、自分の曲を作る時とは違った、楽しさを感じる事ができたんです。自分の曲を作る時は、実体験をモチーフに曲を作る事が多かったんですが、他の人の曲は、もう少し客観的に、曲を作る事ができたんです。私の曲作りに欠けていたもの、それが客観性だという事に、気がついたんです」。
EPOは、1985年に入ってCMソングを含む3枚のシングルをリリースした後、4枚目のシングルに、彼女自身の体験をモチーフにしたクリスマスソングを作る事を決めます。
「曲作りを始めた頃、それまで、私の中では"オンリー・ワン"だと思っていたボーイフレンドが、実は"オール・オブ・ワン"だった事が分かったんです。せつなくて、やりきれない、辛い想いを持ったままでも、仕事はしなくちゃいけませんでした。
それから、クリスマスは、女の子にとっては特別な日のはずなのに、音楽を仕事にしていた私にとっては、仕事が入る確率が高くて、毎年、友達やボーイフレンドとも約束ができなくて、大嫌いな日でもあったんです。そこで、その二つの想いを、上手く組み合わせて、歌詞を書きました」。
こうして、1985年11月、EPOが彼女自身の、辛い想いをモチーフに書いた、10枚目のシングル『12月のエイプリル・フール』は、リリースされるのでした。
1985年11月にリリースされた、EPOの10枚目のシングル「12月のエイプリル・フール」。
「曲を作った当初は、ただ季節感を大切に、曲の中にどれだけ自分の経験を投影できるかだけを考えて歌っていました。しかし、時が経ち、クリスマスを意識し始める毎年冬の始めになると、この曲がテレビやラジオから必ず流れ、私のライブでもこの曲を楽しみに待っている人が増え続けているんです。しかも、ライブにやって来た人達から寄せられるメッセージを読んでみると、実は同じような体験をした人が沢山いる事が分かったんです。自分がもがき苦しみながらも作った20代に作った曲が、発売から25年近く経った今でも、多くの人達に愛され続けている事を、私は、今、嬉しく思っています」。最後に、EPOさんはこう振り返ってくれました。
どうにもならない想いが、多くの女性たちの共感を呼ぶ、クリスマスソングを産み落とした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.トップ・オブ・ザ・ワールド/カーペンターズ
M2.DOWN TOWN/EPO
M3.う、ふ、ふ、ふ、/EPO
M4.12月のエイプリル・フール
219回目の今日お届けしたのは、「Pops All Stars/Yellow Christmas」でした。
「友人に、よく、"お前は、出会いの才能に恵まれてる"と言われるんです。たしかに、音楽人生を振り返ってみても、僕が、特別に何かをしている訳じゃないんですが、幸運にも、バンド活動を本格的に始めた大学時代、そして、プロミュージシャンとして活動を始めてからも、たくさんのミュージシャンと出会って、交流を温め、一緒に曲を作るチャンスに恵まれてきたんです。だから、僕にとって"出会い"とは、音楽人生を語る上で欠かせない、魔法の言葉なんです」。
杉真理さんは、自身の音楽人生を語る上で欠かせないキーワードについて、こう語ります。
1954年3月、福岡市博多区に生まれた杉真理は、彼が10歳の時に、ラジオから流れてきたビートルズの「のっぽのサリー」を聴いて音楽の虜になり、中学に入ると、見よう見まねでギター片手に曲を作り始めます。1972年春、杉真理は、慶応義塾大学工学部に入学すると、音楽サークル「リアルマッコイズ」に入部。そこで出会った、安部恭弘、竹内まりやと共に、アマチュアバンド「ピープル」を結成します。杉達が結成した「ピープル」は、ジェームス・テイラーのコピーバンドとして活動を始め、結成から数ヵ月後には、オリジナル・ソングを作ってアマチュアバンドコンテストに出場するようになります。
1974年9月、杉真理率いる「ピープル」は、「ヤマハポピュラーミュージック・コンテスト関東甲信越大会」に出場。この大会には、後に、杉真理の音楽人生に大きく関わってくる、佐野元春も出場していました。ピープルは、予選を勝ち抜き、12月に行われた決勝大会で、杉が作曲賞を受賞。その後、ピープルは、ヤマハのサポートの下でデモテープを作っていきます。1976年、ピープルが作ったデモテープが、ビクター音楽産業のディレクターの手に渡り、その、ポップ感溢れるサウンドが評価されて、翌1977年3月、ピープルは「Mari&Red Stripes」とグループ名を改め、1stシングル「思い出の渦」と、1stアルバム『MARI&RED STRIPES』を同時リリースするのでした。
1977年3月、杉真理は、安部恭弘、竹内まりやら、総勢16名のサポートメンバーを従えたバンド「Mari&Red Stripes」でデビューします。
「僕を含む16名が参加していたMari&Red Stripesは、ほとんど僕のソロプロジェクトで、毎月、都内のライブハウス等でライブを行うのが主な活動だったんです。ところが、翌1978年春、2ndアルバム『SWINGY』発売直後に、僕が体調を崩して入院する事になって、バンド活動は一時休止に追い込まれたんです」。
メジャーデビューを果たしたものの、僅か1年余りの活動で休養を余儀なくされた杉真理でしたが、彼は、1年半に渡る病気療養期間中に、ソングライターとして、音楽仲間の竹内まりや、須藤薫らに曲を提供していきます。そして1980年、体調が戻った杉真理は、CBSソニーに移籍して、7月に、ソロ名義で、アルバム『SONG WRITER』をリリース。翌1981年に入って、杉真理にとって、運命とも言える出会いが訪れます。
「僕が知人の結婚式に招待された時、出席者の一人に、大瀧詠一さんも同席していたんです。僕は、"はっぴいえんど"が大好きで、全く面識の無い大瀧さんに、"僕、大瀧さんの音楽大好きです。僕も音楽作っています"と挨拶したんです。その場では、何も無かったんですが、その後7月に音楽仲間の佐野元春達と一緒に出演したライブ会場に、大瀧さんが突然やって来て、"ナイアガラ・トライアングルの2ndアルバム作ります。メンバーは、僕と、ここに居る、佐野元春と杉真理です"と、多くの観客が見守る中で宣言したんです。何も知らされていなかった、僕と佐野は、ただ驚くばかりでした。実は、つい最近、伊藤銀次さんから、僕が結婚式で大瀧さんに挨拶した後に、大瀧さんは僕の音楽を聞いて、気に入ってくれて、それでメンバーに選んでくれた、と聞かされたんです。嬉しいですよね」。
こうして、大瀧詠一、そして当時はまだ無名に近い存在だった佐野元春、杉真理が参加したナイアガラ・トライアングルは、もともと大瀧詠一がソロ名義でリリースを予定していた「A面で恋して」を含む、アルバム『NAIAGARA TRIANGLE Vol.2』を、1982年3月にリリースするのでした。
1982年3月にリリースされた、ナイアガラ・トライアングルの2ndアルバム『NIAGARA TRIANGLEVol.2』は、セールスチャート最高位2位、約50万枚の売上を記録します。
「僕の音楽人生において、ナイアガラ・トライアングルに参加できた事は、大きな転機になりました。当時、僕は、ビートルズのようなポップとロックを融合させた曲を作りたかったんですが、既に解散していたビートルズの音楽は、古臭いイメージがあって、ただ、当時、売れていた音楽は、僕のやりたい音楽とは路線が違っていて、僕は、どんな曲を作ったらいいのか、迷っていた時期だったんです。そんな時に、大瀧詠一さんと出会って、"他人にどんな事を言われようが、自分がやりたい音楽を作ればいいんだよ"と、声をかけてもらえたんです。大瀧さんの言葉を聞いた僕は、開き直って、このナイアガラ・トライアングルで、ビートルズを意識した曲を作ったんです。それが、この「Nobody」です」。
大瀧詠一の言葉から、迷いを脱した杉真理は、自分が思うように曲をつくり始め、自らが歌うだけでなく、他のアーティストとセッションしたり、ソングライターとして曲を提供したり、そのポップスの才能を開花させていきます。そして、1986年に入ったある日、杉真理は、音楽仲間であり、彼の制作担当ディレクターを務めていた、CBSソニーのディレクター須藤晃さんと共に、1枚のアルバムを企画します。
「僕と須藤さんは、CBSソニーに所属していた安部恭弘、南佳孝、楠瀬誠志郎、浜田省吾らに声を掛け、全曲オリジナル・ソングで構成した、クリスマス・アルバムを作る事を考えたんですが、CBSソニーだけでなく、レーベルを越えて、音楽仲間の、飯島真理、epo、ピチカート・ファイブ、PSY'Sが参加してくれたんです」。
杉真理は、アルバムからのリード・トラックのアレンジをPSY'Sの松浦雅也に依頼します。
「僕は、楽しい音楽を作るなら、100回打合せをするよりも、まずは1回音を出して、その人の音楽観を掴むことを大切にやってきました。松浦さんともこの時初めて仕事をしたんですが、松浦さんを信頼し、アレンジを全てお任せしたんです。
それから、歌詞には、参加してくれた南佳孝、浜田省吾など、アーティストそれぞれを連想させる言葉を散りばめ、そのパートをそれぞれに歌ってもらったんです」。
こうして、1986年11月、杉真理がプロデュースを手掛けたPops All Starsのアルバム『Winter Lounge』と、シングル「Yellow Christmas」は、同時リリースされるのでした。
1986年11月にリリースされた、Pops All Starsのシングル「Yellow Christmas」。
「大瀧詠一さんに誘われて、ナイアガラ・トライアングルに参加した事がキッカケで、複数のミュージシャンが参加して、1枚のアルバムを一緒に作る楽しさや難しさを経験させてもらって、その経験をこのPops All Starsのアルバムに活かす事ができたんです。僕にとって魔法の言葉でもある、"出会い"が、大きな財産に生まれ変わった。そんな思い出深い曲ですね」。最後に、杉真理さんはこう振り返ってくれました。
音楽仲間との出会いが繋いだ、日本のクリスマスを盛上げる、J-POPナンバーが生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Long Tall Sally/ザ・ビートルズ
M2.思い出の渦/Mari&Red Stripes
M3.Nobody/ナイアガラ・トライアングル(杉真理)
M4.Yellow Christmas/Pops All Stars
218回目の今日お届けしたのは、「大澤誉志幸presents/Dance To Christmas」でした。
「1976年に駒澤大学に入学して、音楽サークルに入るんですが、そこの先輩から誘われて結成したのが"クラウディ・スカイ"でした。最初、ギタリストになりたかったんですが、バンドにボーカルが居なかったので、メインボーカルに仕立てあげられたんです。」。
大澤誉志幸さんが、当時についてこう振り返るバンド「クラウディ・スカイ」は、その後、渡辺プロダクション主催したオーディションに合格し、1981年4月、デビューシングル「悲しきコケコッコ」をリリース。
その後、1stアルバム『明日はきっとハレルヤ』もリリースしますが、音楽性の違いから、その年の暮れ、わずか8ヵ月余りで解散します。
「"クラウディ・スカイ"は、寄せ集めのようなバンドで、強い絆があった訳ではありません。ただ、バンドを解散した事で、若さゆえの喪失感があった事は事実です。僕は、その喪失感を埋めるために、一人でニューヨークに渡って、ブッカー・T・ジョーンズやオーティス・クレイなど、大好きだったブラック・ミュージックを聴くために、"アポロシアター"やジャズ・クラブに通って、その経験の中で、日々感じた事を、反映させながら、曲を作り、デモテープをいろんなところに送ったんです」。
1982年暮れ、大澤誉志幸は、1年近くに渡るニューヨークでの充電生活を終え日本に帰国。クラウディ・スカイ解散直後から始めた他のアーティストへの楽曲提供を本格化し、沢田研二や山下久美子らへ楽曲を提供していきます。そして1983年、大澤誉志幸自身も、エピック・ソニーと契約し、6月に、ソロデビューシングル「彼女には判らない」をリリースします。
その後も、彼自身の作品を積極的にリリースする一方で、作曲家としても他のアーティストに曲を提供し続け、その中でも彼がソロデビュー直前に中森明菜のために書いた曲「1/2の神話」が、セールスチャート1位を獲得し、大澤誉志幸は、まず、作曲家として注目を集めるようになります。
翌1984年、大澤誉志幸は、3枚目のアルバム制作のために滞在していたニューヨークで、ひとつの曲を作ります。「元々この曲は、鈴木ヒロミツさんの為に作った曲で、レコーディングが進まず、一度僕の手元に戻ってきた曲です。その後、そのまま山下久美子さんに、この曲を提供したんですが、何故かまたレコーディングされず、再び、僕の手元に戻って来て、結局、僕自身がこの曲を歌う事に決めたんです」。
大澤誉志幸は、この曲の歌詞を、彼がデビュー以来、タッグを組んできた、作家の銀色夏生に依頼。1984年7月にリリースされた、3rdアルバム『CONFUSION』に収録します。そして、さらに、同じ年の9月に、この曲を5枚目のシングルとしてリリースするのでした。
1984年9月、大澤誉志幸がリリースした5枚目のシングル「そして僕は、途方に暮れる」は、日清カップヌードルのCFソングとして起用され、約30万枚のセールスを記録し、チャート最高位6位にランクイン。大澤誉志幸は、この曲で、作曲家としてのみならず、男性ソロボーカリストとしての地位も確立。自信を得た彼は、好きだったブラック・ミュージックの要素を取り入れた曲を、続々とリリースしていきます。
「僕は、ブラック・ミュージックの中でも、R&B、レーベルで言うと、モータウン、スタックスと言った、泥臭い音楽が大好きでした。そして、その趣味が高じて、1987年10月に、同じエピック・レコードに所属していて、やはり、ブラック・ミュージックが大好きだった鈴木雅之、鈴木聖美、バブルガム・ブラザース、岡村靖幸達と、"赤坂グラマラスナイト"と名付けた、ブラック・ミュージックのカバーソングを歌う音楽イベントを企画したんです」。
大澤誉志幸は、自らが企画しプロデュースした音楽イベントの成功をキッカケに、さらなる企画を考えます。「音楽仲間が、一緒に集まって歌う楽しさを知った僕は、同じように音楽仲間が集まって、一枚のアルバムを作ったら、楽しいだろう、と思ったんです。ちょうど、翌年の1988年が、エピック・レコードの誕生10周年だったので、それにちなみ、一年の中でも特別な日、クリスマスをテーマにしたアルバムを作る事を思い付いたんです」。
大澤誉志幸は、アルバム作りのため、同じブラック・ミュージック好きな、エピック・レコードのアーティストに、次々と声を掛けていきます。
「一番大変だったのは、歌入れです。参加するアーティストが増えるほど、スケジュール管理が複雑で、プロデュース担当の僕は、全てのアーティストの歌入れに立ち合わなければならず、限られた時間の中、参加アーティストにスケジュールを厳守させるのに必死でした」
「曲自体は、まずは、曲を楽しんでもらうために、ファンキーなノリを大切にしたんです。
色々迷った末、曲の頭はファンク調で、メインとなる部分は親しみのあるポップス調、最後はしっとりと聴いてもらうためにゴルペル調に仕上げて、ひとつの組曲のような曲が誕生したんです。」
こうして1988年11月、大澤誉志幸の他、鈴木雅之、鈴木聖美、バブルガム・ブラザース、GWINKO、アマゾンズらが参加した、クリスマス・アルバムのタイトルナンバー『Dance To Christmas』は、リリースされるのでした。
1988年11月、大澤誉志幸が企画・プロデュースしたクリスマス・アルバムのタイトル曲として、シングルとしてもリリースされた「Dance To Christmas」。
「同じレコード会社に所属していても、普段は交流の無いミュージシャン達と、このアルバムを通して繋がりを作れた事がいい思い出になっています。その後も、僕はクリスマス・ソングを数曲作りましたが、複数のミュージシャンが参加して、ひとつの曲を歌う事自体が、当時としては画期的だったので、同じクリスマス・ソングでも、この曲の方が印象深いですね」。
最後に、大澤誉志幸さんはこう振り返ってくれました。
ブラック・ミュージックを愛する仲間たちのキモチが、
日本で始めての、ファンキークリスマス・ソングを生んだ瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Green Onions/ブッカー・T・ジョーンズ
M2.そして僕は、途方に暮れる/大澤 誉志幸
M3.Dance To Christmas/大澤 誉志幸presents
217回目の今日お届けしたのは、「柴咲コウ/かたち あるもの」でした。
1981年8月、東京都豊島区に生まれた柴咲コウは、音楽好きの父親の影響で、幼い頃からクラシックや60年代のポップスを聴いて育ちます。
子どもの頃は、花屋か保母さんになりたいと思っていた柴咲コウは、彼女が14歳の時に、友達と街を歩いている時にスカウトされて、高校に入学すると同時に芸能事務所に所属、1998年に、TBSテレビの情報番組の出演者の一人として、デビューします。そして、翌年の1999年に「ファンデーションは使っていません」のセリフが話題となった「ポンズ・ダブルホワイト」のCMに出演したことで注目を集め、その後は、数々のTVドラマや映画、CMなどに出演します。特に、2001年に公開された映画『GO』では、その演技力が評価されて日本アカデミー賞最優秀助演女優賞を受賞、注目の若手女優の一人として、アイドル的な人気を集めていきます。
「僕が初めて彼女に出会ったのは、2001年の初夏、レコーディングスタジオだったと思います。当時彼女は、2本のTVドラマに出演中で、とても忙しく、レコーディングもかなり慌ただしい中で行われたんです。彼女は、休憩中も余り喋らず、きりっとした顔立ちで、強い目力を持った、大人っぽい雰囲気だけが、その時の印象として、僕の頭の中に、強く残っています」。
現在も、レコード会社で、柴咲コウの宣伝担当を務めている高瀬さんは、当時についてこう振り返ります。
「女優としてブレイクした彼女が、歌手としてデビューするキッカケは、実はラジオだったんです。当時放送されていた、ニッポン放送の深夜番組『グローバーのウラナイ!』の中に、「柴咲コウ 夢の印税生活」というコーナーがあって、そのコーナーで、リスナーから募集した歌詞を、彼女が歌う企画が行われたんです。リスナーから送られてきた歌詞をもとに、プロの作家が補作して、1枚のシングルが作られたんです。」
こうして、2002年7月、柴咲コウは1stシングル「Trust my feelings」をリリースするのでした。
2002年7月、柴咲コウは1stシングル「Trust my feelings」をリリースしますが、世間的には、さほど注目されることはなく、セールスチャートも最高位50位にとどまります。
「実は、このシングルのカップリング曲は、彼女が歌詞を書いています。元々、文章を書くのが大好きだった柴咲コウは、喜んで歌詞を書いていました。ただ、柴咲コウにとって、この時は、あくまで女優業が、本業でした。TVドラマ、映画、CMなど、ひっきりなしに出演オファーが届いていて、レコーディングやプロモーションの時間がまともに確保できない状態だったので、他の女優さんが、1曲か2曲リリースして、歌手活動を終えていくパターンと、正直同じようになっていくのでないかと、僕らレコード会社のスタッフは感じていました。ところが、この1stシングルを聴いた映画監督・塩田明彦さんが、彼女の歌声に興味を持ってくれて、翌年の2003年1月に公開が予定されていた映画『黄泉がえり』の中で、歌姫・RUI役で彼女が出演することになり、柴咲コウ自身が、その主題歌を歌う事が決まったんです」。
こうして、2003年1月、柴咲コウは映画『黄泉がえり』の劇中歌であり、主題歌でもあるシングル「月のしずく」を、彼女の映画の役柄名RUI名義で、リリースするのでした。
2003年1月、柴咲コウがRUI名義でリリースしたシングル「月のしずく」は、映画『黄泉がえり』が大ヒットしたこともあり、セールスチャート最高位1位を獲得、約83万枚のセールスを記録します。
「正直、この曲のヒットは、柴咲コウ本人、そして僕らも全く予想していませんでした。柴咲本人も改めて歌手活動を続ける事を決意し、僕らスタッフも、女優としてではなく、歌手・柴咲コウとしての個性をどう作って、売り出していくのか、プランを練り始めたんです」。高瀬さんは、当時についてこう振り返ります。
柴咲コウの、歌手としての個性を見つけ出そうとする中で、高瀬さん達スタッフは、彼女の作詞能力に注目します。
「デビューシングルのカップリングの歌詞を書いたことをきっかけに、彼女は、カップリングやアルバムの曲の歌詞をいくつか書いていたんですが、その歌詞は、ほぼ全て、日本語のみで書かれているのが特徴です。しかも、今では、ほとんど使わなくなった古い日本語表現を使うことが多いんです。文字だけだとわかりづらい言葉も、実際に、艶のある彼女の歌声で歌ってみると、独特の雰囲気を持った歌になって、聴く人の心にすっ、と入ってくるんですね」。
歌詞を書くとは大好きだった柴咲コウの下へ、その才能を開花させる一つのチャンスが巡ってきます。
「柴咲コウ自身も出演し、2004年5月に公開されて大ヒットした映画『世界の中心で、愛を叫ぶ』のTVドラマが、その年の7月から放送される事が決定して、その主題歌を彼女が歌う事が決まったんです。そこで、制作スタッフは、彼女自身、映画に出演していたので、作品のストーリー、世界観は十分に分かっているだろうから、彼女自身に作詞をさせてみようということになったんです」。
「彼女が歌詞を書く時は、まず曲があって、スタッフが用意した候補曲の中から、彼女自身が、自分で歌詞を書いて、歌えるかをポイントにして、曲を選び、実際に歌詞を付けています。この曲の時は、そうやって2~3曲書いたと、当時の制作ディレクターから聞いています。その中でも、実は、彼女自身が余り良い完成度ではなかったと言っていた曲を、ドラマ『世界の中心で、愛を叫ぶ』のプロデューサーが選び、最終的に主題歌として決まったんです」。
こうして、柴咲コウが、初めてシングルのA面曲の作詞にチャレンジした6枚目のシングル「かたち あるもの」は、2004年8月にリリースされるのでした。
2004年8月にリリースされた、柴咲コウ6枚目のシングル「かたち あるもの」は、セールスチャート最高位2位、約64万枚のセールスを記録します。
「映画主題歌のヒットから、歌手としても注目を集めはじめた彼女が、今度は、自ら作詞した曲で、ヒット曲を生み出すことができました。結果として、彼女はこの曲で、歌手としてもやっていける自信を掴んだんです」。最後に、高瀬さんはこう振り返ってくれました。
女優・柴咲コウが、もうひとつの顔、歌手・柴咲コウとしての才能を開花させた、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.V.A.C.A.T.I.O.N/コニー・フランシス
M2.Trust my feelings/柴咲コウ
M3.月のしずく/RUI(柴咲コウ)
M4.かたち あるもの/柴咲コウ
216回目の今日お届けしたのは、「スキマスイッチ/全力少年」でした。
1978年5月、愛知県東海市に生まれた大橋卓弥は、幼稚園の頃からエレクトーンを習い始め、小学生になると、クラシックピアノを習い始めます。しかし、大橋が中学二年の時に、自分よりピアノを上手く弾く人を見た事をキッカケに、クラシックピアノを諦めます。その後、大橋は、友人の影響で聴き始めたビートルズを真似して、高校卒業間際に友人達とバンドを結成。1997年春、ミュージシャンになる事を夢見て、バンドのメンバーと共に上京します。しかし、バンドは、メンバー間の意見の相違から、しばらくして自然消滅し、大橋は独りで曲を作る日々を過ごすようになります。
一方、1978年2月に、愛知県名古屋市に生まれた常田真太郎は、彼が高校二年の時、文化祭でクラスメイトとバンドを組んだ事をキッカケに音楽活動をスタートし、1996年春、高校卒業と同時に、音楽専門学校に進学のために上京します。上京してからは、複数のバンドでキーボードプレーヤーとして活動したり、インディーズレコードのレコーディング・エンジニアとして、楽曲のアレンジ経験を積んでいきます。
そして、1999年のある日。常田と大橋は、運命的な再会を果たします。
「常田と初めて出会ったのは、確か、僕が未だ高校生だった、1996年の初めだったと思います。友人に誘われて観に行ったライブで、ピアノを弾いていたのが常田でした。正直、あまり上手ではなく、ライブ後に話をしたんですが、余り良い印象を持てなかったんです。それから3年後の1999年、僕が、路上で弾き語りを始め、そこで販売するための自主制作CDを格安で作ってくれる人をインターネットで探していたら、偶然常田の名前が見つかったんです。思いきって、彼に連絡をしたら、彼がアレンジを含めてやってくれる事になったんです」。
そのレコーディングで、常田のアレンジの才能に魅かれた大橋は、二人で一緒に活動をスタート。その年の11月にユニット「スキマスイッチ」を結成します。
2000年、スキマスイッチは、赤坂BLIZで行われたオーディションイベントに参加し、その音楽性を評価され、音楽事務所「オフィスオーガスタ」と契約。楽曲の創作活動や、新宿・渋谷を拠点としたライブ活動などを行いながら、デビューに向けて準備を進めます。そして2002年8月、スキマスイッチは、千葉マリンスタジアムで行われた野外ライブイベント「AUGUSTA CAMP2002」のサブステージに出演し、およそ3万人の前で歌を披露します。常田がアレンジした親しみのあるメロディ、サウンドと、大橋の温かく聴く人を包み込むような独特の歌声は、会場を訪れたオーディエンス達を魅了。スキマスイッチと言う、一風変わったユニットの名前は、瞬く間に音楽ファンの間へ口コミで広がっていきます。
こうして、翌2003年7月、スキマスイッチは満を持してデビューシングル「view」をリリースするのでした。
2003年7月、スキマスイッチは、所属事務所「オフィスオーガスタ」が立ちあげたばかりのレーベル「オーガスタレコード」の第1弾新人アーティストとして、シングル「view」をリリースします。
「1stシングルをリリースして、まずはやっとスタートラインに立った思いでした。事務所からは、デビューに関する詳しい話が無いままにレコーディングに臨んでいたので、正直自分達がデビューした事に対して、余り実感は湧かなかったんです」。メンバーの常田真太郎は、当時についてこう振り返ります。しかし、そう言ったメンバーの思いとは逆に、スキマスイッチの音楽性は、前年の「AUGUSTA CAMP2002」でのライブパフォーマンスをキッカケに、デビュー前から、多くの人達から高く評価されていて、1stシングル「view」は、全国30ものFM局でパワープレイを獲得します。
さらに、スキマスイッチは、9月にミニアルバム『君の話』をリリースし、セールスチャート最高位20位、約2万枚のセールスを記録。続けて、翌2004年3月には、後に彼らの代表曲へと成長していく、2ndシングル「奏」をリリースするのでした。
2004年3月、スキマスイッチがリリースした2ndシングル「奏」は、発売前に全国のラジオ局や有線放送で流れるとリクエストが殺到し、セールスチャートこそ最高位22位だったものの、約9ヵ月もランクインし続けるロングヒット曲となります。そして、その勢いのまま、6月にリリースした1stアルバム『夏雲ノイズ』は、チャート初登場2位を記録します。
「デイリーチャートとはいえ1位を獲得し、週間チャートでも2位を記録するなど、想定外の結果になったんです。僕としては、いきなりスターダムに上がるのではなく、じわじわいきたいと思っていたんです。理想は3rdアルバムで、やっと認知されるぐらいが丁度いいと思っていました。そうすれば、その辺りで初めてスキマスイッチの楽曲を知った人が、そこから遡れるくらいたくさんの楽曲が世に出ていることになるし、次の新曲が出るまで飽きないと思ったからです。そしてしばらくは、ホールツアーを中心にライブをやって、10年くらいしてアリーナツアーをやっていく、そう言うビジョンを持っていたんです。本当に予想外の結果でした」。常田さんは、当時についてこう振り返ります。
スキマスイッチの二人が戸惑うほど、その人気が広がっていく中、11月にリリースした4枚目のシングル「冬の口笛」は、セールスチャート最高位6位を記録し、彼らにとって初めてTOP10入りを果たすシングルヒット曲となります。
2005年に入ると、スキマスイッチは、その年の春にリリースを予定していたシングルの制作に取り掛かかります。
「この曲は、お正月に、それぞれが実家に帰った時、幼馴染と会った時の事をモチーフに作った曲です。同級生達はみんな、30歳を目前にして、責任ある仕事に就いていて、仕事の上では言いたい事も言えないし、やりたい事もできない。昔ほど、何事も勢いで出来なくなったというような話を、僕と常田、お互いそれぞれの同級生達から、同じように聞かされたんです。二人ともそのことが強く印象に残っていたので、それを基に曲を作る事にしたんです」大橋さんは、この曲を作るキッカケについて、こう振り返ります。
また、常田さんは、この曲の歌詞に込めた思いについて、こう振り返ります。
「スキマスイッチのシングルとしては、初めて恋愛以外の事をテーマに作ることになったので、曲にしっかりとした軸を持たせたいと考えたんです。見た目はポップな雰囲気だけど、歌詞をじっくりと読み込めば、結構厳しい事を言っています。この曲を一番聴いて欲しかったのは、僕達同世代ですが、子ども世代から、もっと上の世代まで、幅広い世代にも受け入れてもらって、心に留めてもらえればと思ったんです」。
こうして、スキマスイッチから、同世代を中心とした人達に向けてのエールが込められた、5枚目のシングル「全力少年」は、2005年4月にリリースされるのでした。
2005年4月にリリースされた、スキマスイッチ5枚目のシングル「全力少年」は、セールスチャート最高位3位を記録します。
「この曲は、スキマスイッチにとって、分かりやすい名刺代わりみたいな曲でもあるし、一方で、これを越える曲を書かなければいけないという、僕達にとって、一つのハードルのような曲でもあります」。大橋さんは、この曲についてこう語ります。
また常田さんは、次のように話してくれました。「この曲でスキマスイッチを知ってくれた人も多いと思うので、夏フェスを始めとしたライブでは、盛り上がって、本当に助けてくれる曲です。それから、自分達にとっては、作った曲に相応しくない大人になってはいけないと言うような、ある意味、十字架のような責任を背負った曲とも、言えるかもしれませんね」。
同級生達との何気ない語らいから、世代を越え、多くの人達を勇気づける、J-POP、応援ソングの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Misery/ザ・ミザリー
M2.view/スキマスイッチ
M3.奏/スキマスイッチ
M4.全力少年/スキマスイッチ
215回目の今日お届けしたのは、「岡村靖幸/だいすき」でした
「僕が彼に初めて出会ったのは、1985年か86年に横浜で行われた、渡辺美里のライブ会場でした。当時、彼は、エピック・ソニー(現在のエピック・レコード)の音楽プロデューサー小坂洋二さんの下で、渡辺美里の作曲家として曲を書いていて、彼女のライブに遊びに来ていたんです」。後に、エピック・ソニーで、岡村靖幸の宣伝担当を務めた西岡さんは、彼との出会いをこう振り返ります。
1965年8月、兵庫県神戸市に生まれた岡村靖幸は、幼い頃から父親の仕事の都合で全国各地を転々とし、新潟県内の公立高校在学中に、フォーク・ギター片手に曲を作り始めます。
「彼は、高校生の頃からビートルズや、カーペンターズ、スティービー・ワンダーなど1970年代、80年代のポップスを夢中になって聴いていたそうなんですが、その中でも、特別的な存在だったのが、プリンスでした。プリンスの音楽センス、ライブパフォーマンス力、曲作りから演奏まで全てを独りでこなすマルチな才能に憧れ、岡村自身も、高校生の時に、4チャンネルのレコーディング・マシーンを買って、曲を作るなど、プリンスの真似をしていたそうです」。
1985年春、岡村靖幸は、彼自身が4チェンネルのレコーディング・マシーンで作ったデモテープを、エピック・ソニーに送付。そのデモ・テープを聴いたエピック・ソニーのスタッフは、岡村靖幸の音楽性を高く評価し、5月にデビューした女性ボーカリスト・渡辺美里の2ndシングル「GROWIN' UP」の作曲家として起用します。その後も、岡村靖幸は、渡辺美里のシングル、アルバムを始め、鈴木雅之、吉川晃司へ曲を提供していきます。
「岡村靖幸を、渡辺美里の作曲家として積極的に使ったのは、プロデューサーの小坂洋二さん、制作ディレクターの小林和之さん二人の考えです。小坂、小林の二人は、岡村靖幸の音楽センスを評価し、まずは作曲家としての才能に磨きをかけ、いずれは彼自身を男性ソロアーティストとしてデビューさせるつもりだったみたいです」。
こうして、まずは、作曲家としてのキャリアを積み重ねていった岡村靖幸は、1986年のある日、渡辺美里のレコーディング・スタジオの現場で、曲に合わせて踊り始めます。その様子を見た小坂をはじめスタッフ一同は、彼の独創的なパフォーマンス力を評価し、ソロシンガーとしてデビューさせる事を決断。1986年12月、岡村靖幸は1stシングル「OUT OF BLUE」をリリースするのでした。
「岡村靖幸は、1stシングルリリース直後、渡辺美里やTMネットワーク達と一緒に、日本武道館で開かれた、TBSラジオ35周年記念の音楽イベント「アニバーサリー・ロック・フェスティバル」に出演したんですが、MCは一切なし、「OUT OF BLUE」1曲だけ歌って、あっという間にステージから消え去ったにもかかわらず、激しく踊る彼のステージパフォーマンスは、観客たちに強烈なインパクトを与えたようで、"彼は一体誰なんだ?"と言った声が数多く寄せられ、一躍彼は、注目を浴びる存在になっていったんです」。
翌1987年4月、岡村靖幸は、ライブハウスを中心に、全国10都市14会場を回る1stライブツアーを行いますが、全会場がソールドアウト。さらに、その年の夏、広島で行われたピースコンサートで、当時、親交の深かった尾崎豊と共演するなど、全国各地で行われた野外ライブにも出演し、その独創的な歌とステージパフォーマンスでファンを虜にしていきます。
「彼が、若い女性を中心に愛された理由は、彼の強い個性だと思います。その中でも特長的なのが、歌詞とダンスです。作曲家としてキャリアをスタートした岡村靖幸は、彼自身がデビューする際、"自分は、歌詞は書けないから、作曲に専念し、作詞は他の人に頼めばいい"と考えていたようです。ところが、他の作詞家が書いた歌詞を歌う段階で、歌い難そうにしていた岡村の姿を見た小坂や、小林が、岡村に歌詞を書くように提案したんです。それをキッカケに、岡村は、制作ディレクターの小林と一緒に、二人三脚で、作詞を始めたんです。二人は慎重に言葉を選び、ちょっとセクシーな歌詞を書いていきました。その殆どが男性向きでしたが、何故か女心をくすぐったようで、曲をリリースする度に、女性のファンが増えていったんです。そしてもう一つの特長が、彼のステージパフォーマンスです。プリンスのステージパフォーマンスを真似た、思うがまま踊る独創的なダンスに、多くの人達が魅了されていきました」。
1988年2月、岡村靖幸は5枚目のシングル「イケナイコトカイ」を、翌3月に2ndアルバム『DATE』をリリースします。
「このアルバムから、作詞、作曲、アレンジ、演奏、すべてを岡村自身がこなすようになりました。特に、岡村がライブを意識し作ったアルバム『DATE』には、ファンク、バラード、ポップナンバーなどバラエティに富んだ曲が詰まって、音楽関係者から高い評価をもらいました」。
オリジナリティ溢れる創作活動とライブを積み重ねる岡村靖幸に、この年の夏、CMタイアップ曲提供のチャンスが巡ってきます。
「個性的な岡村靖幸の曲は、タイアップ曲としては使われにくく、デビュー以来、なかなかCMやドラマ主題歌提供のチャンスが、巡ってきませんでした。ところが、1988年の夏、当時、HondaのCMソングに起用されていた井上陽水さん側に事情があって、曲を変更すると言った噂を、僕が耳にしたんです。偶然にも、そのCMを作っていたプロダクションのスタッフと僕は知り合いで、"岡村の曲を、是非使ってくれ"と急遽売り込みをして、岡村の曲が起用されることが決まったんです」。
宣伝担当だった西岡さんは、当時をこう振り返ります。
限られた時間の中で、岡村は制作ディレクターの小林と共に、甘いアバンチュールを彷彿させる歌詞を書き、あわせて、ポップでキャッチーなメロディを作ります。さらに、可愛い子どものコーラスを載せたアレンジ、そのどれもがピタリとはまり、子どもから大人まで、誰もが楽しめる、王道のポップナンバーへと仕上がっていきます。
「曲のエンディングに、岡村靖幸が"へぼたいや"と謎めいた言葉を繰り返し叫んでいます。車メーカーのCMソングだったので、怒られないかドキドキしたんですが、特に指摘されることも無く、そのまま使われることになったのが、僕にとっての思い出です」。
こうして1988年11月、Honda「New today」のCMソングに起用された、岡村靖幸の8枚目のシングル「だいすき」はリリースされるのでした。
1988年11月にリリースされた、岡村靖幸8枚目のシングル「だいすき」。
「この曲は、タイトル通り、男の子から女の子に向けたラブ・ソングで、キュートで、ポップな曲に仕上がって、彼を代表する曲へと成長し、後に女性シンガーソングライター朝日美穂がカバーするなど、彼のファンだけでなく、アーティトたちにも愛される曲になったんです。岡村靖幸と言えば「だいすき」であり、「だいすき」と言えば岡村靖幸。まさに、彼を象徴する曲です」。最後に、西岡さんはこう振り返ってくれました。
宣伝スタッフが強引にねじ込んだCMタイアップが、80年代J-POPを代表する
キュートなラブ・ソングを生み落とした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Let's Go Crazy/プリンス
M2.Out Of Blue/岡村 靖幸
M3.イケナイコトカイ/岡村 靖幸
M4.だいすき/岡村 靖幸
214回目の今日お届けしたのは、「斉藤和義/歩いて帰ろう」でした
「僕が彼に初めて出会ったのは、1990年か91年だったと思います。僕の友人が紹介してくれたんです。事前に、「いい曲だから聴いて欲しい」と、1本のカセットテープを渡してもらったんですが、どちらかと言えばフォーク調の曲ばかり入っていて、僕は、余り興味を持てませんでした。ところが、実際に彼に会って、目の前で、ギター1本、弾き語りで歌ってもらった時、シンプルだけど、ストレートなメッセージを歌う彼の姿が、夜になっても、頭の中から離れなくなってしまって、翌日、彼に電話をして、「僕が貴方を担当します」と伝えたんです」。
デビュー当時、レコード会社「ファンハウス」で、斉藤和義の共同プロデューサーを務めた松尾さんは、彼との出会いをこう振り返ります。
1966年6月、栃木県下都賀郡(現在の下野市)に生まれた斉藤和義は、小学6年の時に、母親が1本のアコースティックギターを買ってくれたことをキッカケに、音楽の魅力にとりつかれていきます。その後、斉藤和義は、中学3年の文化祭で、友達と組んだバンドで人生初のステージを踏み、高校に進学後もギタリストとして活動します。その後、斉藤和義は、山梨学院大学に進学し、先輩の影響で、見様見真似で曲を作り始め、1987年、大学を中退し、プロミュージシャンを目指して上京します。
「彼は、子どもの頃、TVから流れてくる歌謡曲、ボブ・ディラン、ビートルズと言った幅広い音楽の影響を受けたそうですが、その中でも、ビートルズは特別だったようで、彼の1stシングルのタイトルに使われたり、曲作りそのものにも影響を与えているようです」。
1991年、斉藤和義は、当時TBSで放送されていた、オーディション番組『三宅裕司の天下御免ね!』で、5週連続勝ち抜きを果たし、音楽関係者からも注目を集めます。そんな中、斉藤和義は、松尾さんとの出会いをキッカケに、レコード会社「ファンハウス」と契約。同時に、渋谷エッグマンでのマンスリーライブをスタートさせます。
「ライブのスタート当初は、会場もガラガラでしたけど、始めて1年ぐらい経つと、僕達が必死になって、深夜TVの音楽番組や、全国のラジオ局、そして音楽雑誌に売り込みをした甲斐もあって、女子高生達を中心に動員が増えてきたんです」。
こうして、1年半近くに渡ってライブを積み重ねた斉藤和義は、満を持して、1993年8月に1stシングル「僕の見たビートルズはTVの中」を、リリースするのでした。
1993年8月、斉藤和義がリリースした1stシングル「僕の見たビートルズはTVの中」。
「彼は、当時、アレンジが苦手だったので、同じギタリスト経験があって、彼と同じくビートルズが好きな、アレンジャーを探したんです。懸命に探して、辿り着いたのが、僕の兄で、元オフコースの松尾一彦でした。兄は、僕のオファーを受けてくれ、僕達兄弟で彼をサポートすることが決まったんです」。
こうして、松尾兄弟のバックアップの下、斉藤和義の音楽活動は本格化。デビュー翌月の9月には、日清パワーステーションでライブを行い、長い下積み生活で貯め込んできた音楽に対する欲求不満を、一気に爆発させていきます。
「当時は、打ち込み系の音楽が主流で、TVドラマやCMタイアップ曲だけがヒットチャートを賑わせていた時代でした。一方、斉藤和義の音楽は、聴く人が分かり易いシンプルなメロディでしたが、ヒットチャートとは無縁の世界でした。セールス的には結果が出ない事に、本人は、相当不満を持っていたみたいですが、僕達制作スタッフ側は、3年かけて、斉藤和義を、歌がちゃんと歌えるボーカリストに育てるつもりだったので、彼には申し訳なかったけど、焦りはありませんでした」。1stライブの後、斉藤和義は1stアルバム『青い空の下...』をリリース。続けて11月に、2ndシングル「Rain Rain Rain...」をリリースした後、12月に、東京と大阪でライブを行い、翌1994年2月に、3rdシングル「君の顔が好きだ」をリリースするのでした。
1994年2月、斉藤和義は3rdシングル「君の顔が好きだ」を、翌3月に2ndアルバム『素敵な匂いの世界』をリリースします。
「セールスは伸び悩んでいましたが、この頃から、ライブ動員は少しずつ増え始めたんです。見た目は男っぽく、弾き語りの時は真面目だけど、下ネタを交えたMCが面白い。口コミで彼のキャラクター性が評判となって、斉藤和義は、音楽ファンから、愛されるキャラクターとして認知されていったんです」。
この頃、斉藤和義は、シンガーソングライターとしての活動以外にも、そのキャラクター性を買われて、ラジオパーソナリティとしても活躍し始め、多忙を極めるようになっていきます。こうした中、斉藤和義の下へ、あるオファーが届きます。
「ちょうど僕と斉藤が、"次のシングルは、リズム感のある曲を作ろう"と話をしていた時に、フジテレビの子ども向け番組『ポンキッキーズ』の番組プロデューサーから、オープニングテーマ曲を作って欲しい、と頼まれたんです。思考錯誤の末、彼が作った曲は、2拍子の、テンポが速い、ダンス・ミュージック、チャールストンを思わせるようなものでした。僕は、こんな曲につく歌詞は、どんな内容になるのか、楽しみに待っていたんです」。
「彼は、いつも曲を先に作って、曲が完成した後に歌詞を書くタイプで、この時も、締切ギリギリまで粘って書いていたんです。完成した歌詞を見た僕は、"急ぐ人にあやつられ 右も左も同じ顔"と書かれた部分を見て、これは、アーティスト活動以外の仕事を詰め込む僕達スタッフへの、当てつけか、と思ってしまいました。」
こうして1994年6月、斉藤和義の4枚目のシングル「歩いて帰ろう」はリリースされるのでした。
1994年6月にリリースされた、斉藤和義の4枚目のシングル「歩いて帰ろう」は、セールスチャートにランクインしたものの、最高位は60位にとどまります。
「この曲をリリースした当時、『ポンキッキーズ』のスタッフ達の評判も良く、斉藤を始め僕達制作スタッフは、"絶対売れる!"と確信したんです。ところが、蓋を開けて見ると、予想を下回るセールス結果でした。斉藤和義はがっかりして、一時期は、ライブでこの曲を歌う事を嫌っていたほどでした。
ところが、リリースから1年が経って、彼がライブで、嫌々ながらもこの曲を歌うと、オーディエンスがみんな立ちあがって、盛り上がってくれるんです。レコードセールスこそ伸び悩みましたが、この曲をキッカケに、世代を越えて、多くの人達が、斉藤和義の名前を知って、この曲を愛してくれたんです。シンガーソングライター斉藤和義にとって一番大切な事は、セールス結果だけじゃない。自分の歌を楽しみに待ってくれている人に、ちゃんと良い歌を届ける事だと、彼は気が付いたんです」。最後に、松尾さんは、こう振り返ってくれました。
焦りと不満の日々を乗り越え、素直な心境を歌ったその唄が、
世代を越えて愛されるJ-POPナンバーへと生まれ変わった瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.イエスタディ/ザ・ビートルズ
M2.僕の見たビートルズはTVの中/斉藤和義
M3.君の顔が好きだ/斉藤和義
M4.歩いて帰ろう/斉藤和義
213回目の今日お届けしたのは、「ピンク・レディー/UFO」でした
1976年2月、日本テレビ系で放送されていたオーディション番組『スター!誕生』の決選大会に出場した、フォーク・デュオ「クッキー」は、レコード会社「ビクター音楽産業(現在のビクターエンタテインメント)」と、当時は無名の音楽プロダクション「T&C」の2社からスカウトされます。
同じ大会に出場した清水由貴子が、十数社からスカウトされ脚光を浴びる中で、静岡県出身で、同じ高校に通う同級生の、増田啓子と、根本美鶴代の二人が結成したフォーク・デュオ「クッキー」は、プロ・デビューに向けて、静かなスタートを切ります。
当時、「スター!誕生」の審査員を務め、後にピンク・レディーの曲を手掛けることになる、作曲家の都倉俊一さんは、著書『あの時、マイソング ユアソング』の中で、こう振り返っています。
「「スター!誕生」で合格した後、デビュー曲の作詞・作曲は、私と阿久悠さんに依頼があったんです。私は、4年前の1972年、山本リンダの「どうにもとまらない」を一緒に手掛けたことで親しくなっていた阿久さんと、アイディアを出しながら、二人のデビュー作をどう作っていくのか、ミーティングを重ねました。ところが、レコード会社ビクター音楽産業は、会社としてはまったく二人のデビューに乗り気がない事が判明したんです。当時は、まだ平ディレクターの飯田久彦が、本当は清水由貴子を獲得する目的で「スター!誕生」を観に来ていたのに、増田と根本の二人を雰囲気で気に入ってしまい、自分の判断で勝手に手をあげてしまっていたんです。一方は、レコード会社であまり力のない新米ディレクター、もう一方は当時は無名の音楽プロダクション。作品ができる前から、この静岡の二人は、運から見放されたのか、売れる態勢からはほど遠い状態に置かれていたんです」。
作詞担当の阿久さん、作曲担当の都倉さんは、彼女達のデビュー曲を、二人が「スター!誕生」に出演した時に歌ったフォークソングの路線を踏襲していくのか、或いは当時一世を風靡していた、キャンディーズの路線でいくのか? 議論を積み重ねた二人は、フォークソングでも無く、キャンディーズ路線を追随する訳でもなく、独自のアップテンポな曲で勝負することを決めます。
こうして、カクテルの名前をヒントに名付けられたユニット「ピンク・レディー」の1stシングル「ペッパー警部」は、1976年8月に、リリースされます。
ピンク・レディーの1stシングル「ペッパー警部」は、セールスチャート最高位4位、約60万枚の売上を記録。続いて、11月に発売された2ndシングル「S.O.S」も、発売直後からヒットし、セールスチャート最高位1位、約65万枚の売上を記録します。
「2曲続けてヒットした後だけに、僕は次の曲を作る時、否応なしに力が入っていたんです。曲調はどうしようか、どういったサウンドにしようか、どういった楽器を使おうか。僕は、試行錯誤を重ねた末に、当時世界でブームになっていた、金管楽器を多用したロック、いわゆるブラスロックを取り入れることにしたんです。実際に曲が完成した時、ピンク・レディーがどんな色や型の衣装で、どんな踊りを踊りながら歌うのか、全てを想像しながら曲を作ったんです」。都倉さんは、著書『あの時、マイソング ユアソング』の中で、こう振り返っています。
こうして、1977年3月、ピンク・レディー3枚目のシングル「カルメン'77」が、リリースされるのでした。
1977年3月、ピンク・レディーがリリースした3枚目のシングル「カルメン'77」は、セールスチャート1位を獲得し、約66万枚の売上を記録します。
爆発的な人気を獲得していくピンク・レディーを支えていたのが、阿久さん、都倉さん達が、ピンク・レディーを売り出すために考えた、振付でした。阿久さん、都倉さんは、二人も審査員として参加していた、「スター!誕生」で、桜田淳子などの振付を担当していた土井甫さんに、振付を依頼。ピンク・レディーの二人が、むっちりとした太腿を露出したミニ・スカート姿で、大胆に歌う振付に飛びついたのは、まずは子ども達、特に、その中でも小さな女の子達は、ピンク・レディーの振付を必死に物真似するようになっていきます。
当初、阿久さん、都倉さん達は、ピンク・レディーを、子どもではなく、カラリとしたお色気路線で、高校生や大学生をターゲットに売り出すことを考えていましたが、健康的な二人のキャラクターは、子どもから大人まで幅広い層から支持を集めていきます。
彼女達を使った様々なキャラクターグッズも販売されるようになって、ピンク・レディー旋風は、急速に日本全国のお茶の間に浸透していきます。
こうした中、1977年6月、ピンク・レディー初のミリオンシングル「渚のシンドバッド」がリリースされるのでした。
1977年6月にリリースされた、ピンク・レディー4枚目のシングル「渚のシンドバッド」は、3曲連続となるセールスチャート1位を獲得し、100万枚の売上を記録。さらに9月に発売した、5枚目のシングル「ウォンテッド」は、12週連続でセールスチャートの1位を獲得します。
当時、ピンク・レディーの曲作りは、まず、阿久さんと都倉さんの二人が、その時々の社会風潮や、印象的な出来事などからヒントを得て、曲作りのテーマを決めることから始めていました。阿久さんと都倉さんは日々、次の曲のアイディアを練ることに苦労しながらも、そのアイディアが生み出した曲が、次々と大ヒットに結びついている状態に、すでにヒットメイカーと呼ばれていた二人も、非常に興奮していたといいます。
そして、完全に社会現象となったピンク・レディーの新曲のテーマとして、次に都倉俊一さんが思いついたのはSF映画でした。
1977年は、アメリカでジョージ・ルーカスが作ったSF映画『スター・ウォーズ』が記録的な大ヒットを飛ばし、翌年に日本でも公開されることが決まっていました。また、スティーブン・スピルバーグが作ったSF映画『未知との遭遇』の公開も迫っており、SF映画ブームの到来を予感した都倉さんは、ピンク・レディーの新曲のタイトルを、SF映画をヒントに決めます。
この頃から、都倉さんは、ピンク・レディーの新曲作にも、人工的に、弦楽器や金管楽器の音を作りだすシンセサイザーを使うことで、より宇宙ブームの到来を、音で感じてもらうことを考えます。
こうして1977年12月、ピンク・レディー6枚目のシングル「UFO」は、リリースされるのでした。
1977年12月にリリースされた、ピンク・レディー6枚目のシングル「UFO」は、セールスチャート最高位1位、約155万枚の売上を記録。ピンク・レディーは、翌1978年、この曲「UFO」で日本レコード大賞を受賞します。
純朴で、素直だけが取り柄だった二人の女の子が、天才的ヒットメイカーたちの緻密な計算により、日本の歌謡史に金字塔を打ち立てる、国民的アイドルに昇りつめた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ペッパー警部/ピンク・レディー
M2.カルメン'77/ピンク・レディー
M3.渚のシンドバッド/ピンク・レディー
M4.UFO/ピンク・レディー
212回目の今日お届けしたのは、「オリジナル・ラブ/接吻kiss」でした
「僕が音楽に夢中になり始めたのは、中学一年の時です。同級生の家で、当時流行っていたTOTOやThe Knack、ポリスを聴いて、それまで耳にしたことのない、音楽のかっこ良さを感じたんです。その後、中学二年の時に、大阪フェスティバルホールにポリスのライブを友達と一緒に観に行って、あまりにもかっこ良くて絶叫していたんです。それ以来、ポリスのアルバム『白いレガッタ』を聴く度に、自分で曲を作りたくなった原点を思い出すんです」。
オリジナル・ラブの田島貴男さんは、音楽との出会いについて、こう振り返ります。
1985年4月、和光大学に入学した田島貴男は、その年の冬に、友人達とロックバンド「レッドカーテン」を結成。1987年に入ると、彼らは、新宿ロフトを中心に、東京都内のライブハウスでライブ活動を始めます。レッドカーテンは、当初1960年代のサイケデリック・サウンドを追求していましたが、もっと幅広いジャンルの音楽を吸収しようと考え、バンド名を「オリジナル・ラブ」と改め、1987年12月には、戸川京子、ザ・コレクターズらも参加した、インディーズアルバム『MINT SOUND X'MAS ALBUM』に参加します。そして、このアルバムレコーディングの際に、田島貴男は、当時、細野晴臣プロデュースでデビューしていたバンド「ピチカート・ファイブ」の小西康陽と知り合います。
「小西さんは、このアルバムに、ピチカート・ファイブとしてではなく、ユニット「YOUNG ODEON」として参加していたんです。ちょうど小西さんは、ピチカート・ファイブのボーカルを探していたらしく、渋谷ラ・ママでのオリジナル・ラブのライブ終演後に、楽屋にやって来て、ピチカート・ファイブのボーカルに誘ってくれたんです。僕は、とにかく早くメジャー・デビューしたかったので、オリジナル・ラブとしての活動を並行して行うことを条件に、小西さんの誘いに応じたんです」。
こうして、1988年春、田島貴男は、ピチカート・ファイブに加入し、オリジナル・ラブと掛け持ちでバンド活動を始めます。しかし、ほどなくして、田島貴男はピチカート・ファイブとしての活動に迷いを感じ始めます。
「当時、オリジナル・ラブは、パンク、ニューウェーブの流れを受けたバンドサウンドを重視していて、一方のピチカート・ファイブは、1970年代のアメリカのクリエイティブな音楽集団を目指していたプロデューサー集団でした。音楽性においては、多少似ている部分にありましたが、全く別物でした。実は、ピチカート・ファイブに在籍している間は、オリジナル・ラブとしてメジャー・デビューしてはいけないという契約内容だったので、オリジナル・ラブとしての活動を大切にしたかった僕は、次第にジレンマを感じるようになったんです」。
オリジナル・ラブと、ピチカート・ファイブ、二つのバンドのボーカルを掛け持ちしていた田島貴男は、そのジレンマに耐えきれず、1990年に入って、ピチカート・ファイブを脱退することを決意。その年の6月から、田島貴男は再びオリジナル・ラブの活動に専念します。そして、その年の暮れ、田島貴男率いるオリジナル・ラブは東芝EMIとメジャー契約を結んだ後、翌1991年6月に、メジャー1stシングル「DEEP FRENCH KISS」をリリースするのでした。
1991年6月、オリジナル・ラブは、1stシングル「DEEP FRENCH KISS」を、翌7月には、1stアルバムにして、2枚組という大作『LOVE! LOVE! LOVE!』をリリースします。オリジナル・ラブが生み出す、ソウル、ジャズ、R&Bなどのテイストを取りこんだ独特のサウンドと、音楽センスは、音楽関係者から高い評価を集めます。また、フリッパーズ・ギターや、野宮真貴をボーカルに迎えたピチカート・ファイブなどと並んで、ポップでオシャレな感覚を備えた"渋谷系"音楽の象徴として、若者達からも人気を集めていきます。
「メジャー・デビュー当初、僕達が作る曲も、歌も、まだまだ未熟でした。1992年に入ってからは、他のアーティストに、沢山曲を提供するようになりましたが、それがオリジナル・ラブが生み出す音楽に、プラスになったり、マイナスになったりすることはありませんでした。この頃、僕はソウルミュージックの影響を受けていて、セクシーなラブソングを書きたかったんですが、10代の頃没頭した、パンク・ニューウェイブ音楽の影響が残っていたせいか、なかなか上手く曲を書けなかったですね。でも、焦りやいら立ちは無かったです」。
メジャー・デビューしても、マイペースな音楽活動を続けていたオリジナル・ラブでしたが、田島貴男の、時には力強く、時には甘く、エロティシズムを持った歌声は、耳にした人達を魅了し、オリジナル・ラブの下には、TV主題歌やCMソングの依頼が、続々と舞い込むようになります。
1993年5月、オリジナル・ラブは、6月に発売予定の3rdアルバム『EYES』からの先行シングルとして「サンシャイン ロマンス」をリリース。カシオ時計のCM曲として起用されたこの「サンシャイン ロマンス」は、ポップなグルーブ感で人気を集め、その後、展開した全国11公演のホールツアー、渋谷公会堂での追加公演も全てソールドアウトします。
「オリジナル・ラブの曲が、ポップ感を重視するようになったのは、デビュー後、しばらく経ってからです。自分でいい曲だなって思える曲が、ヒットチャートに少ないような気持ちがあったからなんです。だったら、自分達で、大好きな王道的なポップスを、作っていきたいと思い始めたんです」。
オリジナル・ラブブーム到来が予感されていた夏のある日、彼らの下へテレビドラマの主題歌のオファーが届きます。
「ドラマの主題歌提供のオファーが届いた時、僕は直ぐに"大きなチャンスだ"と感じたんです。それまでも、僕らの曲がドラマやCMに使われたことはありましたが、どれも、もともとあった曲を提供したものだったんですが、この時は、一から、新曲を書き下ろすことになったんです。全く初めての経験でしたが、ドラマのコンセプトは完成していたので、曲のイメージは湧きやすく、書きやすかったですね。ただ、オファーから、締切まで、1週間ぐらいしかなくて、スタジオで他の曲をレコーディングしている最中に、寝る暇を惜しんで作った事だけは、はっきりと覚えています」。
田島貴男は、短く、限られた時間の中、寝る暇もなく、一心不乱に曲を書き綴ります。
「メロディは、3日から1週間ほどで書きあがりました。歌詞も曲の頭の部分、"長く甘い口づけを交わす"というフレーズが浮かんだ時、僕は心の中で"決まった"と思ったんです。後は、一気に書きあげました。ドラマの内容が、中年男性二人それぞれの恋愛模様を描いたものだったので、ドラマのプロデューサーからは、曲はおしゃれで軽い感じがいいというリクエストがあったんですが、僕は敢えて、少し官能的なセクシーな曲に仕上げました。実際に完成した曲を聴かせると、特に異論は出なかったですね」。
こうして1993年11月、日本テレビ系ドラマ『大人のキス』の主題歌として起用された、オリジナル・ラブ5枚目のシングル「接吻kiss」は、リリースされるのでした。
1993年11月にリリースされた、オリジナル・ラブ5枚目のシングル「接吻kiss」は、セールスチャート最高位13位、約36万枚の売上を記録します。
「「接吻kiss」を作ってから、十数年経った今でも、この曲を歌ってくれる人達がいる事が、本当に嬉しいし、誇りに思います。自分が書いた曲が、初めて大衆性に触れた、僕にとっても記念すべき曲ですね」最後に、田島貴男さんは、この曲について、こう振り返ってくれました。
こだわりのクリエイターが、王道のポップスを目指し、オリジナル・ラブソングを生みだした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.孤独のメッセージ/ポリス
M2.DEEP FRENCH KISS/オリジナル・ラブ
M3.サンシャイン ロマンス/オリジナル・ラブ
M4.接吻kiss/オリジナル・ラブ
211回目の今日お届けしたのは、「SOFFet/ひとりじゃないwith MONGOL800」でした
「僕は、4歳の時からピアノを習い始め、中学2年になると、小学6年の時に知り合ったGooFと一緒に、フォークギターを弾きながら、ラップやヒップ・ホップを歌い始めたんです。
同じ頃、日本では、スチャダラパーや下町兄弟などのラップや、ヒップ・ホップミュージックが話題になり始めた時期で、僕達も、当時流行っていたNBAのビデオを観て、BGMに流れるラップやヒップ・ホップを耳にして、"自分達も、こんな音楽を歌えたら格好いいのに"と思うようになったんです」SOFFetのメンバーYoYoは、音楽を始めるキッカケについてこう振り返ります。
1995年、中学3年になったYoYoとGooFは、ラップ・ユニット「SOFFet」を結成。ラップとヒップ・ホップの魅力に本格的にのめり込むようになった二人は、見よう見まねで、オリジナル曲を作り始めます。さらに、SOFFetは、地元東京・吉祥寺のライブハウスで、ライブをし始め、翌1996年に入ると、彼らのライブには、200人近くが詰めかけるようになって、地元の音楽ファンの間では、注目を集めるようになっていきます。
「この頃から、僕達は、オリジナル曲が入ったカセットテープを作って、ライブハウスでお客さん達に配り始めたんです。そして、SOFFetとしてライブを始めて3年目の1997年8月だったと思います。東京・朝霞のライブハウスでライブをした時、お客さん達が、一緒に僕達の歌を歌ってくれるようになったんです。その光景をステージ上から観た僕は、とにかく嬉しくて、改めて歌の持つ魅力に憑かれ、"絶対メジャーデビューするんだ"と心に誓ったんです」。
歌が持っている魅力にとりつかれたYoYoは、それまで自己流でやってきた音楽を、基礎からきっちりと学ぶために、1999年に入ってアメリカのバークリー音楽院に留学します、
「バークリー音楽院に留学し、ラップやヒップ・ホップの本場の音楽に触れることで、もっと音楽を追求し、それまでは興味を持っていなかった、JAZZについても学んで、自分の音楽の幅を広げていくことにもチャレンジしたんです」。
2000年、YoYoがアメリカへ音楽留学をしている間に、SOFFetが作ったデモテープが、複数の人を介して、音楽関係者の手に渡って、YoYoが帰国した翌2001年に、SOFFetのデビューが決定。SOFFetは、まず2002年7月に、インディーズレーベルからミニアルバム『ソッフェのぽかぽかミュージック』をリリース。インディーズ盤でありながら、音楽関係者の間で高い評価を集め、翌2003年3月に、メジャー1stシングル「君がいるなら☆」をリリースするのでした。
2003年3月、SOFFetは、メジャー1stシングル「君がいるなら☆」をリリースします。
「デビュー直後、僕とGooFは、他のラップやヒップ・ホップミュージシャンと同じスタイルで音楽をやっても、SOFFetとしての個性が無かったら、音楽の世界で生き残っていけないと考え、その個性を作るために、ラップと、僕がバークリーに留学した時に学んだJAZZを融合させた音楽を作って、個性的な音楽スタイルを作ることを考えたんです」。YoYoは、当時を、こう振り返ります。
2004年8月、SOFFetがリリースした2ndアルバム『SWINGIN' BROTHERS』では、彼らが融合させようとしたJAZZに加え、クラシックとロックの要素も取り込みます。歌とラップを自由に行き来する、SOFFetのオリジナリティ溢れる音楽は、そのクオリティの高さを多くの音楽関係者に示すことになります。さらにSOFFetが、もう一つオリジナリティを発揮したのが、ジャンルを越えたミュージシャン達とのコラボレーションでした。
「初めは、自分たちが、音楽上の繋がりを持った人達と一緒に音楽を作ったら、きっと楽しいだろう、といった単純な動機から始めたんです。『SWINGIN' BROTHERS』で、自分達の憧れの先輩でもあった下町兄弟と初めてコラボレーションしたんですが、抵抗感なく、楽しく曲を作ることができたんです。そこで、もっと深く掘り下げてコラボレーションしたら、きっと面白い曲が作れると確信して作ったのが、翌2005年8月に、佐藤竹善さん、ジャズピアニストの小曽根真さんとの組み合わせで作ったシングル曲「GOOD MORNIN' GOOD ROLLIN'」だったんです。POPS、ヒップ・ホップ、そしてBIG BAND JAZZといった、特定のジャンルに拘らない音楽に、高い評価を頂きました」。
ファンと音楽関係者、そしてSOFFet自身も成長を感じ始めた2006年8月、SOFFetは、レコード会社をワーナー・ミュージック・ジャパンから、rhythm zoneに移籍。移籍第1弾シングルとなった、「everlasting one」は、発売直後に全国のFM局から支持を集めて、週間OAチャート1位を獲得します。さらに翌2007年1月、スキマスイッチ、佐藤竹善らをゲストに迎えて作った3rdアルバム『ココロフィルムノート』をリリース、音楽ファンの間で高い評価を集める中、7月に、彼らがヒットにこだわった11枚目のシングル「Answer」がリリースされるのでした。
「デビュー直後から、JAZZとヒップ・ホップを融合させたオリジナルミュージックを生み出すことにこだわって曲を作ってきた僕達が、それを、馴染み易いPOPSに、どうやって発展させていくのか、最後の最後まで悩み抜いて作ったのがこの「Answer」です。この曲がヒットしたことで、僕達の中には、ひとつの達成感が生まれました」。
それまで彼らの音楽を知らなかった人達からも注目を集めるようになったSOFFetは、翌2008年2月に発売を予定していた5周年記念アルバムの制作に取り掛かります。
「アルバムには、それまでと同じように、僕達と親交のあるミュージシャンに参加してもらって作った曲を、収録することを決め、ゲストのひとりとして選んだのが、MONGOL800だったんです。MONGOL800とは、僕達が2003年10月にゲスト参加した山嵐のコンピレーションアルバム『Colors Water Music』のリリース時に出会い、当時、意気投合した僕達は、"いつか一緒に曲を作るチャンスがあれば"と話していたんですが、それで、MONGOL800の清作と、東京・中目黒のカフェで一緒にお茶を飲みながら、話をしていた時に、偶然アイディアが浮かんで、その場で一緒に曲を作ることを決めたんです」。
この時、YoYoと、MONGOL800の上江洌清作は、アルバムを2月にリリースすることから、"卒業・人の別れ"をテーマに曲を作ることを決めます。
「曲を作る事が決まって、清作が僕の家にやって来て、2、3度打合せをして、最初に曲のサビの部分を作って、イメージを膨らませていったんです。清作はギターで曲を作るけど、僕はピアノで曲を作る。そこで、お互いの持ち味を上手く活かして、曲を作っていったんです。曲のテーマでもあった"人の別れ"を普通に考えれば、スローなメロディをイメージするかもしれませんが、僕らは、敢えて、曲を聴いた人が、楽しくスウィングするような、メロディを作ることを心掛けたんです。確かに、別れは悲しく切ないものだけど、その向こう側には新しい出会いも待っている。前を向いて進んでいくなら、楽しく感じてもらえた方が良いので」。
こうして、SOFFetが、MONGOL800とコラボレーションして作った曲「ひとりじゃないwith MONGOL800」は、5周年記念アルバム『NEW STANDARD』の収録曲として、2008年2月にリリースされるのでした。
2008年2月にリリースされた、SOFFet5周年記念アルバム『NEW STANDARD』に収録された曲「ひとりじゃないwith MONGOL800」。
「初めは、"人の別れ"をテーマに作り始めたんですけど、曲が完成してみると、別れだけじゃなく、結婚式など人生の門出でも歌ってもらえる、聴く人それぞれのシチュエーションによって、色んな捉え方ができる曲になったんです。曲を聴いたファンの人達からも、色んな意見を貰って、僕は改めて、この曲を作ったことで、歌が人に与える影響力の大きさに気付かされたんです。僕にとっても、大きな財産のような曲です」最後に、YoYoは、この曲について、こう振り返ってくれました。
ジャンルやイメージにこだわらない、歌づくりが新しいオリジナルソングを生みだした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ミモザの咲く頃/下町兄弟
M2.君がいるなら☆/SOFFet
M3.Answer/SOFFet
M4.ひとりじゃないwith MONGOL800/SOFFet
210回目の今日お届けしたのは、「山口 百恵/秋桜」でした
「僕が彼女のライブを初めて観たのは、1973年8月のことでした。当時僕は、一緒に仕事をしていた井上陽水と、ニッポン放送からの帰り道に、山口百恵と森昌子、そして石川さゆりが出演していた「祭りだ!ホリプロ 花の三人娘」というライブを観に、日比谷野外音楽堂に、立ち寄ったんです。そのステージで、山口百恵は、2ndシングルの「青い果実」を歌っていたんですが、その歌声は爽やかで、強く印象に残ったんです」
ホリプロのグループ会社、東京音楽出版で担当ディレクターを務めた、川瀬泰雄さんは、当時を、こう振り返ります。
1959年1月、東京都渋谷区恵比寿に生まれた山口百恵は、幼い頃に、神奈川県横須賀市へと移り住みます。1972年12月、山口百恵は、中学2年の時に、日本テレビ系のオーディション番組『スター誕生!』に出演し、レコード会社、芸能プロダクション合わせて20社から指名を受けた後、ホリプロと契約。翌1973年4月に、シングル「としごろ」でデビューし、同じ頃に『スター誕生!』からデビューした、同級生の森昌子、桜田淳子ともに、"花の中三トリオ"として、話題を集めます。9月にリリースした、2ndシングル「青い果実」は、清楚な雰囲気を持った山口百恵が、大胆な歌詞の内容を歌ったこともあって、さらに話題を呼び、セールスチャート最高位9位、約20万枚の売上を記録します。
「僕は、11月に発売を予定していた3rdシングルから制作スタッフとして加わったんです。彼女の曲は、既に作詞は千家和也さん、作曲は都倉俊一さんが手掛ける事が決まっていたので、僕の仕事は、CBS・ソニーの担当プロデューサー、酒井政利さんがイメージした曲のコンセプトを、千家さん、都倉さんに、具体的に指示する役割だったんです」。
1974年6月、山口百恵がリリースした5枚目のシングル「ひと夏の経験」は、その年の「日本歌謡大賞 放送音楽賞」、「日本レコード大賞 大衆賞」「ゴールデン・アロー賞 特別賞」などを受賞。さらに、山口百恵は、この曲で「NHK紅白歌合戦」にも初出場を果たし、その人気は一気にブレイクしていきます。
翌1975年も、山口百恵は4枚のシングルと、2枚のアルバムをリリースし、それぞれをヒットさせますが、その中でも、9月に発売した10枚目のシングル「ささやかな欲望」に、川瀬さんは、山口百恵のひとつの変化を感じるのでした。
1975年9月に、山口百恵がリリースした10枚目のシングル「ささやかな欲望」。
「完成したこの曲を聴いた僕は、彼女の歌に対する意識が、変わってきていると感じたんです。一つ前のシングル「夏ひらく青春」と比べても、歌うテクニックや感情の込め方がまるで違っているんです。作品そのものも、少女から、大人をテーマにした内容が増えてきたのと同じように、彼女の歌声も大人へと変化しているんです。僕の中に、彼女は、上手い歌手になるんじゃないかという、予感のようなものが芽生えてきたんですね」。担当ディレクターだった川瀬さんは、当時を、こう振り返ります。
翌1976年、川瀬さんが抱いた予感は、揺るぎない確信へと変わっていきます。
「僕は、彼女の曲を作ってくれる作家陣の幅を広げたいと思っていました。シングル曲は、千家、都倉のコンビが作った曲を歌うのが、暗黙のルールで、僕は、まずはアルバムの曲に、少しずつ、千家、都倉コンビ以外の作家が作った曲を入れたんです。この時、僕が以前担当をしていたモップスのスタッフを通して紹介してもらったのが、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドでヒットを飛ばしていた、宇崎竜童、阿木燿子のコンビでした。4月発売のアルバム『17才のテーマ』用に、まずは2曲作ってもらったんですが、その中の一曲の完成度が、飛びぬけて良く、急遽、その曲をシングル曲に変更して、追加で2曲作ってもらったんです」。
「ちょうどこの頃、山口百恵は、歌手として、悩んでいた時期でもあったと思います。デビュー後、映画やTVドラマにも数多く出演していた彼女は、"自分はいったい何を重点的にやっていけばいいのか"と悩み、僕には、彼女が、全てにおいて集中力を失っているように感じられたんです。歌っている曲も、どちらかと言えば、予め用意されて、自分の考えが反映された曲ではない。好きで歌っていると言うよりも、むしろ"歌わされている"といった気分になっていたのでしょうね。しかし、宇崎さん、阿木さんが作った曲をレコーディングした時、彼女が、活き活きと蘇ってくるのが、分かったんです。阿木さんの書いた歌詞が、山口百恵の感性にマッチしたんだと思います」。
1976年6月、山口百恵がリリースした13枚目のシングル「横須賀ストーリー」は、セールスチャート1位、約66万枚の売上を記録します。
「山口百恵は、等身大の自分を表現してくれる、女性作家・阿木燿子との出会いをキッカケに、歌に自分の感情を上手く投影できるようになって、初めて自分の曲だと感じるようになっていったんです。一方で、この頃から、彼女のファンはもちろん、音楽ファンからは、次に彼女はどんな歌を歌うのか、常に注目を集めるようになっていて、僕達制作スタッフの中では、聴く人の期待を裏切る曲を作っていく事が、制作のコンセプトになっていったんです」。
その後も川瀬さんは、山口百恵のアルバム用の楽曲に、阿木さん、宇崎さんのコンビ以外にも、浜田省吾や、ジョニー大倉といった、個性的なアーティストが作った曲を起用していきます。
そして1977年秋、川瀬さんが、ひとりのシンガーソングライターに頼んだ曲が、1年がかりで日の目を見ることになります。
「この曲は、1976年にグレープを解散し、ソロ歌手となったばかりの、さだまさしさんに頼んで作ってもらった曲です。当時、さださんが、山口百恵に興味を持っているという話を聞いた僕は、ホリプロのスタッフに、まず、さださんの父親を紹介してもらい、千葉県市川市のさださんの自宅を訪ねたんです。訪ねた時、あいにく、さださんは外出中で、さださんのお父さんと話をした後、しばらく彼の書斎で待たせてもらったんです。彼の書斎には、花や、言葉に関する文芸書が数多くあって、僕はその中の一冊を読みながら、彼の帰りを待ちました。そして、さださんが帰宅してから、山口百恵の話を色々したんです。さださんは、"時間をかけて、彼女の事について、色々話を聞いた上で曲を書きたい"と言ってくれたので、僕はしばらくの間は、定期的にさださんの家を訪れて、山口百恵のその時の新しい動きや、さださんの音楽について話していました、でも、結局は、世間話が多かったかもしれません」。
しかし、翌1977年3月、さだまさしが歌ったシングル「雨やどり」が大ヒットして、さだまさしは、まさに時の人になってしまいます。多忙をきわめていく、さだまさしに曲を作ってもらうことを、半分諦めかけた矢先、川瀬さんの下へ、さださんから1本のカセットテープが届きます。
「「小春日和」とタイトルが付けられたカセットテープを、直ぐにプロデューサーの酒井さんと聴きました。いったい、さださんはどんな曲を作ってくるのか、僕達はわくわくしながらテープを聴いたんです。曲を聴き終えた瞬間、僕はさださんが書く歌詞の世界観に、思わず"やられた"と思いましたし、それまでにない新鮮さを感じました。もちろん、当時、さださんも、そして誰もが、まさか3年後に山口百恵が結婚して引退するなど、全く考えてもいなかったので、この歌詞の内容には、本当にびっくりしました」。
しかし、川瀬さんは、曲の一部に物足りなさを感じ、さださんに曲の手直しをお願いします。
「最初に届けられた曲には、サビの盛り上がりが1回しかなく、僕と酒井さんは、少し物足りなさを感じたので、さださんに手直しをお願いしたんです。改めて届けられた曲は、サビの盛り上がりも増え、歌詞も少し長くなったんです。あと、レコーディングをしてみると、ちょっと暗いトーンになっていたので、山口百恵にキーを上げて歌ってもらうと、歌は見違えるように良くなって、歌詞の世界観を見事に表現することができたんです」。
こうして、1977年10月、山口百恵の19枚目のシングル「秋桜」は、リリースされるのでした。
1977年10月にリリースされた、山口百恵の19枚目のシングル「秋桜」は、セールスチャート3位、約46万枚の売上を記録します。
「嫁いでいく娘が、残る母親を想う内容を歌ったこの曲のレコーディングの時、山口百恵はまだ10代で、正直歌詞の内容は分かっていなくて、彼女が結婚して引退する事が決まった、3年後の1980年になって、やっと歌詞の意味が分かったと、彼女から聞いています。それにも関わらず、あの当時に、見事にこの曲を歌い切った彼女の歌唱力には、ただ驚くばかりです。」
最後に、川瀬さんは、この曲について、こう振り返ってくれました。
ディレクターの、歌い手の可能性へのチャレンジが、年齢と時代を超えた
J-POPの名曲を生み落とした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.青い果実/山口百恵
M2.ささやかな欲望/山口百恵
M3.横須賀ストーリー/山口百恵
M4.秋桜/山口百恵
209回目の今日お届けしたのは、「Chara/やさしい気持ち」でした
「僕が彼女に初めて出会ったのは、確か1989年か1990年だったと思います。もともと彼女は、ロックバンド「グラムロッカ」の、ボーカル兼キーボードプレーヤーとして、ソニー・ミュージック主催のSDオーディションを受けたんですが、ほどなくバンドは解散してしまい、彼女は、ソロで、エピック・ソニーからデビューすることになったんですね。それで、当時、宣伝部から、制作部に異動になったばかりの僕が、彼女の担当をすることになったんです」
エピック・ソニーでCharaの担当ディレクターを務めた、大原さんはこう振り返ります。
1968年1月、埼玉県川口市に生まれたCharaは、中学時代からダイアナ・ロスや、プリンスの音楽に夢中になり、高校卒業後に友人達とロックバンド「グラムロッカ」を結成します。その後、グラムロッカを解散したCharaは、ソロデビューに向けて、エピック・ソニーのスタッフ達と、デモテープ作りを始めます。
「僕が彼女に魅かれた理由は、彼女が作る曲のセンスの良さと、甘い歌声です。当時、J-POPの世界では、渡辺美里を中心としたパワフルな歌声を持った女性ボーカリストが主流で、Charaのような、優しくて甘い歌声を持った女性ボーカリストは、地味な存在として見られていたんです。そう言った中で、Charaの存在は異質だったんですが、僕は、彼女なら、J-POPの世界できっと面白い存在になる、と考えたんです」。
こうして、Charaは、約1年近くに渡って、ボイストレーニングとデモテープ作りを積み重ねた後、1991年9月に、1stシングル「Heaven」をリリースするのでした。
1991年9月、Charaは1stシングル「Heaven」を、11月には、1stアルバム『Sweet』をリリースします。
「Charaは、デビュー直後から、TVやラジオで頻繁に曲が流れて、音楽関係者の評価も少しずつ高まっていました。当時の音楽業界では、"ひと組のアーティストをデビューさせた時は、3枚アルバムを作って、結果を出せばいい"と言った考え方が主流だったんで、僕達スタッフに、焦りはありませんでした。幸いにも、1stアルバム『Sweet』が、最初のプレスこそ8,000枚だったんですが、じわりじわりと売上を伸ばして、1年後には、5万枚を記録したんです。僕らスタッフは、Charaは、丁寧に時間を掛けて作品を作れば、音楽ファンに彼女の良さは伝わって、必ず売れるアーティストになる、と確信したんです」。
その後、Charaは、敢えて、若くて経験が浅い音楽プロデューサーと一緒になって作品作りに取り組むことで、自らのアイディアを積極的に、作品に反映していきます。また、大原さんを始めとしたスタッフの、地道なプロモーションも結果となって現れ、1992年9月にリリースした2ndアルバム『SOUL KISS』は、その年の日本レコード大賞ポップス・ロック部門で、アルバム・ニューアーティスト賞を受賞。Charaが生みだす、ソウルとR&Bをベースとした、スウィートでメロウなメロディ、そして様々な愛をテーマに書いた歌詞は、音楽ファンの心を徐々に掴んでいきます。
そして、翌1993年、Charaにとって、運命的な、ひとつの出会いが巡ってきます。
「当時、新進気鋭の若手映画監督として注目を集めていた岩井俊二さんが、彼女の自由奔放なキャラクター性を評価してくれて、岩井さんが監督を務めることになっていたテレビドラマへの出演オファーをくれたんです。ただ、Charaは、その時は気持ちが乗らず、そのオファーは断ったんです。ところが、そのTVドラマのOAを観たCharaが、岩井さんの作品を気に入って、今度は彼女の方が彼とと仕事をしたいと言い始めたんです。そこへ、再び、岩井監督から、出演オファーが届いたのが、映画『PiCNiC』でした」
ショートフィルム作品『PiCNiC』で、岩井俊二と出会ったCharaは、さらに、『PiCNiC』で共演した浅野忠信と、1995年春に結婚し、同じ年には長女も出産します。ひとりの女性としての幸せも手に入れたCharaに、音楽面においても、微妙な変化が訪れます。
「それまでCharaは、恋人や友人、自然と言った彼女自身の身の回りに起こった事に対する様々な愛について歌を歌ってきたんです。そして、結婚、出産と言う、女性にとっての大きな出来事を経験した事で、Chara自身、ひと回りも、ふた回りも大きくなって、今度は家族愛をテーマにした、歌も歌うようになっていったんです」。
女性としての内面的な変化が、音楽面にも大きな影響を与え始めていたCharaの下へ、岩井俊二監督から、再び映画出演のオファーが舞い込みます。
「1996年9月に公開が予定されていた映画『スワロウテイル』に、Charaに、主演してもらい、主題歌も歌って欲しいという内容でした。音楽プロデュースは、小林武史さんが手掛けることになっていたので、主題歌は、Charaが大好きなプリンスの映画、『パープル・レイン』に入っているような曲を作って欲しい、とお願いしたんです。小林さんのような大物プロデューサーと曲を作るチャンスは少なく、彼女にとっても勉強になると思いました」
1996年7月、Chara主演した映画『スワロウテイル』の劇中に登場するバンド、YEN TOWN BAND名義でリリースしたシングル「Swallowtail Butterfly~あいのうた~」は、セールスチャート1位を獲得し、約88万枚のセールスを記録。Chara自身、女優としての演技力も評価されて、日本アカデミー賞主演女優賞優秀賞を受賞します。
そして、翌1997年、今度は、その年の春からOAが予定されていた資生堂のCMソングタイアップの話が、Charaの下へ届きます。
「もともとこの曲は、彼女がデビュー前に作っていたデモテープの中にあった曲です。CMソングの話があってから、僕が、Charaに昔から気になっていたこの曲を使うことを提案したんです。彼女が曲を作る時は、先にメロディを作って、後から歌詞を書くケースがほとんどで、歌詞はメロディを作る時に、まるで鼻歌を歌うような感覚で、デタラメな歌詞を歌って、それを、後で、ちゃんとした言葉に直しいくんです。この曲も、サビの、"手をつなごう 手を"の「手を」の部分は、初めはアルファベットで「TO」と歌っていて、歌詞を書く最終段階で、「手を」と書き直したんです。曲全体は、やはり当時の彼女が一番大切にしていた、家族愛をテーマにしていると思います」。
こうして、1997年4月、資生堂「ティセラJ」のCMソングとして起用された、Chara14枚目のシングル「やさしい気持ち」は、リリースされるのでした。
1997年4月にリリースされた、Chara14枚目のシングル「やさしい気持ち」は、セールスチャート最高位7位、約52万枚の売上を記録します。
「リリース直後から、この曲は、彼女のライブでは欠かせない、彼女自身もお気に入りの曲となったんです。ひとりの映画監督と出会ったことをキッカケに、彼女の音楽人生に追い風が吹き、その風はこの曲で、大きなうねりとなったんです」最後に、大原さんは、この曲について、こう振り返ってくれました。
出会い、結婚、出産。ひとりの女性としての幸せが、J-POPの名曲を生み落とした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.パープル・レイン/プリンス・アンド・ザ・レボリューション
M2.Heaven/Chara
M3.Swallowtail Butterfly~あいのうた~/YEN TOWN BAND
M4.やさしい気持ち/Chara
208回目の今日お届けしたのは、「藤澤ノリマサ/希望の歌~交響曲第九番~」でした
「僕は、高校時代に、カナダにホームステイした経験があるんです。その時、ホームステイ先の家族がよく聴いていたのが、セリーヌ・ディオンだったんです。その音楽を聴いて以来、僕は、彼女の歌声に惚れ込んでしまったんです。彼女と同じとはいかないまでも、いつか僕も、聴く人の心を打つ歌声で、歌を歌っていきたいと思ったんです」。
藤澤ノリマサさんは、歌手を本格的に目指すようになったキッカケについてこう振り返ります。
1983年3月、北海道札幌市に住む声楽家の父と、歌の講師だった母の下に生まれた少年・藤澤ノリマサは、彼が小学一年の時に、TVでジュディ・オングが「魅せられて」を歌う姿を観てから、彼自身も、歌手になりたいと思うようになります。
そして、高校時代に、カナダのホームステイ先で、セリーヌ・ディオンの歌声に触れたことで、歌手を目指す決意を、よりいっそう強くしていきます。
その後、武蔵野音楽大学で声楽を学んだ藤澤ノリマサは、2006年に大学を卒業すると、歌手としてデビューしたい一心で、彼自身が作った、ポップスやバラードを中心としたオリジナル曲や、カンツオーネなどを、都内のライブハウスを中心に弾き語りで歌い始めます。
「当時僕は、自分でオーディション雑誌を買ってきては、レコード会社や音楽事務所などに片っ端からコンタクトを取って、デモテープを送りつけていました。全部で100社以上には、連絡したと思います。そして、たまたまクラシックの曲を歌った1本のデモテープを今の所属事務所に送ったところ、興味を持ってくれて、契約がまとまったんです」。
こうして2008年、藤澤ノリマサは、音楽事務所「スマイルカンパニー」と契約を結び、4月に1stシングル「ダッタン人の踊り」をリリースするのでした。
2008年4月、藤澤ノリマサがリリースした1stシングル「ダッタン人の踊り」は、リリース前に有線放送で曲が流れると、リクエストが殺到し、有線放送の月間問い合わせチャートの3位を記録します。
「1stシングル「ダッタン人の踊り」は、ロシアの作曲家ボロディンが作ったオペラ作品『イーゴリ公』の中の曲「韃靼人の踊り」のサビを引用し、僕が新たにAメロとBメロを作って、合体させて、それに歌詞を書いて作った曲です。この曲は、僕が独りで歌っているのに、ラジオから流れる曲を聴いた方には、複数の人達が歌っているように聴こえたみたいで、事務所やレコード会社に、"藤澤ノリマサは、何人組ですか"と言う問い合わせが殺到したそうです。僕は、"やったー"と思うと同時に、今まで、誰もやったことのない、藤澤ノリマサ、オンリーワンの歌唱スタイルを、もっと極めていきたいと思ったんです」。
「そもそも、僕がこの歌唱スタイルで歌っていこうと思ったのは、2000年にセリーヌ・ディオンとオペラ歌手のアンドレア・ボチェッリがデュエットしてリリースした曲「the prayer」を聴いた事がキッカケです。ポップス歌手と、オペラ歌手の歌い方、それぞれの歌い方を融合させて、一つの曲の中で、独りで歌ったら面白いだろうな、と考えたんです。僕自身、ポップスも好きだし、クラシックやオペラも好きで、将来、どちらの世界に進むべきか、悩んだ時期もありました。一般的に、クラシックやオペラは、敷居が高いと思っている人も多いですが、クラシックやオペラ、そしてポップスを一度に楽しめる、この"ポップオペラ"を聴くことで、少しでもクラシックやオペラのファンが増える事を、僕は望んでいます」。
こうして、藤澤ノリマサの、"ポップオペラ"と呼ばれる独特の歌い方は、次第に音楽ファンを獲得していくのでした。
2009年7月、藤澤ノリマサは、5枚目のシングル「愛の奇跡」をリリースします。
「藤澤ノリマサ独自の、ポップオペラと言う、新しい音楽スタイルが、少しずつ形になってきたこの時期。もう一歩ステップアップするためにチャレンジし作った曲が、5枚目のシングル「愛の奇跡」です。完全なオリジナル曲として初めて作った、このポップオペラは、新たな創作意欲を湧きたてるキッカケにもなったんです」。
翌2010年に入ったある日。藤澤ノリマサは、秋に発売を予定していた次のシングル曲のテーマを、彼のファンの人達から募集することを思いつきます。
「僕は、誰もが口ずさめ、明るく笑顔になれる曲を作りたいと思ったんです。それで、僕のオフィシャルHPで、ファンの人達から、次のシングルのテーマとなる曲を募集したんですが、一番に選ばれたのが「第九」でした。そこで、僕はファンの人達にも、一緒にこの歌を歌ってもらいたいと思って、初めて合唱パートを取り入れた曲に仕上げたんです。ドイツ語の発音は一見難しく感じますが、何度も何度も曲を聴いて、発音を覚えたら、意外と簡単に歌えるように作ってあるんです」。
こうして、ベートーヴェンの交響曲第九番 第4楽章「歓喜の歌」をモチーフに作った、藤澤ノリマサの8枚目のシングル「希望の歌~交響曲第九番~」は、2010年10月にリリースされるのでした。
2010年10月にリリースされた、藤澤ノリマサの8枚目のシングル「希望の歌~交響曲第九番~」。
「この曲には、「しあわせだから笑うんじゃなくて、笑っているからしあわせになれる」「歌いたい笑顔のためなら、届けたいどんなときも」という歌詞があります。世の中、良い事ばかりではないけど、頑張っただけ、その努力は、いつかはきっと実る。今は辛いかもしれないけど、諦めないで、笑顔で頑張ろう、と言う想いを込めて、曲を作ったんです。そして、リリースから、半年が経った2011年3月11日に発生した、東日本大震災以降、僕は、この曲が持っている歌の力が、より多くの人達に伝わって、その使命を果たしているような気持ちを感じています。もっと、もっと、みんなが沢山の笑顔を作れるように、僕もこの歌を歌って、多くの人達を勇気づけていければと思います」。
最後に、藤澤ノリマサさんは、この曲について、こう語ってくれました。
だれもが口ずさめるメロディが、人々を笑顔に導くことの出来る、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.トゥ・ラブ・ユー・モア/セリーヌ・ディオン
M2.ダッタン人の踊り/藤澤ノリマサ
M3.愛の奇跡/藤澤ノリマサ
M4.希望の歌~交響曲第九番~/藤澤ノリマサ
207回目の今日お届けしたのは、「小柳ゆき/be alive」でした
「僕が彼女に初めて出会ったのは、確か1998年、リハーサルスタジオに、関係者を集めて行ったオーディションの場でした。彼女は、小柄で、見た目は、どこにでもいる普通の女子高生といった雰囲気の子で、オーラは感じなかったんです。ところが、彼女が歌を歌い始めると、その空気感は一変し、彼女はオーラに満ち溢れ、ダイナミックな歌声で歌う彼女の姿に、僕は驚きを隠せませんでした。僕は直ぐに、彼女を歌手として育てていく事を決めたんです」。
小柳ゆきのプロデュースを手掛けた、吉田晴彦さんは、当時をこう振り返ります。
1982年1月、埼玉県大宮市に生まれた小柳ゆきは、4歳年上の音楽好きの姉の影響で、小学5年生の頃から歌を歌い始めます。
最初は、歌謡曲を中心に歌っていましたが、いつの間にか、ホイットニー・ヒューストンやマライア・キャリーなどの洋楽を、好んで歌うようになっていきます。1994年、小柳ゆきは、ひと足先に歌手として活動をスタートさせていた姉・裕美の影響で、彼女自身も歌手を目指し、その年に開かれた「コロムビア歌謡曲新人歌手オーディション」に出場し、全国決勝大会まで勝ち残ります。
その後、小柳ゆきは、オーディションの全国決勝大会まで残った実績が評価されて、音楽事務所からデビューの誘いを受けますが、当時、彼女自身が、学校の部活動でしていた剣道に没頭していた事もあって、一度はデビューの誘いを断ります。しかし1997年に入って、再びデビューの誘いを受けた小柳ゆきは、今度はその誘いを受け入れ、歌手デビューに向けた第一歩を踏み出します。
「僕が彼女と一緒にレッスンを始めた1998年頃は、日本でもホイットニー・ヒューストンやマライア・キャリーなどの曲がヒットし、女性ボーカリストによる本格的なR&Bブームが到来し始めていたんです。僕は、音域の広い彼女の歌声を評価していましたが、ブームに乗って、彼女をR&Bシンガーにこだわって育てていく事だけはしたくなかったんです。むしろ、誰もが聴いて楽しめる、分かりやすいメロディの曲を歌って、幅広い人達に愛されるシンガーとして、育てていきたかったんです」。
プロデューサーの吉田さんは、当時をこう振り返ります。
その後小柳ゆきは、地元埼玉の高校に通いながら、約1年間に渡ってボーカルレッスンとデモテープ作りを積み重ね、1999年9月に、1stシングル「あなたのキスを数えましょう~You were mine~」をリリースするのでした。
1999年9月、小柳ゆきがリリースした1stシングル「あなたのキスを数えましょう~You were mine~」。
「まだ、あどけなさが残る若干17歳の女子高生・小柳ゆきのデビュー曲を巡っては、リリースされるまでにレコード会社の中でも賛否両論あったんです。ボーカリストとしての力を試されるバラード曲を、いきなりデビュー曲で歌わす事は、リスクが高く、普通は、まず派手な曲で音楽ファンの興味を集めて、次にバラード曲を歌って、ファンの人達に、その歌唱力を認めさせていく形が、音楽業界のセオリーだったんです。しかし、僕は、彼女の歌声は間違いなく、聴く人達の心を掴むという自信を持っていたので、デビュー曲をバラード曲にしたんです」。
小柳ゆきの1stシングル「あなたのキスを数えましょう~You were mine~」は、じわじわと売上を伸ばし、最終的に、約1年間に渡って売れ続けるロングヒット曲となります。
「同時期にデビューした、宇多田ヒカルさん、倉木麻衣さんがメディアに積極的に取り上げられて、オシャレで、トレンディな女性ボーカリストとして評価を集めていました。一方の小柳ゆきは、メディア露出は少ないけど、実力をもったソウルラヴァーとして、その潜在能力は少しずつ評価を集め始めていたんです。彼女の歌声を、生で聴いてもらいたい。そう思った僕達は、彼女のライブを大きなステージで積極的に展開していくことを考え、ホイットニー・ヒューストンや、マライア・キャリーのステージを真似て、ボーカルレッスンの他にも、ダンスやパーカッションなどにもチャレンジさせたんです」。
2000年4月に、小柳ゆきがリリースした4枚目のシングル「愛情」は、セールスチャート最高位3位、約72万枚の売上を記録します。
「アメリカのポップシンガー、ドナ・サマーの曲を意識して作った、4枚目のシングル「愛情」は、曲が持っているスケール感が大きく、聴く人をドキドキさせる、感じがしたんです。セールス的にも成功して、僕の彼女に対する予感は、この曲をキッカケに確信へと変わりました」。さらに、小柳ゆきが、5月にリリースした、洋楽カバーアルバム『Koyanagi the Covers PRODUCT 1』が、セールスチャートの1位を獲得します。
「彼女のもう一つの特徴でもある、英語の歌唱能力の高さを活かしたアルバムでした。特に海外進出を意識して作った訳では無く、彼女の歌の幅を拡げるために、チャレンジしたんです。彼女は、英語を特別誰かに習った訳でなく、自分でホイットニー・ヒューストンやマライア・キャリーの歌を、見様見真似で歌っている内に、彼女ならではの英語の歌詞の節回しが身につき、それが一つの個性になっていたんです」。
プロデューサーの吉田さんを始めとしたスタッフは、小柳ゆきの持っている歌唱力の高さを再認識すると共に、その確信をより強固な物にするために、再びバラード曲をリリースすることを決めます。
「この曲は、1stシングルリリース直後には、すでに完成していた曲です。当時、レコード会社では、次にどの曲をリリースするのか、曲を決定する会議で厳しく吟味して決定していたんです。この曲も、一度はシングル候補曲として検討されたんですが、会社の上層部が、1stシングルに続いて、2曲続けてバラード曲ではダメだと言う結論で、お蔵入りになっていた曲です」。
「しかし、シングルがヒットし、洋楽のカバーアルバムもセールチャート1位を獲得して、レコード会社の上層部も、彼女の才能を認め、この時期になると、販売戦略も、僕らスタッフが、自由に決めてリリースすることができたんです。そこで僕達は、聴く人達の心をきちんと掴むために、もう一度バラード曲で勝負することにしたんです」
こうして、2000年7月に小柳ゆきの5枚目のシングル「be alive」は、リリースされるのでした。
2000年7月にリリースされた、小柳ゆきの5枚目のシングル「be alive」は、セールスチャート最高位1位、約50万枚の売上を記録します。
「この曲は、セールス的には、1stシングル「あなたのキスを数えましょう~You were mine~」に及びませんでした。しかし、曲が持っている、人は人によって支えられている、と言うテーマ通り、彼女自身、多くのスタッフ、そしてファンの人達によって支えられているという事を、この曲から学んでいったんです。多くの人達に支えられて、これからもアーティストとして歌を歌い続けていく自信を、この曲で掴んだんです」。最後に、吉田さんは、この曲について、こう振り返ってくれました。
一人の歌姫に歌い続ける自身を与えた、J-POPのバラードの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.I Will Always Love You/ホイットニー・ヒューストン
M2.あなたのキスを教えましょう~You were mine~/小柳ゆき
M3.愛情/小柳ゆき
M4. be alive/小柳ゆき
206回目の今日お届けしたのは、「古謝美佐子/童神(天の子守唄)」でした
「私の音楽の原点は、2歳の頃、叔母さんに観に連れて行ってもらった沖縄芝居です。何度も観に行っている間に、芝居の中で歌われる沖縄民謡を真似して歌うようになっていったんです。その後、親戚から三線を習ったり、民謡歌手に弟子入りするなどして、本格的に歌うようになったんです」。古謝美佐子さんは、音楽との出会いについて、こう振り返ります。
1965年、10歳になった時、古謝美佐子は、沖縄音楽の専門レーベル「マルフクレコード」から、沖縄の童唄「すーしすーさー」をシングルとしてリリース。その後、古謝は、沖縄民謡の歌手として、地元沖縄で頻繁にステージに立つようになっていきます。
「私は、母親がもともと音楽活動に反対で、音楽活動はあくまで沖縄限定、内地に出掛けてまで積極的に音楽活動をする機会はなかったんです。ところが、1980年代に入って、沖縄音楽に興味を持ち始めたレコード会社の人達が、頻繁に沖縄に足を運ぶようになって、沖縄出身のミュージシャンが数多くデビューするようになったんです。その中でも代表的なバンドだった「六人組」のスタッフの紹介で、私はCBSソニーのスタッフと仲良くなって、1986年に坂本龍一さんを紹介されたんです」。
1986年、古謝美佐子はレコード会社「CBSソニー」のスタッフの紹介で、当時、YMOを解散し、ソロ活動に力を注いでいた坂本龍一と出会います。翌1987年7月、古謝美佐子は、音楽仲間の我如古より子、玉城一美と共に、坂本がリリースしたアルバム『ネオ・ジオ』にゲストボーカルとして参加。さらに1989年11月にリリースされたアルバム『ビューティ』では、古謝、我如古、玉城の3人がユニット「オキナワチャンズ」を結成しゲストボーカルとして参加。その後オキナワチャンズの3人は、坂本龍一の国内ツアー、ワールドツアーにも参加します。
「私にとって坂本さんとの出会いは、音楽面はもちろんですが、人間的な部分でも大きな影響を受けたんです。私は、小さい頃から母親に、"内地の人を信じたらいけない"と言われて育ってきたので、音楽活動も沖縄限定で、東京に行って音楽活動する事なんて夢にも思っていなかったんです。しかし、坂本さんと一緒に仕事をすることで、人を信じる事を教えてもらい、それが、1990年の「ネーネーズ」結成に繋がっていくんです」。
こうして、1990年、古謝美佐子は、音楽プロデューサー知名定男、佐原一哉の二人が手掛けた4人組沖縄民謡コーラスグループ「ネーネーズ」の結成に、リーダーとして参加します。
1991年4月、ネーネーズはインディーズから1stアルバム『IKAWU』をリリース。翌1992年には、キューン・ソニーと契約し、9月にメジャー1stアルバム『YUNTA』をリリースします。
「僕は、ネーネーズ結成までは、河内音頭や江州音頭など、関西を中心に、その土地土地で昔から歌い継がれてきた民謡のプロデュースを手掛けていたんです。沖縄民謡にも興味は持っていたんですが、それまでチャンスが無く、ネーネーズを手掛ける事になって、初めて沖縄民謡に触れたんです。最初は戸惑いがあったんですが、すぐに慣れました。僕は、知名さんと一緒に、古くから伝わる沖縄民謡に、アジア各地の民族音楽で使われている楽器の演奏を加え、色んなミュージシャンに参加してもらうことで、新しい民謡や、沖縄発信のワールドミュージックを作ろうとしたんです」。
ネーネーズのサウンドプロデュースを手掛けた、佐原一哉さんは、当時をこう振り返ります。
その後、ネーネーズは1年に1枚のペースでアルバムをリリース、国内外でライブツアーを行っていきます。しかし、1995年12月、古謝美佐子は、ネーネーズを脱退します。
「古謝が、ネーネーズを脱退した理由は、彼女自身が、自分の原点でもある沖縄民謡を、もう一度しっかり歌っていきたいという気持ちが生まれたからなんです。ネーネーズの音楽は、ベースに沖縄民謡はあったものの、POPSの要素が徐々に濃くなっていって、彼女自身が歌いたい音楽から離れてしまっていたんです」。
1997年2月、ソロ活動を始めた古謝美佐子に、初孫が生まれることが分かり、佐原と古謝の二人は、これを記念した子守歌作ることを決めます。
「古謝に、初孫が生まれることを知った僕は、彼女に曲をプレゼントすることにしたんです。メロディは、すんなり完成しました。そこで、僕は古謝に歌詞を書くように勧めたんです。民謡は、長年歌い続けられているというイメージが強いですが、新しく、今、自分の周りで起きている事を題材にして歌う民謡もあっていいのではないか。それが、自分の娘や初孫を題材にした歌詞ならば、なおさら古謝が書かなければ、誰が書くんだろうか。そう思った僕は、自分がサビの歌詞の一部を書いて、残りの歌詞を古謝に託したんです」。
こうして、古謝美佐子が初孫の誕生を祝って歌詞を書いた子守歌「童神(天の子守唄)」は、1997年12月に発表されるのでした。
1997年12月、古謝美佐子が発表した楽曲「童神(天の子守唄)」は、彼女のライブ会場限定CDとしてリリースされます。
物心つくまでの幼児の心は、純白で何者にも汚されておらず、神の魂に近い、という言い伝えから生まれた沖縄の言葉、童神をタイトルにつけたこの曲は、沖縄を中心に、その評判が少しずつ拡がっていきます。そして、2001年2月に、NHK『みんなのうた』で、山本潤子がカバー。さらに、同じ年の4月からスタートした、沖縄を舞台にしたNHK連続テレビ小説『ちゅらさん』の挿入歌として起用されると、『童神』に対する注目は、沖縄から全国へと拡がっていきます。
その後も、『童神』は花*花や、石垣市出身の夏川りみ、加藤登紀子らが、それぞれにカバーするなど、知る人ぞ知る名曲として、多くの人達の心を掴んで行きます。そして、2010年3月、今度は、NHKドラマ『八日目の蝉』の主題歌として、楽曲「童神」は起用される事が決まります。歌うのは、奄美大島出身、若干20歳の、城南海でした。
「私が、この曲を初めて聴いた日は、いつだったか覚えていません。しかし、気が付いたらこの曲の存在を知って、歌っていたんです。何度も何度も歌っている間に、この曲が大好きになった私は、2006年に、私が歌手になるきっかけになったオーディションでもこの曲を歌ったんです。そしてNHKドラマの主題歌として、この曲を歌うことが決まった時、運命的な出会いを感じたんです。古謝さんが歌った原曲は、優しい子守歌と言うイメージがあったんですが、私はドラマ『八日目の蝉』が「母性」をテーマにしたサスペンスドラマで、他人の子どもを奪って逃走する主人公の、複雑な心境の中にもある愛情を、曲を聴いた人に感じてもらえるように、心掛けたんです」。
NHKドラマ『八日目の蝉』の主題歌「童神」を歌った、城南海は、彼女自身がこの曲に込めた想いについて、こう振り返ります。
こうして、オリジナルでは"天の子守唄"と副題がつけられていた「童神」は、「童神~私の宝物~」として、2010年4月にリリースされるのでした。
2010年4月に、城南海によってカバーされた、古謝美佐子の楽曲「童神」
「最初は、私が自分の初孫のためだけに書いた歌だったのに、山本潤子さんがカバーしてくれた事をキッカケに、その輪はどんどん広がって、今では夏川りみさん、そして城南海さんなど、多くの人達がカバーしてくれて、私は嬉しい気持ちでいっぱいです。「童神」が成長していく姿を見ていると、私は沖縄民謡を歌い続けてきて良かったと思うし、これからも人生が終わるまで沖縄民謡を歌い続けていきたいと改めて思います」。最後に、古謝美佐子さんは、この曲について、こう振り返ってくれました。
初孫のための記念の子守唄が、たくさんの人達の声で歌い直されていく中で、
あたらしい、日本の子守唄に生まれ変わった瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.すーしすーさ/古謝美佐子
M2.黄金の花/ネーネーズ
M3.童神(天の子守唄)/古謝美佐子
M4.童神~私の宝物/城 南海
205回目の今日お届けしたのは、「スターダスト・レビュー/愛の歌」でした
「僕の音楽の原点は、中学一年の時に観たドキュメント映画『ウッドストック』です。1969年8月に行われた伝説の野外ロックフェスティバルの模様を記録した映画で、僕は出演アーティストのパフォーマンスと、オーディエンスの熱狂に、とてつもない衝撃を受けたんです。それ以来、僕は、洋楽ロックの虜になったんです」。
スターダスト・レビューのバンドリーダー、根本要さんは、音楽との出会いについて、こう振り返ります。
1957年5月、埼玉県行田市に生まれた根本要は、地元の中学に進学後、同級生達とロックバンド「怪盗二十面チョ」を結成。怪盗二十面チョは、ニッポン放送主催の、アマチュアフォークシンガーを対象とした音楽コンテスト『フォーク・ビレッジ』に出場して、決選大会まで進出します。1976年4月、日本大学芸術学部放送学科に入学した根本要は、高校の同級生の柿沼清史らと、バンドその後「アレレのレ」を結成します。
その後「アレレのレ」は、バンド名を「ジプシーとアレレのレ」と改名。1979年10月に開かれた、「ヤマハポピュラーミュージックコンテスト」に出場し、楽曲「オラが鎮守の村祭り」で優秀曲賞を受賞します。それから2年後の1981年5月、「ジプシーとアレレのレ」は、バンド名を「スターダスト・レビュー」と変えて、メジャー1stシングル「シュガーはお年頃」と、1stアルバム『スターダスト・レビュー』をリリースするのでした。
スターダスト・レビューは、デビュー前から、根本要のトークを中心としたエンタテイメント性たっぷりのライブが評判を呼び、デビュー直後から、彼らは、一年の大半を全国のライブ会場で過ごすようになっていきます。
「アマチュア時代、僕達は、ライブで、常に自分達の持っている歌を全力で歌って、MCでオーディエンスを盛り上げて、とにかく持てる力を全て出しきる事ばかり考えていたんです。ところが、メジャーデビューすると、周りのスタッフからは、"毎回ライブで全力投球する必要はないよ。ご飯を食べる時、お腹いっぱいに食べるよりも、腹八分目がいいように、ライブも同じ気持ちでやらなくちゃいけない。オーディエンスに、ライブにまた足を運んでもらうためには、出し惜しみをしなくちゃ"と言われたんです。何か変ですよね。それからです、メジャーの世界に疑問を持つようになったのは。それで、僕達スターダスト・レビューは、ヒット曲は無いけれど、ライブなら誰にも負けない、そんなバンド目指そうと決めたんです」。根本さんは、当時について、こう振り返ります。
その後も、スターダスト・レビューは、楽曲のリリースに合わせて、毎年のように全国ライブツアーを実施していきます。
「デビューから、ライブを重ねていく中で、大切にしていたのは、ライブでもCDと同じアレンジを忠実に再現することでした。その中で大きな役割を果たしていたのは、アマチュア時代から一緒に活動してきた、キーボードプレーヤーの、三谷泰弘の存在だったんです。彼は、演奏能力、アレンジ能力が優れていたので、僕らも信頼していたんです。ところが、1994年11月に、彼が、音楽的志向の違いでバンドから脱退してしまった後、僕達は、ライブについて改めて考え直してみたんです。そのとき、僕達は、ライブは完成された物ではなく、常に生物である。ライブを演る場所も違えば、ライブにやって来るオーディエンスも違う。僕達にとっては同じライブかもしれないけど、オーディエンスにとっては、全く違う。ライブは、完成された物ではない、と言うことにようやく気が付いたんです」。
1996年には、ライブ本数が、デビュー後通算1000本を突破、スターダスト・レビューは、文字通り、日本を代表するライブバンドとして成長を遂げていきます。その中で、根本要は、いつの日か、スターダスト・レビューのライブを楽しみにしてくれている、オーディエンスのための歌を作りたい、という想いを抱くようになっていきます。
「2006年のある日のことでした。楽曲制作に取り組んでいた僕の頭の中に、ひとつのサビのメロディが浮かんできたんです。これなら、大勢の人達が歌える歌ができると確信した僕は、直ぐに浮かんだメロディに、「LaLaLa...」と歌った仮歌を一緒にレコーダーに吹き込んで、数日後、メンバーに聞かせたんです。すると、メンバー、スタッフたちも、"この曲は、大勢の人達と一緒に歌ったら、スケールの大きな歌になるね"と言ってくれたんです。まさに狙い通りでした」。
「歌詞は、余計な物を極力省き、シンプルに、オーディエンスが歌い易く、誰もが分かり易い愛をテーマに書くことにしたんです。単純明快だから、曲のタイトルもシンプルにしました」。
"オーディエンスのための歌を作りたい"その想いを、より具体的にするために、スターダスト・レビューは、この曲をライブレコーディングする事を決めます。
「それまで、3枚のライブアルバムを出してきたけど、新曲を、オーディエンスのコーラスを交えてレコーディングするのは初めての経験だったんです。レコーディング前に、みんなに説明して、何度かリハーサルを重ねた後、本番を収録したんです。ライブが終わって、レコーディングした音源を聴き直してみると、想像以上に曲のスケール感が大きくなっていたんです。本当は、曲のエンディングだけにオーディエンスのコーラスを入れるつもりが、どの部分を聴いても入っているんです。オーディエンスのコーラスからは、僕達への無償の愛を感じることができました。残念ながら当日、ライブ会場へ来る事ができなかった、ファンへの感謝も含めて、これからも、当たり前の物をちゃんと歌っていこう、そう言う気持ちを再認識させてくれたんです」。
こうして、2007年5月、さいたまスーパーアリーナで行われたライブ、「25年に一度の大感謝祭・6時間ライブ~おやつ付き~」で、彼らのファンと共にライブレコーディングされた、51枚目のシングル「愛の歌」は、2007年7月にリリースされるのでした。
2007年7月にリリースされた、スターダスト・レビュー51枚目のシングル「愛の歌」。
「ヒット曲の無いスターダスト・レビューにとって、オーディエンスの力を借りて、想像以上のスケール感を持った曲に仕上がったこの曲は、僕らの中での大ヒット曲です。アーティストの中では、"音楽の神様が舞い降りた時に、曲は生まれる"と言う言葉を良く聞きます。では、一体、どんな時に音楽の神様は舞い降りるのか。僕は、支えてくれるスタッフ、そしてファン、全ての事に感謝した時に、音楽の神様は舞い降りてくるんだと思っています。スターダスト・レビューが、オーディエンスのための歌を作りたいと願った事を、音楽の神様が分かってくれて、この大切な曲が生まれたんだと思います」。
最後に、根本要さんは、この曲について、こう振り返ってくれました。
ライブバンドにとって最も大切な存在、オーディエンスに対する愛が、
これまでとは、まったく違う、普遍的なラブソングの名曲を生んだ瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Dance To The Music/Sly &The Family Stone
M2.シュガーはお年頃/スターダスト・レビュー
M3.東京ブギウギ/スダーダスト・レビュー
M4.愛の歌/スダーダスト・レビュー
204回目の今日お届けしたのは、「HOME MADE家族/サンキュー!!」でした
「1996年の春に、僕は、南山大学に進学するために、全く土地勘の無い名古屋に住むことになったんです。入学して、大学構内で、友達を探している時に、キャンパスの中で、ヒップホップ音楽に乗せてダンスを踊っているグループを見つけたんです。その中に居たのがMICROです。僕は、MICROに、自分が作ったオリジナルのヒップホップミュージックのテープを渡して、聴いてもらって、それがキッカケで、一緒に音楽活動を始めたんです」。
HOME MADE家族のメンバー、KUROは、MICROとの出会いについて、こう振り返ります。
アメリカ・ケンタッキー育ちのMICROと、シカゴ生まれのKUROの二人は、本場アメリカのヒップホップ音楽に染まっていたため、日本に戻ってきた頃は、日本語ラップに違和感を覚えます。しかし、ふたりとも、当時デビューしたばかりの「RHYMESTER」が生みだす音楽には共感、自分達もやればできるんじゃないかと感じるようになります。そして、1996年春、運命の出会いを果たしたMICROとKUROの二人は、音楽ユニット「HOME MADE家族」を結成。二人以外にも、同じ大学の同級生で、クラブDJをしていたU-ICHIと、MC担当のHOZEが加わって、HOME MADE家族は、4人組として活動をスタートします。
「HOME MADE家族を結成した頃、僕らは、遊びの延長で、音楽活動をしていました。ところが、クラブイベントに出演する度に、オーディエンスは増え続け、作ったミュージックテープは1000本近くも売れるようになったんです。卒業を前に、就職するのか、このまま音楽活動を続けていくのか迷ったんですが、応援してくれる人達のためにも、HOME MADE家族の音楽をやり続けようということになったんです。」
大学卒業後も、4人は、アルバイト生活をしながらHOME MADE家族の活動を続け、その存在は、地元名古屋では、話題となり、レコード会社からも注目を集めるようになっていきます。
2001年11月、HOME MADE家族は、インディーズからアルバム『H.M.K.U』をリリース。その直後、音楽的志向の違いから、メンバーのHOZEが脱退しますが、残された3人は、HOME MADE家族としての活動を継続し、翌2002年7月には2ndアルバム『毎日が映画のようなヒトコマ』をリリースします。
「2ndアルバムのリリース直後から、キューン・ソニーを含め、レコード会社5社からメジャーデビューの誘いを受けるようになりました。しかし、契約はスンナリとはまとまらず、僕達は、平日はアルバイトをしながら曲を作り、週末にはイベントに出演するという、金銭的にもギリギリの生活を2年近くも続け、2004年に入ってやっとメジャー契約が決まったんです」。
こうして、キューン・ソニーと契約したHOME MADE家族は、5月に1stミニアルバム『Oooh!家~!』を、7月に1stシングル「SUMMER TIME MAGIC」をリリースするのでした。
2004年7月、HOME MADE家族がリリースした1stシングル「SUMMER TIME MAGIC」。
「メジャーデビューが決まって一番驚いたのは、関わる人達の多さです。インディーズ時代は、自分達でイベントを企画したり、出版社に取材をお願いに行ったり、ポスターまで作っていたんです。ところが、メジャーデビューをすると、周りは一変し、ほとんどのことは、周りのスタッフが考えて、手伝ってくれるんです。ラクになったのはもちろんなんですが、僕らを応援してくれる、ファン、そしてスタッフに感謝しないといけない、と言う気持ちを抱くようになったんです」。
ファンキーで、ハスキーな声を操るMICRO。聴き手の気持ちを鼓舞するような、高速ラップを得意とするKURO。そして、DJ U-ICHIが生みだす、力強いメロディと、楽しさとほろ苦い哀愁が同居したようなトラックの数々。3人バラバラの個性が集まって生み出されるHOME MADE家族の音楽は、日本のヒップホップシーンに、新しい風を呼び起こしていきます。
2004年11月、HOME MADE家族は、翌2005年春に予定していたメジャー1stアルバムの発売に向けた、先行シングル「アイコトバ」を11月にリリース。さらに、翌2005年1月に3rdシングルを発売することを決めます。
「この曲は、メジャーデビューした直後に、僕らを応援してくれる人達への感謝の気持ちを、曲に置き換えて作った曲です。
僕らは、普段曲を作る時は、まず3人がミーティングを重ねて、曲のテーマや、構成を決めるところから始めていって、その時、3人それぞれが今まで体験してきた出来事を重ねて、飾らず、等身大の気持ちを歌詞として書いていきます。この曲のサビの部分"いつもありがとう 本当ありがとう"と、ありがとうという言葉を繰り返す事に、最初はしつこいかなと思ったんですが、僕らの素直な気持ちだから、敢えてごまかす必要はないだろうという事で、そのまま使う事にしたんです」。
「1月に、この曲をシングルとしてリリースし、この曲を含む1stアルバム『ROCK THE WORLD』を3月にリリースした直後に、初めてのライブツアーを東京、名古屋、大阪で行ったんですが、そのライブの時、アンコールでこの曲を歌うと、ファンの人達がサビの歌詞を、合唱してくれたんです。その歌声を聴いた時、僕は、震えが止まりませんでした。僕らが、HOME MADE家族を応援してくれる人達への感謝の気持ちを曲に込めてプレゼントしたつもりだったのに、逆にファンの人達から、感謝のメッセージをもらったような気がしたんです」。
こうして、HOME MADE家族のメンバーと、彼らを支えるファンとの絆を、いっそう強めていくことになる、3rdシングル「サンキュー!!」は、2005年1月にリリースされるのでした。
2005年1月にリリースされた、HOME MADE家族3枚目のシングル「サンキュー!!」は、テレビ東京系アニメ『BLEACH』のエンディングテーマ曲にも起用され、スマッシュヒットします。
「メジャーデビューして、まだ7年近くしか経っていませんが、この曲をリリースした直後、初めて、曲が勝手に売れていく、という感覚を覚えたんです。自分達が作った曲だけど、自分達の曲ではないような感じです。その後、海外でライブを行った時、日本と同じように、海外でもアンコールでファンの人達がこの曲のサビの部分を合唱してくれたんです。音楽が持つ力が、言葉の壁を越えた、僕らのターニングポイントとなった曲です」。
最後に、KUROさんは、この曲について、こう振り返ってくれました。
シンプルな感謝の言葉だからこそ、多くの人たちのキモチを素直にさせることのできる、
日本のヒップホップミュージックを代表する、ポップナンバーが生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.FUNKY GRAMMAR(Featuring EAST END,MELLOW YELLOW)/RHYMESTER
M2.SUMMER TIME MAGIC/HOME MADE家族
M3.アイコトバ/HOME MADE家族
M4.サンキュー!!/HOME MADE家族
203回目の今日お届けしたのは、「中 孝介/路の途中」でした
「僕がシマ唄に興味を持ち始めたのは、高校一年の時、奄美大島で開かれたクラシックコンサートで、当時、シマ唄歌手として活躍していた、元ちとせさんの歌声を聴いた時からです。僕はそれまで、シマ唄は年寄りが歌う唄だと思っていたので、同世代の元ちとせさんがシマ唄を歌う姿に、驚くと同時に、言葉では言い表せない、魅かれるものを感じたんです」。
中 孝介さんは、シマ唄との出会いについて、こう振り返ります。
1980年7月、鹿児島県奄美大島名瀬市(現在の奄美市)に生まれた中 孝介は、幼い頃から姉の影響でピアノを習い始めます。その後も、高校入学直後までピアノを習い続けますが、彼の心の中に漠然と芽生え始めた、人に唄を届けたいという想いを叶えるために、ピアノを習うことを辞めます。
その直後、元ちとせが歌うシマ唄に出会った事をきっかけに、彼自身もシマ唄の名人・坪山豊さんに弟子入りして、シマ唄を習得していきます。
1998年、中 孝介は奄美大島で行われた「奄美民謡大賞」に出場して、努力賞を。さらに2000年に行われた「奄美民謡大賞」では、新人賞をそれぞれ受賞します。また、中は、同じ2000年に行われた「日本民謡協会」奄美連合大会では、総合優勝を飾り、「中孝介」の名前は奄美大島の中で、新しいシマ唄の伝承者として知れ渡っていきます。
「2002年に、僕は琉球大学に進学するため、沖縄へ移り住んだんですが、そこで沖縄民謡を初めて聴いたんです。奄美のシマ唄は、どちらかと言えば保守的で、現状維持をするタイプなのに対し、沖縄民謡は、バイタリティ溢れ、歌い手が、外に向かってどんどん打ちだしていくイメージを感じたんです。
シマ唄と沖縄民謡、同じ民謡でも、歌の持つスピリットが真反対の二つに触れたことで、僕は改めて奄美のシマ唄が持つ唯一無二の世界に引きこまれ、もっとシマ唄を極めて、多くの人達にシマ唄が持つ魅力を知ってもらいたいと思うようになったんです」。
沖縄での生活を通して、改めてシマ唄の魅力に取りつかれた中の下へ、その良さを表現するチャンスが巡ってきます。
「奄美大島の音楽イベントで知り合った、エピックレコードのスタッフから、東京に来てみないかと、誘われたんです。 シマ唄は、物悲しく、本土の人が聴けば、どちらかと言えばとっつきにくいイメージがあります。僕は、そんなイメージを持ったシマ唄と、J-POPを上手く融合させることで、シマ唄の持つスピリットを、多くの人に知ってもらいたい。中 孝介としてのシマ唄の世界観を作ってみたいと思ったんです」。
こうして、中 孝介はエピックレコードからの誘いを受け入れ、レッスンを積み重ねた後、まずは2005年9月にインディーズから、ミニアルバム『マテリヤ』をリリース。そして翌2006年3月に、メジャー1stシングル「それぞれに」をリリースするのでした。
2006年3月、中 孝介がエピックレコードからリリースした、1stシングル「それぞれに」は、九州全県を含む、全国23局のラジオ局でパワープレイを獲得し、彼、独特の優しい歌声は、じわりじわりと全国に浸透していきます。
その後も、中 孝介は11月に日本より先行して台湾、香港、中国でフルアルバムを発売し、なんと台湾の音楽チャートでは1位を獲得して、日本より一足先に彼の人気は台湾でブレイクします。
そんな中、中 孝介は翌2007年春に発売を予定していた3枚目のシングルを、森山直太朗に依頼します。
「僕は、東京に行って、ボーカルレッスンとデモテープ作りを始めた時、森山直太朗さんの「桜」を何度も歌っていたんです。「桜」は、自分で歌ってみて、しっくりきたし、歌の持っている独特の世界観に魅かれたんです。それで、僕は、スタッフを通じて森山さんに曲作りをお願いしたんです。森山さんはすんなりOKしてくれて、まずは直接会って、話をしたんです。自分は奄美大島出身で、奄美のシマ唄を歌ってきたこと。今は、シマ唄ではなく、ポップスも歌っているけど、聴いている人達に、人の心の琴線に触れる歌を歌っていきたいという思いを話しました」。
森山直太朗が曲を作り、御徒町凧が歌詞を書いた3rdシングル「花」は、2007年4月にリリースされ、セールスチャート初登場19位を記録し、発売後、半年以上もチャートにランクインし続けるロングヒット曲となります。
シマ唄の伝道師として、ゆっくりと、そして着実に知名度をあげていく中 孝介の下へ、今度は、NHKから、中の出身地でもある、奄美大島をモチーフにした、TVドラマの主題歌提供の話が舞い込みます。
「もともとこの曲のメロディは、デビュー前から完成していたものです。
映画音楽のように、ゆっくりとドラマティックに広がっていく雰囲気が印象的なメロディでした」。
中は、曲の持つスケール感を壊さないように、作詞家の沢村直子さんに歌詞をお願いします。
「沢村さんは、メロディを何度も聴いて、曲が持っているイメージを膨らませて、一篇のバラードを書いたんです。その内容は、"人生と言う長い路に、ゴールが無いように、人が人を愛するという事にも、限界はない。人を愛するという事は、いつまでも、深く、大切に、同じ気持ちを持ち続けないといけない"という、とても興味深い内容でした」。
歌詞、そしてメロディの持つ壮大なスケール感を気に入った、NHKのドラマプロデューサーは、この曲を主題歌として起用する事を正式に決定します。
こうして、2007年11月、中 孝介はNHKドラマ『ジャッジ~島の裁判官奮闘記~』の主題歌に起用された、「路の途中」を4枚目のシングル「種をまく日々」のカップリング曲として、リリースするのでした。
2007年11月にリリースされた、4枚目のシングル「種をまく日々」のカップリング曲として収録された、「路の途中」。
「奄美のシマ唄に、ラブソングはありません。シマ唄の世界にはないバラードナンバーを、シマ唄の歌い手でもある僕、中 孝介が歌ったら、どんな世界が拡がっていくのか。ひとつの冒険ではありましたが、この歌を通して、またひとつ、中 孝介としての新しい歌の世界が作っていけたと思っています」。最後に、中 孝介自身は、この曲について、こう振り返っています。
ラブソングを知らない、奄美のシマ唄の歌い手が、新たな歌の魅力に辿り着いたJ-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ワダツミの木/元 ちとせ
M2.それぞれに/中 孝介
M3.花/中 孝介
M4.路の途中/中 孝介
202回目の今日お届けしたのは、「orange pekoe/Happy Valley」でした
「僕とナガシマが、ユニット「orange pekoe」を作ったのは、1998年秋のことです。当時、僕たちは、関西学院大学軽音楽部のメンバーで、僕がボーカルを探しているのを知った先輩から、彼女を紹介してもらったんです。僕と彼女は直ぐに意気投合し、僕がギタリストと作曲を担当、彼女はボーカルで、作詞を担当することになったんです」。orange pekoeのメンバー藤本さんは、結成当時について、こう振り返ります。
音楽好きで、ギターを弾いていた父親の影響を受けた藤本一馬は、高校時代に友人達とソウル・ミュージックのコピーバンドを結成。一方のナガシマトモコも、高校時代にR&Bを中心としたコピーバンドのボーカルで活動していました。
「大学に入ってorange pekoeを結成したわたしたちは、藤本が高校時代から作っていたメロディに、私が歌詞を書き、オリジナル曲を作っていったんです。ちょうどその頃、軽音楽部の先輩からスティーヴィー・ワンダーのアルバム『キー・オブ・ライフ』のレコードを貸してもらったんですが、ソウル、ラテン、ファンク、ジャズ、あらゆる音楽ジャンルの要素が詰まったこのアルバムを、二人で何度も聴き、スティーヴィー・ワンダーのように、多彩な引き出しを持ったアーティストになって、こんなアルバムを作りたい、と思ったんです」。ボーカルのナガシマは、当時をこう振り返ります。
大学の授業の合間をぬって創作活動に励んでいたorange pekoeは、2000年に入ると、二人で作ったオリジナル曲を持って、地元・神戸や大阪のカフェやライブハウスに出演するようになります。特定のジャンルに囚われない、orange pekoeの音楽センスは、やがて、口コミで広がり、彼らはライブハウス以外に、クラブにも出演するようになります。こうした、さまざまなスタイルのライブ出演を重ねることで、多くの音楽関係者との交流を深めていったorange pekoeは、2001年4月に、orange pekoeは、インディーズからミニアルバム『orangepekoe』を、8月に1stシングル「太陽のかけら」をリリースするのでした。
「クラブに出演するようになって、僕らの音楽を気に入って、応援してくれる人が徐々に増え始めたんです。僕は、高校時代から曲を作っていて、宅録で、デモテープは何本か作っていたんですが、発表の場が無かったんです。それが、クラブに出演するようになって、当時の音楽事務所のスタッフと知り合うことができ、インディーズからCDを発売することができたんです。すると、今度は、同じクラブでCDショップのスタッフと知り合い、僕たちのCDを積極的に売ってくれるようになったんです。
さらに、クラブやCDショップで話題になると、お店に出入りしていたFM802のスタッフが、僕らの音楽を気に入ってくれて、ラジオ番組の中で頻繁に曲を流してくれるようになったんです。そこからは、一気に僕らの音楽が広がっていきました。関西特有の、誰とでも親しくなって、応援してくれる文化が、僕達を育ててくれたんです」。藤本は、当時について、こう振り返ります。
ジャズ、ソウル、ブラジル音楽など、様々な音楽のエッセンスを融合、ジャンルやシーンに囚われないorange pekoe独自の音楽性は、多種多様なワールド・ミュージックが話題になり始めた時期とも重なって、クラブ関係者、DJ、クリエーター達からの高い評価を集めていきます。
「僕は、自分のひらめきを大切にして、その時感じた事を、メロディに置き換えているんです。旅に出て、色んな風景を見て、人と話をして、それぞれから湧いてくるインスピレーションを、緩く、ジャンルに拘ることなく作った音楽。それが、聴く人達に、心地よく聴いてもらえているのかもしれません」。加速度的に、その評判が拡がっていたorange pekoeの下には、当然のことながら、メジャー・レコード会社数社からのオファーも届き、彼らは、その中からBMGジャパンと契約を結ぶのでした。
2002年2月、orange pekoeは、インディーズから2ndシングル「やわらかな夜」をリリース。すぐに、メジャー1stシングルの制作に取り掛かります。
「僕は、それまで作っていた曲のストックの中から、メジャーデビューの候補曲を選んで、レコード会社のスタッフに提案しました。ところが、レコード会社のスタッフからは、もっと華やかな曲の方がいい、と言われたんです。僕は、自分が作った曲に自信を持っていたので、初めは、何でだ、と思ったんですが、直ぐに、別の曲を作ることにしました。ストリングス、ホーンセクションを取り入れ、まるでミュージカルで使われる曲のように、思いっきり派手な曲にしたんです」。
藤本が作った、いつもより派手なメロディに、ナガシマは、いつもと同じように歌詞を付けます。
「メロディは派手になったけど、私は、歌詞も派手にするつもりはありませんでした。むしろ私は、メロディを何度も聴き、どうしたら、メロディが持っている世界観を、聴いた人達に伝えることができるのかを考えました。そして、辿り着いたのが、人がそれぞれ持っている個性を、見つけていこうよ、というポジティブな考え方でした」。
「人は誰もが、違った個性を持ち、それぞれが違った良さを持っている。その良さを、見つけることで、人生は素晴らしいものになる。Happy Valleyと言う言葉は、具体的な場所ではなく、内面的な場所と言う意味を込めています。何事も、前向きに考えた方が楽しいですよね」。
こうして、2002年4月、orange pekoeはメジャー1stシングル「Happy Valley」をリリースするのでした。
2002年4月にリリースされた、orange pekoeのメジャー1stシングル「Happy Valley」。
「私は、今でもこの曲は、orange pekoeの伝えたいことが全て表現できている曲だと思っています。ソウルフルでポジティブな歌詞と、華やかなメロディの相性も抜群ですね」。歌詞を書いたナガシマは、この曲について、こう振り返っています。
かれらの唯一無二の音楽センスが、華やかにブレンドされた、こころ踊るJ-POPナンバーが生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.愛するデューク/スティーヴィー・ワンダー
M2.太陽のかけら/orange pekoe
M3.やわらかな夜/orange pekoe
M4.Happy Valley/orange pekoe
201回目の今日お届けしたのは、「さとうきび畑」でした
1930年7月、栃木県に生まれた寺島尚彦は、東京芸術大学音楽学部作曲科を卒業した後、テレビ局やラジオ局で仕事を始め、ドラマの音楽作りを行うようになります。
1964年6月、寺島尚彦は、シャンソン歌手・石井好子の伴奏で、初めて、本土復帰前の沖縄を訪れます。この時の様子を、著書『さとうきび畑~ざわわ、通り抜ける風』の中で、こう振り返っています。
「当時、首里にあった琉球大学の体育館で、一晩、演奏会を開き、石井さんがシャンソンより、日本の歌曲を歌うと、凄く拍手が多かったのを覚えています。演奏会が終わった後、後援者の方が沖縄を案内してくれることになって、この機会に沖縄を歩けるだけ歩いてみたいと思った私は、数日間沖縄に残ることになったんです」。
沖縄への滞在期間を、一人延ばした寺島尚彦は、土地の人々との懇親会に招かれ、そこで、ピアノで、演奏会をひらくことになるのでした。
「それまで演奏をバックに、お歳を召した御夫婦がダンスを始めたり、若い人たちが踊りだしたり、年齢層はまちまちだった皆さんが、それぞれの時間を楽しんでいたんです。ところが、「夕焼け小焼け」を弾いた時だったと、ハッキリと覚えています。弾き始めた直後、突然それまで踊っていた人達の、踊る足音が聞こえなくなったんです。しばらくして、誰かが歌いだし、ハンカチを取り出して泣いている人も出てきたんです。続けて、「ふるさと」を弾いたら、最後はみんな泣きながらの大合唱になって、僕までもらい泣きしたんです。
この時僕は、ここに居る人達はみんな日本人なんだ。こんな風にみんなで歌える歌を作らなきゃいけない、と感じたんです」。
一方で、彼は、このとき、沖縄南部、摩文仁の丘一面に広がるサトウキビ畑を訪れ、案内した後援者から、「あなたが今、歩いているこの土の下には、まだ多くの戦没者が眠ったままになっているんです」と告げられます。
「後援者の方から、驚くようなひと言を言われた時、僕は、突然、クラクラッとして、物凄い風の音から、戦争で亡くなった人達が号泣しているような、嗚咽しているような、あるいは、なぜ俺たちはこんな目に遭わなければならないのだ、と叫んでいるような、そういう声を耳元で聞いたような気がしたんです。この風の音は何だ、これは何か形にしなければならない。そんな気持ちが、僕の心の中の芽生えてきたんです」。
風の音を"うた"にしたい。「さわさわ」という爽やかな響きでは綺麗過ぎ、「ざわざわ」では騒々し過ぎる。
沖縄を訪れてから、2年が経ったある日、彼は、その言葉に、思い至ります。「そうだ、"ざわわ"だ」。
この言葉を思い付いた彼は、残りの歌詞、そしてメロディを一気に作りあげます。
1967年、完成した曲は、寺島尚彦と同じ石井音楽事務所に所属していた、歌手・田代美代子がコンサートで歌い始めます。
そして、その2年後の1969年に、寺島尚彦は、近所に住んでいた森山良子に、「この曲を歌ってみないか」と声をかけます。
ところが、森山良子は、曲の譜面を見た時、「歌が長く、テーマも重い。戦争を知らない自分には歌えないし、歌ってはいけない」と、断ります。
しかし、レコード会社のプロデューサーに説得され、彼女は、この歌を1969年9月に発売したアルバム『森山良子カレッジ・フォーク・アルバムNo.2』に収録することになります。
ただ、当時、森山良子は、この曲を歌う度に、この曲を、実感を持って歌うことができず、歌手としての非力さを感じて、彼女のコンサートでは、曲目から外していくようになります。
しかし、森山良子がこの歌を封印するようになってからも、この歌は様々な歌手によって歌い継がれ、1971年に上條恒彦が、1975年4月には、ちあきなおみが歌ったバージョンが、NHK「みんなのうた」でとりあげられ、その曲を聞いた、多くの人達の心に刻まれていきます
1991年1月、湾岸戦争が勃発直後、森山良子は、母親からの言葉をキッカケに、再びこの歌を積極的に歌うようになります。
「母親から、あなたは、恋や愛をテーマに歌っている場合じゃない。あなたには、歌わなければならない歌があるはず、と言われ、私は気が付いたんです。私はあの歌を歌わなければいけないと」。
母親の言葉に目覚めた森山良子は、コンサートで再びこの歌を歌い始め、彼女がこの歌に出会ってから、32年の年月を重ねた2001年12月、森山良子は、11節全ての歌詞を歌ったフルバージョンで、この歌「さとうきび畑」をついに、シングルとして、リリースするのでした。
2001年12月に、森山良子54枚目のシングルとしてリリースされた「さとうきび畑」
「フルコーラスのシングルをリリースした直後に、FM沖縄の番組に出演する機会があり、終わって外へ出たところ、私と同じ年輩の女性から、長い間、この歌をうたってくれてありがとうね、と声を掛けられたんです。この言葉を聞いた瞬間、私は自分がこの歌をうたってきて良かったんだ。うたってもいいんだ。と安心して、涙が止まらなくなったんです」。
森山良子さんは、音楽番組「うたの旅人」のインタビューの中で、こう語っています。
寺島尚彦が、本土復帰前の沖縄で体感した、沖縄の人達の平和への思いを込め。
森山良子が、30年を越える年月を経て、その思いにたどり着いた、
ひとつの"うた"が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.夕焼け小焼け/童謡
M2.ふるさと/唱歌
M3.さとうきび畑/森山良子
200回目の今日お届けしたのは、「いきものがかり/ありがとう」でした
「僕が、彼らと初めて会ったのは2004年7月のことでした。会社の上司と、小田急小田原線・厚木駅前で、彼らが行っていた路上ライブを観に行ったんです。どの曲もキャッチーなメロディで、吉岡の元気あふれる歌声に、思わず誰もが立ち止まって、彼らの歌を聴いていた姿が印象に残っています」。
現在、エピックレコードで制作担当ディレクターを務める田口さんは、いきものがかりとの出会いを、こう振り返ります。
1999年2月、小・中・高の同級生、水野良樹と山下穂尊の二人は、山下が水野を誘って「いきものがかり」を結成。二人は、地元の神奈川県厚木市周辺で、ゆずのカバー曲を中心に路上ライブを始めます。同じ年の11月、二人の同級生の妹・吉岡聖恵が、路上ライブに飛び入りで参加。そのままメンバーとして加入し、いきものがかりは、3人組となります。
翌2000年の秋、水野と山下の二人が、大学受験のため、いきものがかりの活動は一時休止しますが、水野と山下、そして吉岡も大学に進学した2003年春、いきものがかりは、およそ3年ぶりに活動を再開、6月に地元・厚木市のライブハウスで、初めてワンマンライブを行います。そして、そのライブを偶然見た音楽事務所のスタッフから誘われて、いきものがかりは、メジャーデビューに向けた第一歩を踏み出すこととなるのでした。
「初めて観た路上ライブのあと、彼らが所属する音楽事務所主催のイベントでライブを観て、エピックレコードとして正式に契約しました。ただ、契約はしたものの、メジャーデビューの日はなかなか決まりませんでした。その間、彼らは、インディーズからアルバムをリリースしながら、創作活動や、ライブ活動に励んでいました。そして、契約から2年後の2006年、やっと彼らのメジャーデビューが決まったんです」。
2006年3月、いきものがかりがリリースした、メジャー1stシングル「SAKURA」は、NTT東日本のCMソングに起用され、セールスチャート最高位17位、延べ31週にもわたってランクインし続けるロングセラーとなります。
「僕は、デビュー直前から、2007年8月までは、直接の担当ではなかったんですが、当時の担当ディレクターは、メジャーの世界でやっていくためには、もっとソングライティング能力を磨くことが必要だと考えて、敢えて厳しく接していて、彼らの曲に、ことごとくダメ出しをしていたんですね。デビュー曲も、何度も作り直しをして、やっと完成したんです。デビュー曲がヒットしたことを、本当は喜びたかったはずだと思うんですが、すぐに次の曲作りが始まっていたので、彼らに、浮かれている感じは全くありませんでした」。
現在、制作担当ディレクターを務める田口さんは、当時をこう振り返ります。
いきものがかりは、2006年3月のデビュー以降、その年はシングル4枚、翌2007年はシングル3枚とアルバム1枚、さらに2008年にはシングル5枚とアルバム2枚と言うハイペースで、リリースを積み重ねていきます。
「いきものがかりが、デビューから僅か3年で、これだけの曲をリリースができた理由は、彼らの曲を、多くの人達が気に入ってくれて、タイアップのチャンスをくれたことです。そして、そのチャンスを、彼らがほとんど断らず、積極的に受け入れたからなんです。これだけ曲をリリースしていると、必然的に、メディアへの露出も増え、合わせてライブ活動も積極的に行っていたから、いきものがかりは、一年中、絶えず何かをやっている、というイメージを、音楽ファンに植え付けることができました」。
「また、ボーカルの吉岡も、二人が曲に込めた想いを、聴く人にどれだけストレートに、伝えられるか、しっかり考えて、まるで二人の代弁者のように、語りかけるように歌っています。いきものがかりの曲は、聴く人全てが曲の主人公。そんな世界観を大切にして、吉岡が歌っているからこそ、曲を聴いた人達から支持を集めているんだと思います」。
2009年9月、いきものがかりは、その年に行われた、NHK全国学校音楽コンクール・中学の部・課題曲として作った曲を、アレンジし直して、15枚目のシングルとしてリリースします。
「「YELL」は、音楽コンクールの課題曲に選ばれた事もヒットした理由ですが、両A面扱で同じCDに収録した「じょいふる」が、「ポッキー」のCMソングに起用された事も、大きかったと思います。この曲もそうなんですが、いきものがかりの特長として、大ヒットも無いけど、全く売れないという曲も無い。リリースする曲が常にセールスチャートのTOP10をキープするという、この安定力が、彼らの一番の強みですね」。
「YELL/じょいふる」が、安定した売上を記録する中、彼らの下へ、大きなチャンスが舞い込みます。
「確か、2009年秋だったと思います。翌年の春スタート予定の、NHK連続テレビ小説の主題歌の話を頂いたんです。曲は水野が作ることになったんですが、彼は原作本、番組企画書、そして第1話の台本を読んで、曲のイメージを膨らませていきました」。
「曲が完成して、初めて聴いた時、僕は、まずイントロ部分に驚きました。それまで彼らが作ってきた曲は、メロディコードが複雑なケースがほとんどだったんですが、この曲は、頭からサビのフレーズで始まっていて、その音階も、単純な"ドレミファソ"と言う作りになっているんですね。しかもその単純な音階に、"ありがとう"と言う、これも、誰もが日常で使う、普通のことばを載せているんです。
曲を作った、水野のが意図的にしたのか、どうかは分かりませんが、結果的に、この単純明快な作り方が、曲を聴いた多くの人達に、強い印象を与えた事は、間違いはありません」。
こうして、2010年5月、NHK連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』の主題歌として起用された、いきものがかり18枚目のシングル「ありがとう」はリリースされるのでした。
2010年5月にリリースされた、いきものがかり18枚目のシングル「ありがとう」は、彼女達にとって自己最高位タイとなるセールスチャート最高位2位を記録。さらに、今年2011年3月に行われた、選抜高等学校野球大会の開会式入場行進曲にも起用されます。
「この曲は、NHKの連続テレビ小説の主題歌に起用されたこともあって、世代を超えて幅広い人達から支持を集めることができました。その結果、彼らがデビューの時から考えていた、老若男女に愛されるグループになりたい、という願いを実現することができたんです。」最後に、田口さんは、こう話してくれました。
こどもたちでも口ずさむ、ドレミファソのメロディに乗ったありがとうの言葉。
どんな人達にも愛される
J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.夏色/ゆず
M2.SAKURA/いきものがかり
M3.YELL/いきものがかり
M4.ありがとう/いきものがかり
199回目の今日お届けしたのは、「miwa/春になったら」でした
「知り合いの音楽事務所のスタッフから紹介されて、会社の他のスタッフと一緒に東京・下北沢のライブハウスに、彼女のライブを観に行ったんです。
オーディエンスは、十数人でしたが、彼女の歌の上手さと、ギターテクニックには光る物を感じたんです。2007年の秋のことでした」。
現在、ソニーレコーズで制作担当ディレクターを務める吉竹さんは、miwaとの出会いを、こう振り返ります。
1990年6月、神奈川県の葉山町に生まれたmiwaは、音楽好きだった父親の影響で、幼い頃からキャロル・キング、カーペンターズといった音楽を聴いて育ちます。
またmiwaは、小学校の頃からクラシック・ピアノを習い始め、中学三年の時から、ピアノで曲を書き始めます。
ギターの魅力に魅かれ、弾き語りをしたいと思うようになったmiwaは、自ら下北沢や渋谷近辺のライブハウスへ出向き、弾き語りライブを行うようになります。
2007年秋、そんなライブ活動の中でソニーレコーズのスタッフと出会ったmiwaは、学校帰りにソニーレコーズに立ち寄って、会議室やスタジオで、レッスン、曲作り、デモテープ作りを積み重ねていきます。
2009年秋、大学へ進学したmiwaの下へ、二つの大きなチャンスが舞い込んできます。
「2010年1月にスタートが決まっていた、フジテレビ系のドラマ『泣かないと決めた日』のプロデューサーが、主題歌を探していると言う話を聞いて、彼女の曲を聴いてもらったんです。プロデューサーは気に入ってくれて、ドラマの主題歌に起用されることが決まりました。
また僕らは、デビューに合わせて、彼女の歌声をもっと多くの人達に聴いてもらうため、新人アーティスト発掘に積極的に取り組んでくれるFM802と組んで、大阪のライブハウスで、2010年1月にライブを開くことを決めたんです。これがキッカケで、miwaは、2010年3月にFM802がNTTドコモと作った音楽プロジェクト「J.K.RADIOFISH」に参加させてもらうことが決まって、彼女は吉井和哉、JAY'ED 、JUJUらと共にオリジナルキャンペーンソングを歌ったんです。デビュー前のアーティストが、こんなチャンスを貰えるなんて、滅多にありません。彼女の歌声を評価してもらった結果だと思っています」。
こうして、2010年3月、miwaは、1stシングル「don't cry anymore」をリリースするのでした。
2010年3月、miwaは、1stシングル「don't cry anymore」をリリースします。
「miwaと似たタイプの女性シンガーソングライターが、一年に何組もデビューしている今の時代。何らかの特長を出さないと、音楽の世界では生き残ってはいけません。どう売り出していけばいいのか、連日のように考えて、導き出した答えが、下手な小細工を加えるのではなく、ライブを通して彼女の魅力を伝えていこう、という王道的なスタイルでした。明るい表情で歌う彼女は、まるで輝きを放ち続ける太陽のようです。ライブに集まった人達が、彼女の曲を聴いて、楽しく、元気に、笑顔を持って帰ってもらいたい。そう思ったんです」。
こうしてmiwaは、デビュー後、イベントライブに積極的に出演。8月には、デビュー5カ月にして「ROCK IN JAPAN FES」にも出演します。一方で、miwaは、ギターメーカー「ギブソン」のアメリカ公式サイトで、期待の日本女性ロッカーとして紹介され、ギブソンからサポートを約束されるなど、順調なスタートを切ります。
「9月にリリースした3枚目のシングル「chAngE」が、テレビアニメ『BLEACH』のオープニングテーマ曲に起用され、セールスチャート8位にランクインし、ヒットの兆しが見える中で、1stアルバムの制作が始まったんです。彼女は、15歳の時から曲を作っていたので、曲のストックは沢山ありました。その中でも、絶対に忘れられない曲が、2008年に、初めて僕らと一緒に作った曲です。彼女は、シンガーソングライターとしての夢を追いかける一方で、大学へも進学したんですが、その頃、彼女の周りの友達は、将来が見えない中、不安な気持ちを抱えながら、大学受験に向かっていました。
そんな友達を、少しでも励まし、勇気づけることができたらという願いを込めて、作られました。曲が完成し、同級生達に聴かせると、とても喜んでくれ、miwaにとっても、シンガーソングライターとしてデビューする大きな自信になったんです」。
デビュー直前の2008年に、miwaが作った曲「つよくなりたい」は、2011年春に発売が予定されていたアルバムに収められることが決定。さらにmiwaは、アルバム制作と並行して、5枚目のシングル制作に取り掛かります。
「アルバム制作中に、12月からスタートするNTT ドコモ「ガンバレ受験生'10-'11」キャンペーンソングをmiwaが、作って、歌うことが決まったんです。
彼女は、NTTドコモの受験生応援サイト「55gokaku.com」に寄せられた、受験生からの悩みや、意気込みなど、さまざまな声を毎日チェック。
受験を控え、勉強しないといけないけど、遊びたいし、恋愛もしたい。そんな、受験生が書きこんだ、もどかしく、混沌とした気持ちのメッセージを、miwaは読んで、2年前に自分が体験してきた、リアルな現実と重ね合わせて、歌詞を作ったんです」。
こうして、大きな希望と、少しの不安を抱えた「春」に向けて、miwaが作った5枚目のシングル「春になったら」は、2011年2月にリリースされるのでした。
2011年2月にリリースされた、miwa 5枚目のシングル「春になったら」。
「最初は、受験生を応援するメッセージソングとして作ったこの曲ですが、リリース直後の3月11日に、東日本大震災が発生しました。miwa自身、一人のアーティストとして、何をすべきなのか迷っていました。そして、彼女が考え出した答えが、彼女自身の歌で多くの人々を励ますこと。彼女は被災して、大好きな音楽を聴くことができない環境に居る人達に向けて、彼女のブログに、この曲の歌詞をひと文字ずつ打ちこんで、さらに、"必ず春は来る。どうかこの想いが届きますように"、という励ましのメッセージを添えたんです。
後日、そのブログを読んだ多くの人達から、大きな勇気を貰った、励まされたよ、と言った内容の書き込みが寄せられたんです。最初は、受験生を応援する目的で作られたこの曲が、結果的にはもっと広い意味を持つことになったんです」
最後に、担当ディレクターの吉竹さんは、こう話してくれました。
飾らない言葉だからこそ、たくさんの人達の心を支えることができた、
J-POP応援ソングが生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.(You Make Me Feel Like)A Natural Woman/キャロル・キング
M2.don't cry anymore/miwa
M3.つよくなりたい/miwa
M4.春になったら/miwa
198回目の今日お届けしたのは、「怒髪天/オトナノススメ」でした
「僕は、ビートルズが大好きだった母親の影響で、小学生の頃から、日本の歌謡曲や、洋楽ロックを聴いて育っていたので、音楽は身近な存在でした。中学に入学した頃から、パンク・ロックに傾倒するようになったんです。セックス・ピストルズや、クラッシュなども聴いたけど、英語の歌詞の意味が分からなくて、次第にアナーキーやスターリンと言った日本のパンク・バンドに魅かれるようになったんです」。
怒髪天のメンバー増子さんは、音楽との出会いを、こう振り返ります。
1966年4月、札幌市に生まれ、中学時代に、パンク・ロックに夢中になっていった増子直純は、1982年、札幌市内の高校に進学すると、入学早々に起きた、ある出来事をキッカケに、音楽の世界に本格的にのめり込んでいきます。
「学校の全校朝礼で、クラスの代表がひとりずつ喋る時間があって、僕は代表として、壇上に上がった時、上半身裸になって、アナーキーのレコードを流しながら、大声で歌ったんです。歌い終わって、壇上から見渡すと、先生、生徒が一斉に僕を白い眼で見ていました。その後しばらくの間は、学校内でも浮いた存在だったんですが、それでも、僕は大勢の人の前で歌う気持ちの良さを覚えてしまい、1984年に意気投合した同級生達とバンドを結成したんです」。
この時結成したパンク・ロックのコピーバンドは、直ぐにボーカルが脱退してしまい解散。増子は、他のメンバーを誘ってロックバンド「怒髪天」を結成します。
高校卒業後も怒髪天は、メンバーチェンジを繰り返しながら、地元・札幌を拠点に活動を続け、1988年、怒髪天に、上原子友康、坂詰克彦、清水秦次の3人が相次いで加入し、現在も続く、不動のメンバーが揃います。そして、時はバンドブーム真っ只中、怒髪天の下へも各レコード会社、音楽プロダクションからメジャーデビューの誘いが舞い込むようになります。
「当時僕は、月半分は父親の仕事を手伝いながら、残り半分はライブ活動を続けていたんです。メジャーデビューの話は絶えることなく届いていたんですが、僕達はブームに乗って他の人達と同じ事をするのが嫌で、全て断っていたんです。しかし、同じ札幌で活動していたバンドが次々と東京へ進出していく中、
メンバー間で話合いの末、最終的には、僕達も、メジャーデビューの話を受け入れることにしたんです」。
1991年6月、怒髪天は1ミニアルバム『怒髪天』をリリース。1994年7月には、シングル「溜息も白くなる季節に...」を、翌1995年7月にアルバム『痛快!ビッグハート維新'95』をリリースしますが、特に、ヒットに恵まれること無く、デビューから5年後の1996年に入ってバンド活動を休止することになります。
「元々僕達は、バンド活動を始めた時からプロになるつもりは無く、仕事をして、その合間に大好きな音楽活動ができれば、と言う中途半端な気持ちで、音楽活動をしていたので、ハングリー精神はありませんでした。デビュー後も、そんな中途半端な気持ちのまま音楽活動を続け、1996年に入って当時の所属事務所が倒産したんです。これからどうするのか迷った僕らは、中途半端な気持ちで音楽活動を続けていくよりは、一回全てをリセットした方がいいだろうと言う結論にいたり、バンド活動を休止することにしたんです」。
増子さんを始めとした怒髪天のメンバーは、バンド休止後、それぞれが音楽とは無縁の世界で、アルバイト生活を始めます。「僕は工事現場の仕事や、穴あき包丁の実演販売など、色んな仕事に携わりました。もちろん、メンバーとも仕事が休みの日に、普通に会って話はしていたんです。それが、バンド休止から3年経った1999年の初めのある日、ベースの清水からご飯に誘われたんです。僕はてっきり、北海道に戻る話なのかと思っていたんですが、彼はもう一度音楽をやろう、と誘ってきたんです。バンド休止から3年、やっと安定した生活を過ごせるようになっていた僕は、趣味で音楽活動をするならと言う条件で、
活動再開に同意したんです。ところが、バンド活動を再開し、新曲を作ったら、やっぱり多くの人達に怒髪天の曲を聴いてもらいたいと思うようになって、結局、再び音楽活動に力を入れるようになっていったんです」。
1999年3月、3年間の沈黙を破って活動を再開した怒髪天は、翌年の2000年7月に、インディーズから活動再開後初のマキシシングル「怒盤」をリリース。同じ月には、複数のインディーズアーティストが集まって作ったアルバム『極東最前線』に楽曲「サムライブルー」を提供するのでした。
活動を再開した怒髪天は、2000年以降リリースと、ライブを積極的に積み重ねていきます。
「デビュー当初は、スタイルから入って、とにかくカッコいいロックを作って、歌いたかったんです。ところが、年齢を積み重ねるに連れて、その気持ちも変化してきました。特に、1996年からの約3年間、音楽から離れて一般社会で働いていた中で、普通に働くことがどんなに大変な事なのかを実感したんです。そんな大変な社会で大人が働く事は、実は楽しい事ではないんだろうか、と考えるようになったんです。それからは、曲を作る考え方も変わって、自分達の伝えたいことを聴く人に届けるには、どんな歌詞を書き、どんな曲を作ったらきちんと伝わるのか、真剣に考えるようになりました。それから、曲を作って、ライブで思いっきり叫び、歌う事が楽しくなってきたんです」。
怒髪天は、2004年にテイチクレコードと再契約を結び、メジャー音楽シーンにカムバックします。
「デビュー当時に、R&Bという音楽ジャンルが日本でも流行り始めていたんですが、僕らは、日本のブルースと言えば、やっぱり誰もが口ずさめる演歌だろうと思っていたんです。そこで、スタイルではなく、演歌のスピリットを、ロックサウンドと融合させた、「JAPANESE R&E(リズム&演歌)」と呼ばれる、怒髪天オリジナル音楽テイストを、その頃から生みだしていたんです。1999年の活動再開後からは、自分達の中でも
それまで以上に、JAPANESE R&Eという音楽を意識して、曲を作るようになっていったんです」。
2009年秋、怒髪天は次のシングルを作るにあたって、増子自身が以前から彼の心の中で考えていた事をテーマに、歌詞を書くことを決めます。
「僕は、上原子が作ったメロディを聴いて、この曲には、以前から考えていたことをテーマに歌詞を書く事が相応しいと考えたんです。僕は、昔から、大人の世界は、辛いことやしんどい事が沢山あって、実は大変で面白くないよ、と人から聞かされてきたんです。ところが、実際に自分が大人になった時に感じたのは、その逆で、大人の世界にも実は楽しいことが沢山あるという事実。この事実を、多くの人達に聴いてもらいたいと考えるようになっていたんです。その想いがやっと曲として作れる。とにかく、学生時代の青春をテーマに作った曲は沢山あるけど、大人の世界は楽しいという事をテーマにした曲を、僕は聴いたことが無かった。だったら、僕が曲を作ろうと思い立ったんです」
こうして、増子が長年考えていた想いを歌詞にした、怒髪天9枚目のシングル「オトナノススメ」は、
2009年11月にリリースされるのでした。
2009年11月にリリースされた、怒髪天9枚目のシングル「オトナノススメ」。
「僕達は、曲を聴いた人達に、夢を抱かせたり、シリアスな気分にさせたり、多面性を持った曲を沢山作ってきています。この曲は、その多面性の極みとも言える曲だと思います。一般的に、青春と呼ばれる時代よりも、長い年月を過ごさないといけない、大人の世界。実は、年を重ねれば重ねるほど楽しく、面白くなってくる、大人の世界の魅力を、歌詞にストレートにぶつけています。大人の人も恥ずかしがらずに、ライブで盛り上がって欲しい。そんな願いを込めています」。最後に、メンバーの増子さんは、こう話してくれました。
年月と苦労を重ねたからこそ生まれる、楽しさを書いた、日本のロック、大人の応援歌が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.READY STEADY GO/アナ―キ―
M2.流れる雲のように/怒髪天
M3.サムライブルー/怒髪天
M4.オトナノススメ/怒髪天
197回目の今日お届けしたのは、「アン・ルイス/六本木心中」でした
「僕が彼女を直接担当することになったのは、1979年に入ってからです。その前から、僕がプロデュースを手掛けていた、キャンディーズが、1977年にリリースしたシングル「やさしい悪魔」の衣装を、アンがデザインするなど、間接的には付き合いがあったんです。ただ1977年当時は、彼女はまだ、可愛いアイドルという印象が強かったですね」。渡辺音楽出版で、アン・ルイスの担当ディレクターを務めた松崎さんは、当時をこう振り返ります。
1956年6月、兵庫県宝塚市で、アメリカ人の父親、日本人の母親の下に生まれた少女、アン・リンダ・ルイスこと、アン・ルイス。アンは、生まれてすぐに、父親の仕事の関係で神奈川県横浜市に移り住み、その後、劇団若草に入団し、子役モデルとして活躍し始めます。その一方でアンは、小学生の頃から、クリーム、レッド・ツェッペリンなどのロックミュージックを聴いて育ち、いつの日か、自らも歌手としてステージに立つことを夢見るようになっていきます。
その後、渡辺プロダクションに移籍したアン・ルイスは、作詞家のなかにし礼に、歌のセンスを評価され、1970年、14歳の時に、ビクター音楽産業(現在のビクターエンタテインメント)と契約、翌1971年2月に、1stシングル「白い週末」でデビューします。こうして、アン・ルイスは、彼女にとって夢でもあった歌手活動をスタート。歌手活動の傍らで、グラビアモデルとしても活躍します。こうした中、1974年4月にリリースした、アン・ルイス6枚目のシングルが、彼女にとって初のスマッシュヒットとなるのでした。
1974年4月にリリースした、アン・ルイスの6枚目のシングル「グッド・バイ・マイ・ラブ」は、セールスチャート最高位14位、約24万枚の売上を記録します。
「この曲で、アンは初めてヒットを飛ばしたんですが、彼女はまだアイドル歌謡の域を脱することができず、彼女自身、本当にこれが自分のやりたいことなのか、もやもやとした気分を抱えながら仕事をしていたそうです」。担当ディレクターだった松崎さんは、後にアン・ルイス本人から聞いた話として、当時をこう振り返ります。
1977年に入って、アン・ルイスは、松任谷由実との運命的な出会いを果たします。この事について、
当時、東芝EMIで松任谷由実の担当ディレクターを務めていた、下河辺さんはこう振り返ります。
「ユーミンは、1971年に元ザ・タイガースのメンバー加橋かつみの、ソロシングル曲を作った後、渡辺プロダクションの関係者とも交流を続けていたようです。
恐らく、1976年に松任谷正隆さんと結婚し、当時、作家としての活動が中心となっていたユーミンに、彼女のソングライターとしての才能を評価していた、渡辺プロダクションのスタッフが、アンのために曲を作ってくれるように頼んだのではないでしょうか」。
1977年8月、松任谷由実が作詞・作曲を手掛け、松任谷正隆が編曲したアン・ルイス13枚目のシングル「甘い予感」。この曲のレコーディングの際に、テキパキとスタッフに指示をするユーミンに刺激を受けたアン・ルイスは、いつの日か、自分の手で音楽プロデュースを手掛けたいと思うようになっていきます。
翌1978年5月、アン・ルイスは、彼女が憧れていた沢田研二のプロデューサーでもあった、加瀬邦彦が作ったシングル「女はそれを我慢できない」をリリースし、チャート最高位12位、約25万枚のセールスを記録します。
翌1979年3月、アン・ルイスの担当ディレクターとなった、松崎さんは音楽仲間から誘われて、東京・六本木のライブハウス「六本木ピット・イン」で行われた、山下達郎のライブに出掛けます。
「はじめて山下達郎のライブを観た僕は、彼が作った曲のセンスに魅かれたんです。それで、ライブ終了後に楽屋を訪ねて、その場で、彼に、アンの曲を作ってくれるように頼んだんです。」
松崎さんの依頼を受けた山下達郎は、3枚目のアルバム『Pink Pussy Cat』をプロデュースします。
「アンは、当時、楽曲ごとに、さまざまな衣装やメイクを施すなど、ビジュアル戦略を展開して、ヒット曲を連発し、一大ムーブメントを巻き起こしていた、事務所の先輩である沢田研二を意識した路線への転向を図っていたんです。しかし、僕は、アンが歌ってヒットした「女はそれを我慢できない」では、少し中途半端で、もっと大胆に路線を変えた方がいいいと思い、当時は、まだ一般的には無名だった山下達郎をプロデューサーに起用し、彼の音楽仲間のYMOや、吉田美奈子さん達がミュージシャンとして参加したアルバム『Pink Pussy Cat』を作って、さらに次のシングルも作ってもらったんです」。
こうして、1979年12月、吉田美奈子が歌詞を書き、山下達郎が作曲・編曲を手掛けた、アン・ルイス17枚目のシングル「恋のブギ・ウギ・トレイン」は、リリースされるのでした。
山下達郎プロデュースのシングル「恋のブギ・ウギ・トレイン」をリリースし、完全にアイドル路線から、アーティスト路線へシフトしたアン・ルイスでしたが、翌1980年、彼女は、歌手・桑名正博と結婚し、翌1981年5月の長男誕生をキッカケに、一時音楽活動を休止します。
「アンが出産後、音楽活動を再開する時に話題性が必要だと思っていた僕らは、インパクトのあるシングルを作ろうと考えたんです。そこで曲は、彼女が憧れていた沢田研二に依頼し、歌詞は、三浦百恵さんにお願いすることにしたんです。僕は事務所のスタッフと共に、結婚後、芸能活動を引退していた三浦さんの自宅を訪ねて、アンのために歌詞を書いてくれるように依頼しました。三浦さんは、歌詞を書くだけならと言う条件で引き受けてくれたんです」。
こうして、三浦百恵が歌詞を書き、沢田研二が曲を作った、アン・ルイス出産後、初のシングル「ラ・セゾン」は、1982年に6月にリリースされるのでした。
ラ・セゾンは、チャート最高位3位、約35万枚のセールスを記録。髪の毛を、金髪に染め、ド派手な衣装を着てバンドスタイルで歌うアン・ルイスは、ロックファンからの支持も集めるようになっていきます。
またアン・ルイスは、それまで彼女が在籍していた、渡辺プロダクションの歌謡曲制作部門から、山下久美子や大沢誉志幸などロック、ニューミュージックのアーティストを対象に作ったセクション「ノンストップ」へ移ります。「この頃からアンは、自己アピール力が強くなって、バンドスタイルで歌いたい。ロック色を前面に出した音楽を、自己プロデュースして歌いたい、と訴えてきたんです」。
当時、ノンストップのプロデューサーを務めていた、中井さんは、当時をこう振り返ります。
それまでアン・ルイスが歌っていた歌謡曲に、新たにロックを融合させた「歌謡ロック」と呼ばれる彼女独自の路線へ突き進み始めたその音楽性をさらに高めるため、松崎さん達スタッフは、さらに外部のソングライターを積極的に使っていくようになります。
「次に僕達が白羽の矢をたてたソングライターは、矢沢永吉さんのバックバンドを務めた後、自分達のユニット活動、そして作家活動を始めていたNOBODYでした。彼らが生みだす、イギリス北部を発祥とする、マージービートと呼ばれるUKロックの音楽テイストに僕は魅かれたんです」。
NOBODYは、1983年2月にリリースした、22枚目のシングル「LUV-YA」を皮切りに、アン・ルイスへ次々と曲を提供していきます。
「僕はアンの1年ぶりのシングルを作る時、アンの少し不良っぽいキャラクターにあわせて、当時ディスコやクラブが続々とOPENしていた六本木を舞台に、男と女の出会いをテーマに曲を作っていくことに決め、歌詞を湯川れい子さんにお願いしたんです。湯川さんは、海外アーティストのインタビューを数多くこなす音楽評論家、翻訳家としても活躍されていたので、英語を母国語とするアンの、歌詞に対する独特の感性を、的確な日本語詞として翻訳できる適任者だと思ったんです」。
湯川れい子さんは、アン・ルイスのキャラクター性を参考に、女性ならではの視点で歌詞を書きます。
「湯川さんが書いた歌詞を、NOBODYも気に入ってくれ、歌詞を渡して数日後には曲を作ってくれたんです。さらに、湯川さんは、その曲に合わせて、歌詞を手直ししてくれて、曲が完成。曲を気に入ってくれたテレビ朝日のドラマプロデューサーが、とんねるず主演の深夜ドラマ『トライアングル・ブルー』の主題歌として起用してくれたんです。曲を作った当初は、サビの部分は女性コーラスだけだったんですが、ドラマの主題歌としてTVで流れた時に、物足りなさを感じた僕らは、急遽曲を作ったNOBODYの二人にコーラスに参加してもらって、曲に迫力を加えたんです」。
こうして、1984年10月、アン・ルイス25枚目のシングル「六本木心中」はリリースされるのでした。
1984年10月にリリースされた、アン・ルイスの25枚目のシングル「六本木心中」は、チャート最高位12位、約29万枚の売上を記録します。
「アンにとって、一番売れた曲は「ラ・セゾン」ですが、音楽ファンにとって馴染み深いのは、やっぱりこの曲です。アイドル歌手としてデビューしたアンが、途中で歌謡ロックの路線へ転換。この曲で、女性ロックシンガーとしてのポジションを、確立させたと言っても間違いありません」
最後に、担当ディレクターを務めた松崎さんは、こう話してくれました。
出会いを繰り返し、個性を磨く中で、80年代を代表する歌謡ロックの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.白い週末/アン・ルイス
M2.グッド・バイ・マイ・ラブ/アン・ルイス
M3.甘い予感/アン・ルイス
M4.女はそれを我慢できない/アン・ルイス
M5.恋のブギ・ウギ・トレイン/アン・ルイス
M6.ラ・セゾン/アン・ルイス
M7.LUV-YA/アン・ルイス
M8.六本木心中/アン・ルイス
196回目の今日お届けしたのは、「C-C-B/Romanticが止まらない」でした
「今から29年前の1982年、当時、東京・原宿の路上で、ハワイのFM放送局「KIKI」の放送を録音したカセットテープが売られていたのをヒントに、僕は、ミニFM放送局の立ち上げを思いついて、8月に、青山に、日本初のミニFM放送局「KIDS STATION」を立ち上げたんです。それと同時に、和製ベンチャーズと、和製ビーチ・ボーイズをコンセプトにしたバンドを作って、彼らの曲を収めた自主制作のカセットテープを販売したんです。その中のバンドのひと組が、ココナッツ・ボーイズでした」。
ミニFM放送局「KIDS STATION」のプロデューサーを務めた上野さんは、当時をこう振り返ります。
1982年夏、東京・青山に開局したミニFM放送局「KIDS STATION」が作った一本のカセットテープ『Raspberry Avenue』。ここから生まれたのが、和製ビーチ・ボーイズをコンセプトにした「ココナッツ・ボーイズ」でした。
「ココナッツ・ボーイズ」は、上野さんが、知り合いの音楽関係者から紹介された渡辺英樹、笠浩二、関口誠人ら、6人のメンバーで結成されます。
「僕が彼らに初めて出会ったのは、1982年の暮れでした。カセットテープを聴いて、面白いと思った僕は、上野さんから紹介してもらって、彼らを育ててみることにしたんです。彼らは、和製ビーチ・ボーイズがコンセプトだった割には、肝心のビーチ・ボーイズの知識は全くと言ってもいいほど、持っていなかったんです」。当時のポリドールレコードで、担当ディレクターを務めた渡辺さんは、ココナッツ・ボーイズとの出会いについてこう振り返ります。
「彼らは、メンバーのほとんどがリードボーカルをとることができたので、僕は、コーラスを徹底的に鍛えれば、面白いポップスバンドになると思ったんです。そこで、『Raspberry Avenue』のディレクションにも参加していて、ビーチ・ボーイズに詳しかった萩原健太さんに手伝ってもらって、彼らを鍛えることにしたんです」。
こうして、ココナッツ・ボーイズは、半年間に渡って、渡辺さん、萩原さん達のアドバイスを受けた後、1983年6月に1stシングル「Candy」でデビューするのでした。
1983年6月、ココナッツ・ボーイズは1stシングル「Candy」と、1stアルバム『Mild Weekend』をリリースします。
「1stシングルは、アルバムを作る時に萩原健太さんに手伝ってもらった経緯もあって、彼が作った曲を選んだんです。ただ、僕は、本当は、僕の実の兄でもある、筒美京平に、曲を作ってくれるように頼んでいたんです。ところが、当時兄は、作曲家としての仕事が多忙を極めていて、僕の頼みなんか聞いてくれる状況ではなかったんです」。渡辺さんは、当時をこう振り返ります。
「1stシングルとアルバムはあまり売れませんでした。僕は彼らに、とにかく、ひたすら練習を積み重ねてもっと上手くなってもらうしかないと考えて、来る日も来る日も、スタジオで練習をさせたんです。もちろん、ライブハウスに出演もしていたんですが、ライブは、観客の雰囲気などで演奏の善し悪しが分からなくなるので、とにかく静かなスタジオで練習させたんです。スタジオは、静かなので、演奏が上手いか下手か直ぐに分かりますから」。
翌1984年、ココナッツ・ボーイズは、音楽的志向の違いから、メンバー3名が脱退。代わりに、田口智治、米川英之の二人が新メンバーとして加入し、5人組となった、ココナッツ・ボーイズは、7月に2ndシングル「瞳少女」をリリースするのでした。
1984年7月にリリースされた、ココナッツ・ボーイズの2ndシングル「瞳少女」は、ロート製薬のCM曲として起用されますが、残念ながらヒットには至りません。
「当時から、メンバーの渡辺と関口は、オリジナル曲を書いていたんですが、とにかくヒット曲を出したいと考えた僕らは、作詞家として頭角を現し始めていた秋元康さんに、この曲の詞を書いてもらい、さらに、当時、チェッカーズを手掛けて一躍時の人となっていた、芹澤廣明さんに曲を作ってもらったんです。しかしながら、結果的には曲は売れず、本当にどうにかしないといけないと思っていた時に、翌年の1985年1月にスタートするTBS系ドラマ『毎度おさわがせします』の主題歌提供の話が、知り合いのドラマ制作会社から飛び込んできたんです」
「話が余りにも突然だったので、ドラマ制作会社のスタッフから、詳しい話を聞くと、どうやら、元々は、当時路上パフォーマンス集団として人気を集めていたユニット「一世風靡セピア」が、主題歌を歌う予定で話が進んでいたらしいんです。ところが、中学生の性教育をテーマにした、コミカルなドラマのストーリーと、一世風靡セピアの歌はマッチしないという理由で、彼らが歌う話が白紙に戻って、急遽、僕らに話が回ってきたんです。チャンスだ、と思った僕は、今度こそは、という思いで、兄の筒美京平に曲を書いてくれるように頼んだんです」。
「ヒット曲を出したい」と言う、実の弟・渡辺の強い想いに、兄・筒美京平は、曲を作るにあたって、ひとつの条件を出します。
「松本隆が詞を書くのならというのが、兄の条件でした。もちろん、僕に異論はありません。実際には、兄が、直接、松本隆さんに頼んでくれて、僕は松本さんに、スピード感ある詞を作って欲しい、とだけリクエストしたんです。兄の筒美京平は、メンバーの笠の声質を気に入ってくれていたので、彼をリードボーカルにして、残り3人のコーラスを活かす形で曲を作れば売れると考えて、メロディを作ってくれました。そして、そのメロディに乗る形で、松本さんが詞を書いてくれたんです。あと、松本さんは、曲のタイトルの文字数を、わざとたくさんにして、オリコンのチャート表に載ったとき、他のタイトルよりも目立つように工夫してくれたんです。」
「曲と詞が完成し、アレンジも、兄の筒美京平と付き合いが深い船山基紀さんにお願いしました。兄は、ロックっぽい曲に仕上げて欲しいと思っていたみたいなんですが、船山さんは敢えてテクノ・ビートと歌謡曲のテイストを融合させたアレンジを考えてくれました。ハーモニーや、バックコーラスは、レコーディングの現場で決めたんです。それから、曲のキメとなる歌詞「止まらない」と言う箇所のメロディは、「止まらない」の「と」と言う言葉の後に、わざと休符を置く形に、レコーディングの最後になって、変えたんです。曲を最後まで聴かせるためには、フックとなるフレーズが必要ですから。結果的に、そこが曲を聴いた人に大きな印象を与えることになったと思います」。
完成した曲を聴いた、渡辺さんや、ドラマ制作のスタッフ達は、その完成度の高さに満足。渡辺さん達は、"曲は絶対に売れる。後は、お前達自身がもっとキャラクター性を作って、音楽ファンにインパクトを与えた方がいい"というアドバイスをココナッツ・ボーイズにおくります。そこで、ココナッツ・ボーイズのメンバーは、バンド名を、頭文字だけを組み合わせた「C-C-B」と改め、さらに、見た目のインパクトを与えるために、自分達の髪の毛を、紫、グリーン、黄色、赤に染めて、衣装も、原色を使ったド派手なものを着ることを決めます。
こうして、1985年1月、TBS系ドラマ『毎度おさわがせします』の主題歌として起用された、ココナッツ・ボーイズ改め、C-C-Bの3枚目のシングル「Romanticが止まらない」は、リリースされるのでした。
1985年1月にリリースされた、C-C-Bの3目のシングル「Romanticが止まらない」は、セールスチャート最高位2位、約52万枚の売上を記録します。
「筒美京平、松本隆、船山基紀というヒットメーカー達の組み合わせによる最高のポップナンバー。そして、当時としては珍しい、カラフルな髪型と派手な衣装で、若者達の心を一気に掴んだ彼らのキャラクター。特に、当時は最先端だったシモンズのシンセ・ドラムを叩きながら熱唱する笠の姿は、かなり印象的だったと思います。とにかく、全てのタイミングが、見事なまでに組み合わさったからこそ、この曲は生まれ、彼らの人気が一気に爆発したんです」。最後に、渡辺さんは、こう話してくれました。
偶然巡ってきたチャンスが、ヒットメーカー達の多彩なアイディアによって、ビッグチャンスへと生まれ変わった、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Fun,Fun,Fun/ザ・ビーチ・ボーイズ
M2.Candy/ココナッツ・ボーイズ
M3.瞳少女/ココナッツ・ボーイズ
M4.Romanticが止まらない/C-C-B
195回目の今日お届けしたのは、「HOUND DOG/ff」でした
2011年3月11日に発生した、東日本大震災。大友康平さんは、震災発生から5日目に、被災地に救援物資を届ける一方で、ミュージシャンとして何をすべきかを考えていました。
そして4月4日、日本テレビの情報番組『スッキリ!』に出演した際、事務所に寄せられた数多くのメールに応え、東日本大震災で被災された方々を励ます意味を込めて、スタジオで生で「ff」を歌います。
さらに、番組終了後、視聴者からの反響が数多く番組に寄せられ、大友康平は、改めて被災者の方々に、歌の力を届けたいと考えて、東北出身のミュージシャンやプロスポーツ選手、文化人ら12人に呼び掛け、震災復興支援のミュージックビデオ「ff We Are The NIPPON」を制作します。
「このミュージックビデオを作る時、歌声でリレーするよりも、その歌を歌っている姿にスポットを当てた方が印象的で、参加してくれた方々の思いが伝わるかもしれない」という制作スタッフのアイディアを基に作った、「ff We Are The NIPPON」。
多くの人々を励まし、勇気づけることとなった、この「ff」は、ロック・バンドHOUND DOGの結成から、大友康平自身が積み重ねてきた音楽人生の経験から、生まれてきた曲でした。
「1975年に東北学院大学に入学した僕は、学内の軽音楽サークル「TMS(東北学院大学ミュージック・ソサイエティ)」に入部するんですが、すぐには、自分のバンドを組むことができず、日々悶々としていました。その年の秋になって、ようやく、サークル主催のライブで歌った僕の歌声に感動してくれた、サークルの同級生・高橋良秀が声をかけてくれて、翌年の1976年に、彼とバンドを作ることができたんです」。大友康平さんは、バンド結成当時についてこう振り返ります。
1976年、大友康平は、高橋良秀らと一緒にロック・バンド「HOUND DOG」を結成。その後、数度かのメンバーチェンジを繰り返し6人組バンドとなったHOUND DOGは、地元・仙台を中心に活動を続けていきます。
「当時は、ロックと言えば、ギター中心のインストゥルメンタル系が幅を利かせていた時代で、歌が割りと軽く見られていたんです。僕はとにかく、そのイメージを打破したかったんです。ステージパフォーマンスは、アメリカのロック・バンド「Jガイルス・バンド」のライブアルバムを擦り切れるほど聞いて参考にして、ボーカルは、ロッド・スチュアートのマイクパフォーマンスを真似てました」。
仙台を始め、東北地方で圧倒的な人気を集めていったHOUND DOGのライブパフォーマンスの評判は、東京まで伝わり、1979年秋、彼らの噂を聞きつけた、CBSソニーのスタッフは、ソニーの新人発掘オーディション、第1回SDオーディションに彼らを参加させ、見事合格。翌1980年3月、ハウンド・ドックは、1stシングル「嵐の金曜日」でデビューを果たすのでした。
「デビュー前から、僕らは、音楽業界の中では話題になっていたんですが、実際には、デビュー曲はセールスチャート100位にも入りませんでした。唯一、有線放送だけが、トップ10にランクインし続けたんです。いきなり大ヒットを飛ばし、それで終わるパターンのアーティストがいる中で、これはこれで良かったと思います」。大友さんは、デビュー当時をこう振り返ります。
1stシングルのセールス結果は、伸び悩んだものの、デビュー直後に行った東北地方14ヵ所を回るライブツアーは、大友康平の類まれなるボーカルセンスで、オーディエンスを圧倒し、大盛況。その後も、HOUND DOGは、単独ライブや、イベント出演など、デビュー1年目に約120本を超えるライブを行います。翌年の1981年も、HOUND DOGは、ヒット曲には恵まれませんでしたが、年間150本も行なったライブの動員は着実に増え続け、その結果が彼らを奮い立たせるのでした。
「僕達は、ライブがやりたくて、全国ツアーがやりたくて、プロになったようなものだったんで、とにかく「ライブ命」で、ライブができる場所があればどこへでも行っていました。ライブの熱さや、ロックンロールの楽しさ、バラードの切なさ、ひとつの会場で同じ時間と空間を共有できる一体感、分かち合う感動と興奮の充実感。とにかく、ライブの魅力を伝える言葉は尽きないんです」。
翌1982年1月、5枚目のシングル「浮気なパレット・キャット」が、カネボウ化粧品の春のキャンペーンソングに起用され、セールスチャート最高位19位、約13万枚のセールスを記録。その勢いの中、5月には、東京日比谷野外音楽堂での2daysライブを成功させます。そして、翌1983年7月、HOUND DOGは、11月に予定されていた初の日本武道館ライブに先駆けて、5枚目のアルバム『BRASH BOY』を発売するのでした。
HOUND DOG5枚目のアルバム『BRASH BOY』に収録された「ラスト・ヒーロー」は、初めての日本武道館でのライブに向けて、作られた1曲で、この曲もパフォーマンスされた、H初の日本武道館ライブは、約1万人のオーディエンスを集め、ライブバンド、HOUND DOGの評判を決定づけます。さらに、翌年の1984年、メンバーチェンジで、新たに、元ツイストの鮫島秀樹と、橋本章司、西山毅がメンバーとして迎えたHOUND DOGは、日本でもっとも勢いのあるロックンロールバンドとして、その人気を加速させていきます。
翌1985年、HOUND DONGは、夏にリリースを予定していたアルバムの曲に、あるひとつの思いを込めます。
「それまで、HOUND DOGの曲と言えば、オーソドックスなロックンロールか、バラード曲が中心だったんです。しかし、デビューから6年。レコードが売れないことや、メンバーチェンジなど数々の挫折を経験してきた中で、改めて自分達にとって何が一番大切なのかを考えてみると、僕達にはライブしかなかったんです。ライブに始まり、ライブで人と出会い、ライブだけが評価されてきたHOUND DOG。大切なのは、そんなライブに集まってくれる人達に向けて、自分達が伝えたい事を歌うだけじゃないかと。それに気がついた僕達は、それまでの現状を打破する意味で、行進曲のような、みんなが、ライブで乗ってくれるようなテンポの曲を作ったんです」。
「この曲は、作詞家の松尾由紀夫さんが書いた、歌詞のサビ部分「愛がすべてさ」という、当時のロックの曲としては、掟破りのような歌詞が一番のポイントだったんです。曲が完成し、レコーディング前にひと足先にライブでは歌っていたんですが、その時はサビの一部分に英語の歌詞もあったんです。
ただ、ライブで何度か歌っている中で、このサビの部分は、連呼した方がいいだろうという話が浮上してきて、実際に、レコーディングで、サビの歌詞を変更して歌ってみると、どこにもない力強い歌に生まれ変わったんです」。
この曲は、力強い言葉とドラマティックなサウンドが評価されて、日清食品「カップヌードル」のCMソングとして起用されることが決定。「負けるもんか 負けるもんか!」というメッセージがメインコピーの、チャレンジとアドベンチャーをテーマにしたテレビCMも作られ、オンエアされると同時に多くの反響を集めていきます。
こうして、1985年8月、HOUND DOG10枚目のシングル「ff(フォルティシモ)」は、リリースされるのでした。
1985年8月にリリースされた、ハウンド・ドッグの10枚目のシングル「ff(フォルティシモ)」は、セールスチャート最高位11位、約22万枚の売上を記録します。
「この曲は、バンドにとっても、自分にとっても代表曲です。毎年、たくさんのバンドやシンガーがデビューしていきますが、ほとんどの方々はヒット曲も、代表作もなく音楽業界から消えていっているのも事実です。そんな厳しい音楽の世界の中で、ヒット曲や代表作があるということは、本当に幸せなことだと思います。この曲がヒットした頃は、聴く人みんなへの勇気を与えることができたり、励ましになったりすれば、と僕自身、吠えるように歌っていました。
今回の震災直後、多くの方々から、昔自分がこの曲で励まされたように、今、改めて大友さんにこの曲を歌ってもらって、被災者の方々を励まして欲しいといった声がたくさん寄せられたんです。この曲が持っている、「歌のチカラ」の偉大さに、感謝しています」。
最後に、大友康平さんは、こう話してくれました。
多くの人たちを奮い立たせてきた愛と勇気の名曲が、
再び、その力を発揮した瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ff/大友康平
M2.ジャスト・キャント・ストップ・ミー/Jガイルズ・バンド
M3.嵐の金曜日/HOUND DOG
M4.ラスト・ヒーロー/HOUND DOG
M5.ff/HOUND DOG
194回目の今日お届けしたのは、「小泉今日子/なんてったってアイドル」でした
「僕が彼女に初めて出会ったのは、1982年の秋だったと思います。
当時僕は、同じビクター音楽産業所属の山田邦子の制作担当ディレクターで、山田が出演していたTBSのバラエティ番組『パリンコ学園No.1』の収録スタジオで彼女に初めて会ったんです。彼女は、どこにでもいる普通の女の子というイメージで、一緒に出演していた同期の松本伊代や堀ちえみと比べても、印象度が薄かったんです」
後に、制作担当ディレクターを務めた田村さんは、小泉今日子との出会いについて、こう振り返ります。
1966年2月、神奈川県厚木市に生まれた小泉今日子は、歌手になることを夢みて、彼女が中学二年の時に、「スタ誕」の愛称で親しまれ、数多くの歌手を誕生させていた日本テレビのオーディション番組『スター誕生!』に応募。番組予選を勝ち抜いた小泉今日子は、1981年春の決選大会で、ビクター音楽産業、現在のビクターエンタテインメントを含む3社のレコード会社から指名を獲得します。その中から、ビクター音楽産業と契約した小泉今日子は、1982年3月に1stシングル「私の16才」でデビューします。
「小泉今日子の1stシングル「私の16才」と、7月に発売した2ndシングル「素敵なラブリーボーイ」はいずれもカバー曲で、9月に発売した3枚目のシングル「ひとり街角」が、彼女にとって初めてのオリジナル曲だったんです。デビュー当初、なぜ、小泉今日子がカバー曲を歌うことになったのかは、僕も詳しい理由を聞かされていないんですが、恐らく、所属事務所とレコード会社は、彼女にどんな曲を歌わせたら良いのか、はっきりとした方針が決まっていなかったからだと思います」。
1982年の暮れ、田村さんは上司から、翌年の、1983年の春から、小泉今日子の担当に就くことを命じられ、早速5枚目のシングルの制作に取り掛かります。
「"花の82年組"と呼ばれていた、同期の中森明菜、松本伊代、堀ちえみらが既にヒット曲を放っている中で、小泉今日子は、一歩、二歩どころか、三歩も四歩も出遅れている状況でした。とりあえず僕は、彼女を、まずは、三番手にぐらいにしたいと考え、当時の音楽業界で、困った時の筒美京平とまで呼ばれていた、ヒットメーカーの筒美京平さんに、5枚目のシングルの作曲をお願いしたんです」。
「筒美京平さんは、小泉のために2曲作ってくれて、その曲の作詞を、当時、放送作家から作詞家として幅を広げようとしていた秋元康さんと、康珍化さんの二人にお願いしたんです」。
ディレクターの田村さんは、秋元康と康珍化、二人の作家が書いた歌詞を検討した結果、康珍化が書いた歌詞をA面の曲として採用することを決めます。こうして小泉今日子は、1983年5月に、5枚目のシングル「まっ赤な女の子」を、リリースするのでした。
1983年5月にリリースされた、小泉今日子の5枚目のシングル「まっ赤な女の子」は、自己記録更新となる、セールスチャート最高位8位、約22万枚の売上を記録します。
「康珍化さんが書いた歌詞は、キュートでポップ感に溢れ、筒美さんが作ったメロディとの相性も抜群だったんです。それから、アレンジは、筒美さんのオーダーで、プログレッシブ・ロックバンド「四人囃子」で活躍した佐久間正英さんが担当しました。佐久間さんは、当時流行っていたスティックスの「ミスター・ロボット」を参考に、曲の出だしのコーラス部分に、ヴォコーダーを使うなど、曲全体にテクノポップの要素を取り入れて、アレンジしてくれました」。田村さんは、当時をこう振り返ります。
ディレクターの田村さんは、その後の小泉今日子のシングル曲を、筒美京平さんと、当時、アイドルの曲を多数手がけていた馬飼野康二さんの二人に、交互に依頼していきます。
「二人にお願いした理由は、一人の作家に固定すると、どうしてもマンネリ化するし、精神的な負担を掛けてしまうと思ったので、一曲ごとに作家の組み合わせを変えることにしたんです。当時は、レコード会社のディレクター主導でアイドルの個性を作っていく手法が当たり前の時代だったので、当然、僕も、自分自身の力で小泉今日子の個性を作っていきたかったんです。アイドルの良い子が松田聖子、悪い子が中森明菜ならば、小泉今日子は、どこにでもいるような普通の女の子というイメージを作って、彼女のポジショニングを確立させようと思ったんです」。
その後、担当ディレクター田村さんが組み立てた戦略の下、小泉今日子がリリースした曲は、ヒットを連発し、1984年3月に、康珍化が作詞、馬飼野康二が作曲した9枚目のシングル「渚のはいから人魚」は、小泉今日子にとって初のセールスチャート1位を獲得するのでした。
1984年3月にリリースされた、9枚目のシングル「渚のはいから人魚」以降、小泉今日子がリリースするシングルは、全てセールスチャートの1位を獲得し、彼女は一躍日本のトップアイドルとしての地位を確立していきます。
しかし、ディレクターの田村さんは、翌年の1985年春、女子高生を中心としたテレビバラエティ番組『夕焼けニャンニャン』が始まると、小泉今日子をはじめとした、女性アイドルの勢力図が変わっていくことを感じるようになります。
「秋元康さんが、普通の女の子をコンセプトに作ったおニャン子クラブは、番組開始と共にジワジワと人気を集めて、7月に発売した1stシングルがいきなりチャート最高位5位を記録しました。僕は、このままでは、小泉今日子の存在が危うくなっていくと感じて、これからは彼女達を上回るインパクトのある作品が必要だと考えたんです」。
ディレクターの田村さんは、より刺激の強い曲を求めて、小泉今日子が11月に発売を予定していた15枚目のシングルの作詞を、敢えて、おニャン子クラブの仕掛け人として脚光を浴びていた秋元康さんにお願いすることを決めます。
「「まっ赤な女の子」以降、小泉今日子のシングルのA面の作詞を秋元さんにお願いすることは無かったですが、彼は、企画力や発想力に優れた人物だったので、シングルのB面曲や、アルバムプロデュースをお願いして、付き合いは続けていたんです。実は、秋元さんに作詞をお願いしたほぼ同じ時期に、当時、小泉がCM出演していた富士フィルムが、一般の人達から、小泉今日子が歌う曲の歌詞を募集する企画が進んでいて、秋元さんにお願いした歌詞の完成と、ほぼ同じ時期に、一般公募の中から「私はスターよ」と言う曲が選ばれたんです。
実際にこの歌詞が使われることはなかったんですが、秋元さんも、「私はスターよ」という曲を書いた一般の人も、偶然にも当時の小泉今日子に関して、同じイメージを持っていたことに、僕らスタッフも驚いたんです。」
こうして、小泉今日子15枚目のシングル「なんてったってアイドル」は、1985年11月にリリースされるのでした。
1985年11月にリリースされた、小泉今日子の15枚目のシングル「なんてったってアイドル」は、セールスチャート最高位1位、約28万枚の売上を記録します。
「最初は、曲のタイトルに関して、"こんなに安易なネーミングでも良いのか"という意見が、レコード会社内部でもあったんです。しかし、結果的にはヒットし、女性トップアイドル小泉今日子の健在ぶりを、あらためて示す曲となったんです。しかし、小泉今日子のシングル連続1位獲得は、この曲を最後にストップし、翌年に入るとおニャン子現象が絶頂期を迎え、それまで僕らが関わってきた女性アイドルの作り方が、大きく変わっていくことになっていくんです」最後に、ディレクターを務めた田村さんは、こう振り返ってくれました。
女性アイドルブームの頂点が、次のアイドルブームへの分水領となった、
時代を代表する、J-POPアイドルソングが生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.私の16才/小泉今日子
M2.まっ赤な女の子/小泉今日子
M3.渚のはいから人魚/小泉今日子
M4.なんてったってアイドル/小泉今日子
193回目の今日お届けしたのは、「中山美穂/色・ホワイトブレンド」でした
「僕が彼女と初めて出会ったのは、1984年の春でした。既に、ティーン向けのファッション雑誌のモデルとして芸能活動を始めていた彼女は、もともと歌手志望で、所属事務所も歌手としてデビューさせることを決めていたんです。そこで、まずはデモテープを作ることになって、彼女が大好きだった杏里の歌を歌ってもらって、音域を調べることから始めたんです。彼女は、色黒で、大きな目で、目力があるのが印象的でした」。
デビュー当時、キングレコードで制作担当ディレクターを務めた福住さんは、中山美穂との出会いについて、こう振り返ります。
1970年3月、東京都に生まれた中山美穂は、彼女が中学一年の時に、原宿でスカウトされて、モデルクラブに所属します。幼い頃から、歌手に憧れていた中山美穂は、雑誌モデルとして活躍した後、キングレコードと契約します。
「当時は、松田聖子、中森明菜を代表とする女性アイドルが、毎年のように誕生し、各レコード会社が、競って、その年に売り出すアイドルを探していた時代でした。当然のように、キングレコードも、売れる女性アイドルを探していたんです。僕は、彼女を紹介された時、まだ中学生なのに、少し大人びた低い声が特長的で、このままボイストレーニングを積み重ねていけば、間違いなくキングレコードの看板アイドルになる、と確信したんです」。
1985年1月、中山美穂は、歌手としてのデビューに向けて準備を進めていく中で、TBS系ドラマ『毎度おさわがせします』のヒロイン役として、ひと足先に女優としてデビューします。
「思春期まっさかりの中学生を主人公に、性教育をテーマにしたこのドラマで、彼女は、ちょっと悪い女子中学生役として出演したんです。彼女は、同世代の女性からは共感を集め、男性からは憧れの存在となって、注目を集めるようになったんですが、実際は、ドラマの役柄とは正反対で、普段は無口でおとなしい女の子でした」。
こうして、中山美穂は、ひと足先に女優としての活動をスタートした後、1985年6月に、1stシングル「C」をリリースするのでした。
1985年6月にリリースされた、中山美穂の1stシングル「C」は、セールスチャート最高位12位にランクインし、約17万枚のセールスを記録します。
「1stシングルの作詞を担当した松本隆さんは、ドラマに出演していた中山美穂を見て、彼女の存在感に目を留めてくれて、自ら、彼女の曲の歌詞を書くことを提案してくれたんです。ドラマからイメージした、少し意味深なタイトルが付けられた1stシングルは、音楽ファンの間でも、賛否両論を巻き起こしたんですが、それは、僕らが狙っていた戦略でもあったんです」。
「当時、僕らレコード会社の担当ディレクターは、他のレコード会社のディレクターと情報交換しながら、自分が担当する女性アイドルの売り出し方を常に考えていました。そんな中で、僕は中山美穂を、デビュー前から持っていた大人の雰囲気に、ドラマで演じた、ちょっと不良の女子中学生役のイメージを加えていくことで、他の清純派アイドルとは違う、小悪魔的な売り出し方を考えていたんです。だから、松本隆さんが書いた曲のタイトルは、まさに狙い通りだったんです」。
レコード会社の担当ディレクターを務めていた福住さんは、中山美穂のデビュー当時をこう振り返ります。
中山美穂は、1stシングルに続き9月に2ndシングル「生意気」を発売。その合間をぬって、8月からはTBS系ドラマ『夏・体験物語』にも出演します。さらに、12月には、中山美穂自らもマドンナ役として出演した映画『ビー・バップ・ハイスクール』の主題歌をリリースするのでした。
1985年12月にリリースされた、中山美穂の3rdシングル「BE-BOP HIGH SCHOOL』は、セールスチャート最高位4位、約18万枚の売上を記録。さらに、中山美穂は、その年の「日本レコード大賞」で最優秀新人賞を受賞します。
「中山美穂の1stシングルから、この3枚目までは、作詞を松本隆さん、作曲を筒美京平さんに担当していただきました。お二人は、作詞家、作曲家としてはもちろんですが、プロデュース力にも優れた方で、僕らスタッフと、中山美穂本人を交えて、次の曲のイメージを作っていく時に、色々な提案をしてくれて、この絶妙なコンビネーションが、レコード大賞で最優秀新人賞を取った大きな要因だと思っています。
しかし、当時は、松本さんも、筒美さんも、中山美穂だけでなく、色々なアイドル達に曲を作っていたので、打合せの時間を確保することにも困るような状態でした。そんな中、翌年春の資生堂のキャンペーンソングと、CM出演の依頼が舞い込んだんです」。
「資生堂の担当者は、大人びた少し低い声と、それまでの女優としての演技力に注目して、彼女を選んでくれたそうです。打ち合わせを進めていく中で、CMソングを作る数人の作家の名前が候補としてあがったんですが、その中のひとりが、竹内まりやさんでした。当時竹内さんは、シンガーとしてはもちろんですが、ソングライターとしてアイドルに曲を提供し始めていた時期で、僕の頭の中には、それまでの松本隆さん、筒美京平さんとは違った、ポップな曲を作るイメージがあったんです。僕ら制作スタッフは、竹内さんが曲を作ってくれたら、松本さん、筒美さんのコンビとはまた違った形で、中山美穂の音楽人生にとって、プラス要素になると考えたんです」
竹内まりやが作詞、作曲を担当することが決まって、中山美穂はレコーディングの場で、はじめて、竹内まりやと出会います。
「中山美穂にとって、竹内さんは憧れのお姉さんのようなイメージで、彼女は、竹内さんと一緒に仕事ができることをとても喜んでいました。スタジオでのレコーディングで、竹内さん自らが立ち合いしてくれた時は、彼女は、かなり緊張しながら歌っていたようです。」
こうして、中山美穂の4枚目のシングル「色・ホワイトブレンド」は、1986年2月、リリースされるのでした。
1986年2月にリリースされた、中山美穂の4枚目のシングル「色・ホワイトブレンド」は、セールスチャート最高位5位、約22万枚の売上を記録します。
「竹内まりやさんが作った、この曲で、彼女が、音楽の幅を広げたのはもちろんですが、それ以上に、この曲が資生堂のキャンペーンソングで、そのCMキャラクターに、彼女自身が起用されたことが、彼女にとって大きかったと思います。
レコードジャケットのビジュアルも、資生堂スタッフの協力の下で作って、雑誌の取材や、TVの音楽番組に彼女が出演する時にも、必ず資生堂の宣伝担当のスタッフが立ち合って、ヘアメイクなどビジュアル面でアドバイスしてくれたんです。その後、彼女が、本格派女優として活動を広げていく上で、とても大きな経験でした」最後に、ディレクターを務めた福住さんは、こう振り返ってくれました。
アイドルが、本格派女優としての一歩を踏み出すキッカケとなった、
J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.オリビアを聴きながら/杏里
M2.C/中山美穂
M3.BE-BOP HIGH SCHOOL/中山美穂
M4.色・ホワイトブレンド/中山美穂
192回目の今日お届けしたのは、「本田美奈子/1986年のマリリン」でした
「僕が彼女と初めて出会ったのは、1983年、彼女が高校1年の夏でした。事務所のスタッフが、彼女を原宿でスカウトし、当時僕が手がけていたアイドルグループ「少女隊」のメンバーオーディションに参加させたんです。参加した女の子たちみんなが、山口百恵など、当時人気のアイドルの歌を歌う中で、彼女は石川さゆりさんの「天城越え」を歌って、これがまた上手かった。それで、彼女だけ日を改めて歌のテストをすることになって、次に彼女が覚えてきた歌が、中原めいこの「君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。」だったんです。僕は、"難しい歌を選んだな"、と思ったんですが、彼女はこの曲も上手に歌ったんです。それで、僕は、彼女はグループよりも、ソロアーティストとして育てた方がイイと考えたんです」。
所属事務所のプロデューサー、高杉さんは本田美奈子との出会いについて、こう振り返ります。
1967年7月、東京都葛飾区で造園業を営む工藤家の長女として生まれた本田美奈子、本名・工藤美奈子は、埼玉県朝霞市に移り住みます。歌手に憧れていた母親の影響で、幼い頃から歌を歌うことが大好きだった美奈子は、地元のお祭りのステージに出場しては、歌を歌っていたと言います。
「彼女は、母親の影響で小学生の頃は金井克子や山本リンダといった、大人のポップスを、中学に入ると、都はるみや、石川さゆりといった演歌を歌っていたそうです。そういった経験があったからでしょうか、彼女は、リズム感と声の張り、そして歌を歌う時の節回しが上手かったんです。独学とは言え、演歌を中心に歌ってきたせいか、歌を歌う時に、日本語をハッキリと伝えることができたんです」。
1984年夏、美奈子は芸能事務所「ボンド企画」と契約を結んだ後、9月に長崎歌謡祭に出場して、グランプリを獲得します。
「彼女は、もともと演歌歌手としてデビューする夢を持っていたんです。しかし、僕の事務所は、演歌歌手を育てた経験が無くて、彼女には、まずは歌手としてデビューして、経験を積んだ後に、改めて演歌歌手として売り出していくことを伝えて、納得してもらったんです」。
こうして、工藤美奈子は、レコード会社「東芝EMI」と契約を結んだ後、芸名を本田美奈子と名乗り、1985年4月に、1stシングル「殺意のバカンス」をリリースするのでした。
「彼女の曲は、若手の作詞家として、当時勢いのあった売野雅勇さんと、数多くアイドルのヒット曲を手掛けていた筒美京平さんのコンビにお願いしたんです。最初に完成した曲「好きと言いなさい」は、軽快なアップテンポで始まる、典型的なアイドルソングで、売野さんも、筒美さんも、東芝EMIが彼女をアイドルとして売り出していく方針だったので、その要望通りに曲を作ってくれました。ところが、1stシングルを決める場で、本田美奈子自身が、「好きと言いなさい」ではなく、2ndシングル用に作っていた「殺意のバカンス」を1stシングルにしたいと言い出したんです。
彼女は、他のアイドルと同じ、キュートで、ポップな歌を歌うことが嫌で、結局、当時のアイドルのデビュー曲としては、異例とも言える、歌詞が少し過激なこの曲が選ばれたんです」
担当プロデューサーだった高杉さんは、当時について、こう振り返ります。
その後も、本田美奈子は、同年代のアイドルとは、違う、自分だけの個性を見つけようと、ファッションやメイク、振り付けなどを、プロデューサーの高杉さんがアメリカで買ってきた、ミュージックビデオや雑誌を参考に、必死に勉強します。
「彼女は、自分が歌う曲を、複数の候補曲の中から、彼女自身が決めていたんです。私も、無理をしてレコード会社の意向に沿って、歌いたくない曲を歌っていくよりも、彼女の歌いたい気持ちを尊重し、彼女の個性を自然のままを引き出してあげた方が、彼女自身のためになると考えたんです。2ndシングルと、3rdシングルは、レコード会社の戦略で、典型的なアイドルソングを歌う必要性があったんですが、次の曲は、美奈子自身が少し大人っぽい歌詞の曲を歌いたいと考えて、松本隆さんが作詞を担当したこの曲を選んだんです」。
1985年11月にリリースされた、本田美奈子の4枚目のシングル「Temptation」は、彼女にとって初のトップ10ヒットとなる、セールスチャート最高位10位を記録します。
「彼女は、日頃から、"新しいことに挑戦することで、新しい自分に会うことができる"という言葉を大切にしていて、貪欲に色々な事にチャレンジしていたんです。「Temptation」では、彼女自身が初めて振付にもチャレンジ、本田美奈子としての個性を見つけようと必死になっていました」。
「Temptation(誘惑)」のスマッシュヒットで、その人気に火が付き始めた本田美奈子は、翌年に発売を予定していた5枚目のシングルの作詞を、秋元康さんに依頼します。
「当時、美奈子がパーソナリティを務めていた、ニッポン放送のラジオ番組『かぼちゃークラブ』の収録で、新進気鋭の作詞家として売り出し中だった秋元康さんに会った時に、お願いしたんです。僕と秋元さんは、1985年春からフジテレビ系でスタートした番組「夕焼けニャンニャン」の立ち上げで仲良くなって、僕が秋元さんを美奈子に紹介したんです。美奈子は、秋元さんとの打合せの場で、色っぽい歌詞を書いて欲しいと頼んだんですが、それに対して、秋元さんは、彼女をマリリン・モンローに見立てて歌詞を書くことを提案してくれたんです」。
若手作詞家の秋元康が書いた歌詞に、曲は1stシングル以来ずっと本田美奈子の曲を手掛けてきた筒美京平が引き続き担当します。
「筒美さんは、アーティスト本人や、周りのスタッフの意見を尊重しながら、アレンジできるプロデュース力に優れた作曲家だったので、引き続きお願いしたんです。筒美さんは、秋元さんが書いた歌詞に一目惚れしてくれて、美奈子自身からの、少しセクシーなアレンジにして欲しいという要望にも応じて、メロディを作ってくれたんです。
しばらくして、曲が完成したんですが、今度は美奈子自身がマリリン・モンローの映画をビデオで研究し、ヘソを出したステージ衣装、そして、腰を振って踊る振付を考え出したんです」。
こうして、1986年2月、本田美奈子の5枚目のシングル「1986年のマリリン」はリリースされるのでした。
1986年2月にリリースされた、本田美奈子の5枚目のシングル「1986年のマリリン」は、セールスチャート最高位3位、約25万枚の売上を記録します。
「当時、まだ19歳だった彼女が歌ったこの曲は、作詞家として売れ始めた秋元康さんが書いた歌詞、ベテランの筒美京平さんが作ったメロディ、そして美奈子自身が考えた衣装と振付。この三つの要素が、パズルのようにぴったりと組み合わさったからこそヒットし、多くの人々の記憶にも残る歌になったんだと思います。また、当時は、アイドルがヘソを出して、腰を振って歌を歌うなんて常識外れでしたけど、今では珍しくありません。そう言った意味では、彼女のこの曲をキッカケに、日本のアイドルソングの常識が破られたといって言っても間違いないでしょう。
彼女自身も、アイドルから脱皮し、自分の個性を見つけようとしていた時期に、この曲に巡り会う事ができたんです。そしてこの曲をキッカケに、彼女は、女性だけのバンドを組んだり、ミュージカル歌手としての道を選んでいったんです。そう言った意味では、彼女の音楽人生の出発点にもなった歌だと思います。」。
最後に、プロデューサーの高杉さんは、こう振り返ってくれました。
常識にとらわれず、人気に溺れず、自分のオリジナリティを追求した本田美奈子。彼女のプロ意識が、あたらしい、J-POPアイドルソングを産み落とした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.君たちキウイ・パパイア・マンゴーだね。/中原めいこ
M2.殺意のバカンス/本田美奈子
M3.Temptation(誘惑)/本田美奈子
M4.1986年のマリリン/本田美奈子
191回目の今日お届けしたのは、「中島美嘉/WILL」でした
鹿児島県日置市に生まれの中島美嘉は、中学生の時に、ドリームズ・カム・トゥルーを聴いたことをきっかけに、芸能の道に進み、自分を表現できる職業に就きたいと思うようになります。
1998年春、中学校を卒業した中島美嘉は、高校へは進学をせず、地元・鹿児島市内のファーストフード店でアルバイト生活を送った後、翌1999年、福岡市内へ移り住み、モデルのアルバイトを始めます。
2000年秋、中島美嘉は、モデルとして様々なオーディションにチャレンジする一方で、もうひとつの夢、歌手になることを夢見て、ソニー・レコードに1本のデモテープを送ります。デモテープを聴いた、ソニー・レコードのスタッフは、その声に惹かれ、彼女を、ソニー・レコードが主催するボーカルオーディション「SD SINGERS REVIEW」に出場させます。このオーディションに見事合格した中島美嘉は、テレビドラマのヒロイン役オーディションにもチャレンジし、およそ3,000人が参加したオーディションを勝ち抜き、ヒロイン役として抜擢されることが決まります。
不良少女が、更正して歌手として活躍していくというドラマ「傷だらけのラブソング」のヒロイン役を射止めた中島美嘉は、そのドラマの主題歌を歌うことも決定。
こうして、中島美嘉の1stシングル「STARS」は、2001年11月にリリースされるのでした。
2001年11月にリリースされた、中島美嘉の1stシングル「STARS」は、中島美嘉本人がヒロイン役として出演したドラマ『傷だらけのラブソング』の主題歌として起用されて、セールスチャート最高位3位、約47万枚のセールスを記録します。
「中島美嘉本人は、女優業も歌手業も、やり方は違っても、同じ表現者として似ている部分があると考えているんです。女優にしても、歌手にしても、どちらも人の前では大袈裟に演じないと、見る人、聴く人にその思いがきちんと伝わらないからだと言っています。彼女自身、元々モデル経験もあるので、女優業と歌手業、どちらが嫌いで、どちらが好きという考え方では無く、両方を経験することが、自分にとってプラスに働くと考えているんです」。
現在、中島美嘉の制作ディレクターを務める灰野さんは、こう語ります。
圧倒的な存在感で、女優としても、歌手としても一躍注目を集めるようになった中島美嘉は、翌2002年2月、10万枚限定で2ndシングル「CRESCENT MOON」を、翌3月に3rdシングル「ONE SURVIVE」を立て続けにリリースします。
「私が彼女の制作スタッフとして関わるようになったのは、デビューから半年後の2002年春です。4枚目のシングルの制作スタッフに加わることになって、レコーディングスタジオで彼女に会ったんです。細い身体なのに、力強く、聴く人にダイナミックに響き渡る彼女の声が、とても印象的でした」。
現在も、中島美嘉の制作ディレクターを務める灰野さんは、当時のことを、こう振り返ります。
こうして、2002年5月、中島美嘉はこの年だけでも、3枚目となるシングル「Helpless Rain」をリリースするのでした。
2002年5月に、中島美嘉がリリースした4枚目のシングル「Helpless Rain」。
「この曲のレコーディングの時、彼女は聴く人に、歌詞の言葉ひとつひとつがハッキリと聴こえるように、何度も何度も歌い直したんです。曲を聴く人の心にきちんと伝わるように、最後まで妥協を許さないその姿勢が、同年代の女性を中心に多くの支持を集める理由だと思います」。
女優、そして、歌手として、一歩ずつ着実に階段を上っていた彼女の下へ、二つのオファーが同時に舞い込みます。
「ひとつは、女優・中島美嘉としての出演依頼で、7月から、日本テレビ系でスタートするドラマ『私立探偵 濵マイク』に、準主役として出演するという内容でした。そして、もうひとつは、歌手・中島美嘉として、同じ7月にフジテレビ系でスタートするドラマ『天体観測』の主題歌を歌って欲しいという内容だったんです」。
女優として、さらに歌手としてもう一歩上を目指すためのチャレンジだと考えた中島美嘉は、この二つの依頼を受けることを決めます。
「主題歌の依頼は、フジテレビのドラマスタッフが、唯一無二とも言える、彼女の歌声に魅了されたからでした。私達自身もそうで、実際、デモテープの完成直前に、プリプロと呼ばれる仮歌を作って彼女に歌ってもらったんですが、その歌声を聴いたスタッフみんな、鳥肌がたったのを今でもハッキリと覚えています。それだけで、私達は、この曲は売れる、と確信したんです」。灰野さんは、当時のことを、こう振り返ります。
シングルのレコーディングは順調にすすみ、最終作業に入っていきます。
「曲が完成し、レコーディング作業も一旦終了して、彼女には帰宅してもらいました。ところが、スタジオに残って、完成間近の曲を聴き返してみると、どうもしっくりこないんですね。何度聞き返してみても、しっくりこないんで、ひょっとして、彼女の声の高さを変えたら、上手くいくんじゃないかと考えた私達は、既に自宅に戻っていた彼女を呼び戻して、改めてレコーディングし直すことにしたんです。自宅からレコーディングスタジオに呼び戻された彼女は、声の高さを変えて歌うことに対して、嫌な顔ひとつせず、改めて歌い直してくれたんです。レコーディングし直してみると、曲の持つ表情が、がらりと変わって、より大人っぽいバラードへと生まれ変わることができました」
こうして、再度レコーディングし直すことで、生まれ変わった中島美嘉5枚目のシングル「WILL」は、ドラマ『天体観測』の主題歌として、2002年8月にリリースされるのでした。
2002年8月にリリースされた、中島美嘉の5枚目のシングル「WILL」は、セールスチャート最高位3位、約15万枚のセールスを記録します。
「この曲が多くの音楽ファンから支持を集めたことで、この曲の別アレンジバージョンが収められている、同じく8月に発売された1stアルバム『TRUE』が、セールスチャート1位を獲得することができました。
この曲で、彼女が歌う、バラードナンバーを評価してくれる音楽ファンが増えたのも間違いありません」。最後に、ディレクターを務める灰野さんは、こう振り返ってくれました。
彼女の唯一無二の歌声を活かした、J-POPバラードの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.LOVE LOVE LOVE/ドリームズ・カム・トゥルー
M2.STARS/中島美嘉
M3.Helplesss Rain/中島美嘉
M4.WILL/中島美嘉
190回目の今日お届けしたのは、「TUBE/夏を待ちきれなくて」でした
1984年、東京・町田市で行われた、音楽制作事務所「ビ―イング」主催の音楽オーディション「シルクロード音楽祭」に、前田亘輝と松本玲二が組んだバンドと、春畑道哉がギタリストとして参加していたバンドが出場します。どちらのバンドも、グランプリを獲得することはできませんでしたが、前田亘輝がベスト・ボーカリスト賞を、春畑道哉がベスト・ギタリスト賞を受賞します。そして、この音楽祭の出会いをキッカケに、前田亘輝、松本玲二、春畑道哉の3人は、前田亘輝の音楽仲間だった、角野秀行を加えて、4人組バンド「パイプライン」を結成します。
パイプラインは、シルクロード音楽祭の審査員を務めたビーイングの音楽プロデューサー、長戸大幸にアドバイスを受けながら、彼らの地元、神奈川県内のライブハウスを中心に、ラウドネス、アルカトラス、アース・シェイカーといった、ロックミュージックのカバーバンドとして活動をスタートします。
翌1985年、パイプラインは、CBSソニーが行ったオーディションに合格。バンド名を「THE TUBE」と改め、5月に1stシングル「ベストセラー・サマー」をリリース。シングル「ベストセラー・サマー」は、その年のキリンビール「びん生」のCMソングに起用されたこともあって、リリース後も順調にセールスを伸ばしていくのでした。
しかし、プロデューサーの長戸大幸が、彼らのプロフィールに、特技はサーフィンと記すなど、夏のイメージを植え付けたこともあったのか、季節が夏から秋に移り変わっていくと同時に、セールスが下降。10月にリリースした2ndシングル「センチメンタルに首ったけ」は、セールスチャート最高位64位、売上も僅か1万枚という結果に終わります。
翌1986年、長戸大幸は、THE TUBE3枚目のシングルの制作を、当時彼が信頼を寄せていたシンガーソングライターの織田哲郎に依頼。織田哲郎は、楽曲の頭の部分で、前田亘輝の突き抜けたハイトーンボーカルの魅力を、最大限活かした楽曲を制作。グループ名もTHE TUBE改めTUBEとし、3rdシングル「シーズン・イン・ザ・サン」を、1986年4月にリリースするのでした。
1986年4月にリリースされた、TUBE3枚目のシングル「シーズン・イン・ザ・サン」は、デビュー曲に続き、この年もキリンビール「びん生」のTVCMソングとして起用されます。さらに、この曲の発売直後の5月、TUBEは、ワゴン車1台に機材を積み、北海道12ヵ所を回るツアーをスタート。楽器の搬出搬入も自分達で行いながらの過酷なツアーでしたが、地道なライブの結果はすぐに成果として現れ、北海道ツアー終盤には、シングル「シーズン・イン・ザ・サン」が、北海道のラジオ局のリクエスト番組で1位を獲得。さらに、夏が迫るにつれて、「シーズン・イン・ザ・サン」のセールスチャートは急上昇し、最終的に最高位6位、約30万枚近くの売上を記録します。
白いTシャツに、ブルー・ジーンズというラフなスタイル、爽やかなルックス、そしてキャッチーなメロディで、TUBE=夏というイメージが、すっかり音楽ファンの間に定着した彼らは、翌1987年4月には5枚目のシングル「サマー・ドリーム」をリリースし、これもセールスチャート最高位3位を記録します。この年の夏には、野外を含む、全国13ヵ所ライブツアーを行い、さらに翌1988年2月には、初の日本武道館ライブを成功させます。
「この頃から、少しずつ自分達で作詞・作曲を手掛けるようになったんです。もともと、アマチュア時代に曲は書いていたんですが、プロデューサーの長戸さんの意向で、織田哲郎さんや、亜蘭知子さんが書いた曲を歌っていたんです。しかし、長戸さんは、僕らをより成長させるために、自作の歌を歌うことを解禁。1989年6月にリリースした9枚目のシングル「サマー・シティ」からは、前田亘輝が歌詞を書き、僕がメロディを書くようになったんです」。メンバーの春畑道哉さんは、当時のことを、こう振り返ります。
織田哲郎と亜蘭知子のコンビが作ったそれまでの音楽イメージを継承しながら、どうやって自分達のオリジナル・カラーを作っていくのか、メンバーは試行錯誤しながら、楽曲制作に取り組んでいきます。
「この曲は、最初に作ったデモテープを、長戸さんに聴かせたところ、NGが出たんです。長戸さんは、側にあったガット・ギターを弾いて、曲作りのヒントを与えてくれて、僕はそのヒントを基に新たな曲を作ったんです。完成した新たな曲は、それまでのTUBEのサウンドには無かった、マイナー調のメロディで、曲を聴いたメンバー全員、初めは驚いて、リリースすることに否定的だったんです。しかし長戸さんは、それまでのTUBEの音楽カラーを打ち崩したこの曲にOKを出してくれ、シングルとしてリリースすることが決まったんです」。
こうして、メンバーの誰もが最初は否定的だった曲「あー夏休み」は、TUBE11枚目のシングルとして1990年5月にリリースされるのでした。
1990年5月にリリースされた、TUBE11枚目のシングル「あー夏休み」は、セールスチャート最高位10位、約24万枚の売上を記録します。
「それまでのTUBEが作ってきた、夏を意識した爽快感溢れるサウンドや、切なさ溢れるバラード曲。
音楽関係者やファンが抱いていた、僕らの音楽に対するイメージを、このシングル「あー夏休み」は、曲が持っている、ちょっとユーモラスな部分で、いい意味で覆してくれて、その後のTUBEの音楽スタイルに、大きな影響を与えることになったんです」。曲を作った、春畑道哉は当時について、こう振り返ります。
「あー夏休み」は、その年の日本有線大賞で、有線音楽優秀賞を受賞。音楽面で大きな自信を掴んだTUBEは、翌1991年7月にリリースした13枚目のシングル「さよならイエスタディ」でも、「あー夏休み」と同様にラテンリズムのサウンドを取り入れて、セールスチャート最高位3位、約58万枚の売上を記録します。
そして1993年1月下旬、TUBEはその年に発売を予定していたアルバム制作のため、ハワイへ向かいます。
「レコーディングは、デビュー直後から1991年までは東京都内のスタジオで行っていたんです。しかし、1992年に入ると、バンド活動や、メンバーのソロ活動で日々慌ただしく、なかなか落ち着いた環境の下で曲作りに取り組めなくなっていたので、思いきって環境を変える意味で、海の見える神奈川県・観音崎のスタジオで作ったんです。ゆったりとした中で作ったアルバムの完成度に、メンバーみんな納得し、次のアルバムも、落ち着いた環境の中で作ろうと考えて、見つけたのが、ハワイだったんです。レコーディング機材は、ハワイより日本の方が良い環境にあるんですが、僕らは、のんびりとした環境の中で、リラックスしながらレコーディングに臨むことを優先して、ハワイを選んだんです」。
「曲を作る場所が、日本からハワイに変わっただけで、曲作りの作業スタイル自体は、変わらず、メンバーそれぞれが持ち寄った、アルバム用の曲のアイディアを、意見を交わしながら固めていくスタイルでした。ただ、この時は、ハワイの夏にたっぷり浸りながら、作業を進めることができ、気分的にも充実して曲を作ったんです。TUBEの曲は、それまで、どちらかと言えば爽やか系や、ラテン系の曲が多かったんですが、この曲は僕らにとっては意外とも言えるロックテイストな曲に仕上がりました」。
こうして、1993年5月にTUBEの16枚目のシングル「夏を待ちきれなくて」はリリースされるのでした。
1993年5月、TUBEの16枚目のシングルとしてリリースされた、「夏を待ちきれなくて」は、彼らにとって初めてセールスチャート1位を獲得し、約80万枚の売上を記録。さらにTUBEは、この年の大晦日に行われた「NHK紅白歌合戦」に初出場を果たし、この曲を歌います。
「正直、この曲がセールスチャート1位を獲得したという印象は少なく、むしろ大晦日に、紅白歌合戦に初出場して、この曲を歌った印象の方が強いんです。しかし、この曲をキッカケに、その後3曲連続セールスチャート1位を獲得するなど、バンドとしての新しいスタイルが確立されたと言っても、過言ではありません」。最後に、TUBEのメンバー春畑道哉さんは、こう振り返ってくれました。
ハワイの陽ざしと風が運んだ、J-POPの夏の名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ラジオ・マジック/アース・シェイカー
M2.シーズン・イン・ザ・サン/TUBE
M3.あー夏休み/TUBE
M4.夏を待ちきれなくて/TUBE
189回目の今日お届けしたのは、「小田和正/たしかなこと」でした
1947年9月、横浜にある薬局の次男として生まれた、小田和正は、1歳年上の兄の影響で、ポール・アンカ、コニー・フランシス、PPMといったポップスを聴きはじめ、自宅にあったアコースティック・ギターで、彼らの曲をカバーするようになります。
1965年、小田和正は、高校の同級生、鈴木康博、地主道夫ら4人でPPMのカバーバンドを結成し、学園祭のステージで歌を披露、人前で歌を歌う楽しさを知ります。
翌1966年春、東北大学建築学科へ進学した小田和正は、大学の講義の合間をぬって、鈴木康博と地主道夫の3人で音楽活動を続け、1969年7月に3人組バンド「ジ・オフコース」を結成。その年に行われた「ヤマハ・ライトミュージックコンテスト」全国グランプリ大会に出場し、グランプリを獲得した「赤い鳥」に続き、2位に入賞して、レコードデビューが決まります。
1970年6月、ジ・オフコースは、1stシングル「群衆の中で」をリリースしますが、翌1971年2月に、メンバーの地主道夫が、音楽の世界から離れて一般企業に就職するために、グループから脱退。残った小田和正と鈴木康博は、グループ名をジ・オフコースから、オフコースと改め、しばらくの間は、コーラスを重視した、フォーク・デュオとして活動を続けます。しかし、小田和正と鈴木康博の二人は、フォーク・ミュージックが、ニュー・ミュージックへと衣替えし、ロック・バンドが台頭し始めてきた1970年代後半になると、コーラス・デュオでは、バンドサウンドには勝てないと感じるようになります。こうして1979年、オフコースは、それまでサポートメンバーとしてレコーディングやライブに参加していた、大間ジロー、松尾一彦、清水仁の3人を、正式メンバーとして迎え入れ、5人組のバンドとして活動をスタート。
5人のオフコースとしては初めてのアルバム『Three and Two』が、セールスチャート最高位2位、約25万のセールスを記録。そして、12月にリリースした17枚目のシングル「さよなら」が、セールスチャート最高位2位を記録し、オフコースは一躍ニュー・ミュージックを代表するグループへと成長していくのでした。
シングル「さよなら」以降も、順調にヒットソング、ヒットアルバムをリリースいていたオフコースでしたが、1982年6月、日本武道館連続10日間公演を最後に、小田和正が高校時代から約18年間一緒に音楽活動を続けてきた、鈴木康博が、自分だけの新しい音楽の世界を求めて、オフコースから脱退。
オフコースは、約1年間の活動休止の後、1984年に4人で活動を再開し、1985年8月に、海外進出を狙って、全て英語ボーカルで作ったアルバム『Back Streets of Tokyo』をリリースします。
また、翌年の1986年には、オフコースとしての活動と並行して、メンバー各自がソロ活動スタート。
小田和正も、11月に1stソロシングル「1985」をリリース、12月には、1stソロアルバム『K.ODA』をリリースします。
1989年2月、オフコースが、東京ドームでのライブを以って、多くの音楽ファンに惜しまれながら解散すると、小田和正は、ソロ活動を本格的にスタート。
1991年2月には、フジテレビ系ドラマ『東京ラブストーリー』の主題歌として作った、シングル「ラブストーリーは突然に」が、セールスチャート最高位1位、約260万枚の売上を記録する大ヒット曲となります。
日本を代表するポピュラーソングアーティストになった小田和正は、1996年2月に、彼が、オフコース時代を含む過去に作った楽曲を、新しいアレンジで再録音したアルバム『LOOKING BACK』をリリース。オフコースをリアルタイムで知らない音楽ファンからも、幅広く支持を集めるようになっていきます。
そんな中、1998年に入って、小田和正がオフコース時代に作った曲の一曲が、明治生命の企業広告CM曲として使われることが決まります。
「当時、明治生命が、家族や身近な人の大切さをテーマに、想い出の写真で構成した企業広告CMを作ることになったんです。その過程で、バックに流れる曲を選ぶ時に、複数の候補アーティストの中から、聴く人を自然と癒してくれるような歌声を持っている小田和正さんが選ばれたんです。小田さんが選ばれた後、小田さんの事務所スタッフを交えて、数多くある小田さんが作った曲の中から、CMのテーマに合った曲を探す中で、選ばれたのが、この曲でした」。CM制作を担当した、広告代理店アサツー・ディ・ケイのクリエイティブディレクター江村さんは、当時のことをこう振り返ります。
「この曲の歌詞が持っている強いメッセージ性と価値感。それが、このCMの映像と上手く重なることが分かって、最終的にこの曲を選びました。小田さんが、アルバム『LOOKING BACK』で、オフコース時代の曲をセルフカバーしていた流れもあって、セルフカバーに関しても抵抗感なく了承していただき、この曲も改めて小田さんにレコーディングし直してもらったんです」。
こうして、小田和正がオフコース時代に作った曲「言葉にできない」は、新たにレコーディングし直した後、1998年から明治生命の企業広告のCMソングとして流れるのでした。
小田和正自身は、この曲「言葉にできない」について、インタビュー本『たしかなこと』の中で次のように語っています。
「スタジオでひとり曲を作っている最中、歌なんて、もしかしたら、本当は歌詞がないほうが強い印象を伝えることができるのではないかと思って、とにかくラ~、ラ~、ラ~って歌っていたんです。歌っていくうちに、このままの歌詞のほうがシンプルで、聴く人にきっと曲の強さを感じてもらえると確信したんです」。
1998年、明治生命の企業広告のCMソングとして起用された小田和正のセルフカバー曲「言葉にできない」は、約5年間もの間、おなじスタイルでCM曲として使用され、2001年5月には、第2弾のセルフカバーアルバム『LOOKING BACK2』にも収録されます。
そして2003年、明治生命と安田生命の企業合併が決まり、新たな企業広告を作るにあたって、再び小田和正の下へ楽曲提供の話が届きます。
「新しい企業広告CMを作るにあたって、私達は新しい企業が誕生する訳だから、過去を踏襲するのではなく、新しいアーティストを起用して、新鮮さを出すことを考えていたんです。ところが、新会社のCMコンセプトとして、身近な人の大切さや、普通であり続けることのありがたさという内容が決まると、前回と同じように、想い入れのある写真で構成したCMを作ることになり、議論の末、再び小田和正さんの曲を起用することが決まったんです」。
江村さんは、小田和正再起用について、こう振返ります。
しかし、今度は、既存の楽曲を使うのではなく、新たに曲を書き下ろして欲しい、という要望が出されます。この時のことについて、小田和正自身は、インタビュー本『たしかなこと』の中で、次のように語っています。
「「言葉にできない」を越える曲を作って欲しい、という要望を受けて、新曲を書き下ろしたんです。できあがった歌詞を何回も読み返し、俺はこの曲から何を伝えたいんだろうって、考えたんですが、何度考えても、曲のタイトルが浮かんでこない。タイトルが浮かんでこないと言うことは、曲のどこかに欠陥があると思った僕は、急遽一回作った曲を壊して、作り直したんです」。
こうして、小田和正が、過去の自分の作品と戦って生みだした楽曲、「たしかなこと」は、2004年の明治安田生命の誕生と同時にTVCMソングとして起用され、翌2005年5月に、小田和正23枚目のシングルとしてリリースされるのでした。
2005年5月、小田和正の23枚目のシングルとしてリリースされた、「たしかなこと」。
「初めて聴いた時は、「言葉にできない」という曲の高いハードルを果たしてクリアできるのか、正直不安でした。しかし、この曲を何度か聴くうちに、小田さんの歌声に癒され、歌詞が自然と心の中に沁み入ってくることに気がついたんです。身近にいる大切な人をコンセプトにした写真で構成したCMの映像と、小田和正さんの歌声と、そして歌詞。この三つが綺麗にシンクロすることに成功し、明治安田生命の担当者はもちろんですが、CMを観た視聴者の方々からも、「言葉にできない」と同様に多くの反響を貰うことができました」。
最後に、CMを制作したクリエイティブディレクターの江村さんは、こう振り返ってくれました。
オフコースの小田和正が作った高いハードルを、ソロアーティスト小田和正が乗り越えた、
J-POPの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.パフ/ピーター・ポール&マリー
M2.さよなら/オフコース
M3.言葉にできない/小田和正
M4.たしかなこと/小田和正
188回目の今日お届けしたのは、「RIP SLYME/STAIRS」でした
「僕が彼らに初めて出会ったのは、1997年のことでした。偶然、クラブイベントに出演していた彼らのライブを観て、間口の広いアーティストだなぁ、と注目するようになって、その後も頻繁に彼らのライブを観るようになったんです。それから、メンバーのDJ FUMIYAには、彼がRIP SLYMEに加入する直前に、僕が、当時担当していた、DA BUMPのサポートDJをお願いしたり、リミックスも頼んだこともあったんです。当時は、ヒップホップと言えばハードコアなイメージが強くて、J-POPの世界ではまだ成功事例が少なかったんですが、彼らにはその可能性を感じました。」。
現在も、RIP SLYMEの制作プロデューサーを務める横倉さんは、RIP SLYMEのメンバーとの出会いをこう振り返ります。
1994年8月、ヒップホップを通して知り合った、RYO-Z、ILMARI、PES、とDJ SHOJI、DJ Shigeの5人は、3MC+2DJスタイルのヒップホップグループ「RIP SLYME」を結成します。当時アメリカで人気を集めていたヒップホップグループ「ザ・ファーサイド」に憧れていたというRIP SLYMEは、結成してすぐ、彼ら自身が主催した初めてのクラブイベントを開催。12月には、ヒップホップグループ「ZINGI」が主催していた新人ラッパーコンテスト『YOUNG MC'S IN TOWN』に出場し、見事優勝します。
1995年、RIP SLYMEは錦糸町のクラブ『Nude』を会場に、定期的にライブを行いながら、10月にインディーズ系のレコード会社「ファイルレコード」からミニアルバム『Lip's Rhyme』をリリース。翌1996年に入ると、DJ SHOJI、DJ Shigeの二人が脱退し、しばらくの間はDJ不在のまま活動を続けますが、翌1997年にRYO-ZとILMARIの音楽仲間だったDJ FUMIYAがメンバーとして加入します。さらに翌1998年2月には、2枚目のミニアルバム『talkin' cheap』の制作を手伝った、MC担当のSUがメンバーとして加入し、現在の4MC+1DJスタイルのRIP SLYMEとなります。
1999年9月、RIP SLYMEは、Dragon Ashが主催し、スケボーキングやm-floなども参加したオムニバスライブイベント「TMC(Total Music Communication)」に参加。翌2000年の春と夏に行われたTMCにも参加したRIP SLYMEのパフォーマンスは、熱狂的な支持を集め、これをキッカケに、芸能プロダクション「田辺エージェンシー」と、さらには、レコード会社「ワーナーミュージック・ジャパン」と契約を結びます。こうして、結成から7年、2001年3月に、RIP SLYMEは、メジャー1stシングル「STEPPER'S DELIGHT」をリリースするのでした。
2001年3月に、1stシングル「STEPPER'S DELIGHT」をリリースしたRIP SLYMEは、自分達の音楽活動と並行して、Dragon Ashのツアーにオープニングアクトとして同行、全国各地で、新たなファンを獲得していきます。さらに、この年7月に、東京・渋谷クアトロで初のワンマンライブを成功させたRIP SLYMEは、同じ月に1stアルバム『FIVE』をリリースし、ヒップホップグループのデビューアルバムとしては異例とも言える、セールスチャート最高位6位、約31万枚のセールスを記録します。
「この頃から、僕がRIP SLYMEの制作プロデューサーを務めるようになったんですが、彼らは僕が初めて出会った時と印象は変わっていませんでした。ただインディーズ時代と違っていたのは、ライブ経験を積み重ねた事で、どんな曲を作ったらオーディエンスが喜んで、盛り上がってくれるのか。彼らなりに試行錯誤しながら、曲を作っていたことでした。それで、10月にリリースした、3枚目のシングル「One」は、誰が聴いても分かるPOP感を重視した作りにこだわったんです」
RIP SLYMEが10月にリリースした3枚目のシングル「One」は、セールスチャート最高位4位、約33万枚の売上を記録。さらに、翌2002年にリリースした、シングル「FUNKASTIC」「楽園ベイベー」もセールスチャート最高位2位を記録します。ブームともいえるような状況の中、7月にリリースした2ndアルバム『TOKYO CLASSIC』は、セールスチャート初登場1位を獲得、日本のヒップホップ音楽史上初となるミリオンセラー120万枚の売上を記録します。
「CDセールス、ライブ動員も着実に伸びて、ヒップホップのみならず、J-POPを代表するアーティストに成長し始めていた彼らが、次のステップとして考えたのが、もっと自由なスタイルでRIP SLYME独自の音楽スタイルを確立することでした。そのキッカケとなったのが、2003年6月にリリースした「JOINT」なんです」。
2003年6月に、RIP SLYMEがリリースした7枚目のシングル「JOINT」。
「高速で複雑なビートスタイルのドラムンベースの要素を取り入れたこの曲から、RIP SLYMEの音楽はより一層HIP HOPの枠に捉われないサウンド志向が顕著になったんです。彼らの曲は、ライブを意識した曲ばかりではなく、時には遊び心満載だったり、とてもライブでは歌えない曲もあったりします。RIP SLYMEは自由奔放なアーティスト、というイメージがこの曲をキッカケに始まったのかもしれません」。
制作プロデューサーを務める横倉さんは、RIP SLYMEの音楽についてこう語ります。
その後もRIP SLYMEは、2003年7月に、およそ5万人を集めての単独野外ライブを成功させるなど、ライブ活動にも力を入れると同時に、2006年には布袋寅泰や「くるり」とのコラボレーションしたシングルを相次いで発売するなど、精力的かつ自由自在に、活動していきます。
2008年12月、RIP SLYMEは、翌年に発売を予定していたシングルの打合せの中で、あるキーワードが提案されます。
「RIP SLYMEは、曲を作る時、季節やその時々の様々な事柄をキーワードに、次の曲の方向性を決めています。この曲を作る時は、"前を向いて突き進む"という言葉がキーワードでした。そのキーワードを基に、FUMIYAがまずDJトラックを作ってきたんですが、そのトラックが、まるで階段を一歩づつ上がっていくように、音階が上がっていくものだったんですね。それで、曲のコンセプトが、"一歩づつ、昨日よりも前へ、あと一歩上へ"という感じに決まったんです。歌詞は、曲のコンセプトが固まってから、ほぼ丸一日で完成しました。普段なら一週間、長ければ一ヵ月かけて歌詞を書くのが当たり前なんですが、史上最短で完成したんです。」。
1音ずつ音階が上がっていくトラックに乗せながら、4人のMCそれぞれが、自分に言い聞かせるように、一歩づつ、少しづつ前に、上に進んで行こうという思いを込めた、RIP SLYME16枚目のシングル「STAIRS」は、2008年12月24日に、曲のサビの部分が先行してダウンロード配信された後、翌2009年1月に曲全体をダウンロード配信、そして2月にCDとしてリリースされるのでした。
2009年2月にリリースされた、RIP SLYMEの16枚目のシングル「STAIRS」。
「RIP SLYMEのメンバー5人は、常に大切な仲間の事を考えています。それは、RIP SLYMEのメンバー、周りのスタッフ、家族などです。この曲は、そんな彼らを等身大に写している曲ですね。そこで、大サビの合唱部分のレコーディングでは、彼らのクラブ仲間や信頼しているアーティスト達に参加してもらい、その想いを表現しています。彼らは、口にこそ出して言いませんが、この曲のメロディや歌詞で大切な人を想い、その人が前を向いて歩んでいけるように、表現しています。だからこそ、この曲を聴いた人達が、この曲から大きな勇気を貰っているんでしょう」。
最後に、制作プロデューサーの横倉さんは、こう語ってくれました。
決して押し付けではなく、けれど力強い、だからこそ心に染み入る J-POPポジティブソングの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Runnin'/THE PHARCYDE
M2.STEPPER'S DELIGHT/RIP SLYME
M3.One/RIP SLYME
M4.JOINT/RIP SLYME
M5.STAIRS/RIP SLYME
187回目の今日お届けしたのは、「RCサクセション/トランジスタ・ラジオ」でした
1951年4月、東京都中野区に生まれた忌野清志郎、本名栗原清志は、彼が15歳の1965年に、当時、一大エレキ・ブームを巻き起こしていたベンチャーズに魅かれて、翌年の1966年に、同級生の小林和生、破廉ケンチの三人で、バンド「ザ・クローバー」を結成、翌1967年3月に、3人は、中学の卒業式の謝恩会で初ステージを踏みますが、中学卒業と同時に、ザ・クローバーは一旦解散します。
高校に入学すると、今度は、当時ブームになりつつあったフォーク・ソングに夢中になり始めた忌野清志郎は、小林和生と上級生を加えた、フォークバンド「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー」を結成します。PP&Mのカバーなどの他、自分達のオリジナルソングを作るようになっていた「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバー」は、翌1968年に破廉ケンチを再びメンバーに加え、バンド名を「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバーズ・サクセション」と改めます。そして、この頃から、忌野清志郎というペンネームを使って、フォーク調のオリジナル曲作りに積極的にチャレンジしはじめます。
1969年になると、「リメインダーズ・オブ・ザ・クローバーズ・サクセション」は、バンド名を「RCサクセション」と改め、TBSテレビ系の若者向け情報番組「ヤング720」のオーディションに合格し、番組に出演。さらに、その年、レコード会社東芝音工、現在のEMIミュージックジャパン主催の「カレッジ・ポップス・コンサート」オーディションに出演し、見事、合格します。
忌野清志郎は、当時のことを『ROCKIN'ON JAPAN特別号 忌野清志郎1951-2009』のインタビューの中で、次のように語っています。
「小さい頃からマンガを描くことが大好きだった僕は、将来、絵描きになりたいと思っていたんです。ミュージシャンは、パッと売れて、パッと終わってしまう、というイメージがあったので、高校卒業後は、美大に通って絵の勉強をしたかったんです。ところが、高三になって受験勉強が本格化し始めると、美大を受験するにあたって、同じ絵を描くにしても、自分の意思ではなく、あくまで受験用の絵を描かなくちゃいけなってきてから、嫌になったんです。そんな時に、東芝のオーディションに合格して、自分にはもう音楽しかない、プロになってやろう、と思ったんです」。
こうして、1970年、「RCサクセション」はレコード会社「東芝音工」、芸能事務所「ホリプロ」と契約を結び、3月に1stシングル「宝くじは買わない」をリリースするのでした。
1970年3月、RCサクセションは東芝音工から、1stシングル「宝くじは買わない」をリリース。10月に2ndシングル「涙でいっぱい」をリリースするものの、セールス的には全く振るわず、3rdシングル「ぼくの好きな先生」の発売までおよそ2年近くを費やすこととなります。
シングル「ぼくの好きな先生」がスマッシュヒットととなり、バンドとしての名前が少しは知れられるようになったものの、思っていた以上に売れない状況に忌野は苛立ちを覚えながらも、ライブを通して、多くの音楽仲間と交流を持つようになって、自分達の音楽のブラッシュアップを図ろうとしていきます。
そんな状況の中で、親しくなっていった音楽仲間のひとりが、当時RCサクセションがライブ拠点のひとつとしていた、渋谷のライブハウス「青い森」に出演していたフォークグループ「古井戸」のメンバー仲井戸麗市でした。
「1971年に、初めて忌野と出会ったんですが、当時のRCサクセションは、楽器はアコースティックだけど、演奏している音楽はソウル・ミュージシャン「オーティス・レディング」を意識した、フォークソウルミュージックでした。話をする内に意気投合した僕と忌野は、別々のバンドでありながらも、お互い時間を作っては音楽論を交わすようになっていったんです」。
仲井戸麗市は、雑誌『ROCKIN' ON JAPAN特別号 忌野清志郎1951-2009』の中で、忌野清志郎との出会いについてこう語っています。
1975年、RCサクセションは、東芝音工との契約が終了しポリドールに移籍、所属事務所も、ホリプロから独立したプロダクション「りぼん」に移籍します。しかし、この移籍に関するトラブルから、レコードを発売できない状況に陥っていたRCサクセクションは、矢沢永吉や井上陽水らのライブの前座を務めながら、コツコツと作品を作って、小さなライブハウスで歌っていきます。また、演奏する音楽もフォークから、ソウルミュージックやR&Bを意識した曲へシフトチェンジします。1977年に結成当初のメンバーのひとりだった破廉が体調を崩して、RCサクセションから脱退。翌1978年、代わりのメンバーとして、親交のあったカルメン・マキ&OZのギタリスト・春日博文、ドラマーの新井田耕造、そして、さらに、仲井戸麗市がメンバーとして加わります。
1978年9月、渋谷のライブハウス「屋根裏」でのライブに、忌野清志郎は、髪を短く切って逆立て、どぎついメイクを施し、細身のパンツと真っ赤なスーツに、銀のシューズという姿でステージに立ちます。
高校時代から、忌野が憧れていたR&Bの大御所オーティス・レディングを真似た忌野清志郎のステージパフォーマンスと、そんな忌野を盛り立てるようなミュージシャン達による、ロックンロールミュージックはうわさを呼び、ライブ動員どんどんが増加していきます。こうして、ライブバンドとして人気を確立し始めたRCサクセションは、1980年1月、9枚目のシングル「雨あがりの夜空に」をリリースするのでした。
1980年1月に、シングル「雨あがりの夜空に」の発売を記念し「屋根裏」で行ったライブは、4日間で連日200人を動員。さらに同じ年の4月に、当時、東京・千代田区霞が関にあった久保講堂で「ワンマン・ライブ"LIVE!!RCサクセション"を開催。6月にそのライブの模様を収録したライブアルバム『RHAPSODY』をリリースします。
ライブバンドとして、その人気の勢いが止まらないRCサクセションは、10月に11枚目のシングルをリリースすることを決めます。
「この曲は、1974年頃からセッションミュージシャンとしてRCサクセションの曲作りに参加していて、1979年にRCサクセションの正式メンバーと加わった、Gee2Wooこと柴田義也が、僕の家の近所に住んでいた頃、夜中によく一緒に遊んでいる中で生まれた曲です。当時、柴田は、アメリカのロックバンド「ヴェルヴェット・アンダーグラウンド」が大好きで、彼らの曲を聴きながら、コード進行を考えたんです。歌詞は、僕が、高校時代、学校の屋上で授業をサボって、一人タバコをふかしながら空を見ていた時の様子を、書いています」。
忌野清志郎が、自らの青春時代の振り返って綴った歌は、1980年10月に、RCサクセション11枚目のシングル「トランジスタ・ラジオ」としてリリースされるのでした。
1980年10月にリリースされた、RCサクセション11枚目のシングル「トランジスタ・ラジオ」。
「ライブバンドとして、RCサクセションの人気が盛り上がってきた時代に発売したこの曲。発売直後、
ある日、仕事が終わって帰りのタクシーの中で、ラジオからこの曲が2~3回流れてきた時、自分達が売れているのを実感したんです。フォーク、ソウルミュージック、そしてロック。RCサクセションにとって、どんな音楽が正しいのか探し、辿り着いた答え。ライブバンドとして地位を掴み、次にこの曲で、シングルヒットのコツを掴んだと言っても、間違いありません」。
曲が完成した当時の様子について、忌野清志郎さんは、雑誌『ROCKIN' ON JAPAN特別号 忌野清志郎1951-2009』の中で、こう振り返っています。
ロックバンドRCサクセションが進むべき音楽の道標を示した、J-ROCKの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.風に吹かれて/ピーター・ポール&マリー
M2.宝くじは買わない/RCサクセション
M3.雨あがりの夜空に/RCサクセション
M4.トランジスタ・ラジオ/RCサクセション
186回目の今日お届けしたのは、「YUI/CHE.R.RY」でした
「彼女に初めて出会ったのは、2004年2月に行われたソニーミュージックグループのSDオーディション最終審査会場です。この年のSDオーディションには、全国から10万通もの応募があって、一次審査となる書類審査、二次審査を経て、東京で最終審査が行われたんです。オーディションの最終審査員を務めていた僕は、会場に現れた、彼女を一目見た瞬間、この子は、何かをやってくれるのではという、期待感と言うか、独特の雰囲気、存在感を感じたんです。それは、僕以外の、他のオーディションスタッフも、同じように感じていました」。後に、制作担当ディレクターを務める市原さんは、当時をこう振り返ります。
1987年3月、福岡県・糟屋郡古賀町(現在の古賀市)に生まれたYUIは、幼い頃から歌を歌うことが大好きで、カーステレオやラジオから流れてくる松任谷由実、大黒摩季の曲に合わせて、歌を口ずさむようになります。そして、彼女が15歳になった頃から、その時、彼女が感じた心情を、日記代わりに詩として書き留め、その詩に合わせて、ギターで弾き語りをするようになります。
そして、その頃聞いた、アヴリル・ラヴィーンのアルバム『LET GO』に衝撃を受け、「10代の女の子でも、こんな音楽がやれるんだ」と、彼女自身も音楽の道を志すようになるのでした。
やがて、YUIは地元・福岡天神のストリートミュージシャンとの出会いから、自らもストリートミュージシャンとして街角に立つようになります。さらに、福岡のミュージックスクール、音楽塾ヴォイスに入って作詞・作曲の勉強もし始めます。
そして、2004年2月、YUIは、音楽塾ヴォイスのスタッフの薦めもあって、ソニーミュージックグループのSDオーディションに応募します。
「オーディションの参加者は、スタンドマイクを前に歌っていたんですが、彼女は自分の順番になると、会場の中央に歩み寄り、いきなりあぐらをかいて座って、アコースティックギター1本の弾き語りスタイルで歌い始めたんです。それはまさに、彼女がストリートで歌っていたスタイルでした。
それと、最終審査は、参加者が2曲ずつ歌うルールだったんですが、彼女は2曲歌った後、どうしても、もう1曲聴いて欲しいと言って、3曲目を歌い始めたんです。本当はルール違反でしたが、彼女の歌から、何か引きつけられるものを感じていた審査員は、彼女だけ特別に3曲目を歌うことを認めたんです」。
市原さんは、当時のオーディションの様子について、こう語ってくれました。
こうして、見事SDオーディションに合格したYUIは、ソニーミュージックグループ内の各レーベルが争奪戦を繰り広げた後、ソニーミュージック・レコーズと契約します。
その年の9月に上京したYUIは、早速レコーディングをスタート。まずは、九州地区限定で、インディーズシングル「It's happy line」を、12月にリリース。そして、翌2005年2月に、シングル「feel my soul」で待望のメジャーデビューを果たすのでした。
2005年2月、YUIがリリースした1stシングル「feel my soul」は、フジテレビ系の、いわゆる月9ドラマ、『不機嫌なジーン』の主題歌として起用されます。
「彼女の透明感溢れる声、もがきながらも必死に前を向いて進んでいこうとする姿を描いた歌詞が、
ドラマプロデューサーの目に留まって、デビューシングルがいきなり"月9"ドラマの主題歌に起用されるという、異例の扱いでのデビューとなり、たくさんの人達に、この曲を聴いてもらうことができました。
そして、この曲を聞いたファンはもちろん、音楽関係者の間からも、YUIが書く歌詞の世界に、多くの共感が寄せられたんです。彼女は、中学生の頃から、日記の代わりに彼女自身の身の回りで起こった出来事や、感じたことを詩として書き留めていて、それを曲作りのヒントにしていました。だから、
YUI自身が日々の中で感じたことが、歌詞や曲になっていく。つまり、YUIの曲は、彼女からのメッセージでもあるんですね。だから共感を呼ぶんです」。
"月9ドラマ"でのデビューにつづいて、その年の夏には、野外ロックフェスティバル「ROCK IN JAPAN FES.2005」に出演するなど、周囲の期待に後押しされる形で、デビュー直後から、様々なチャンスと、チャレンジの機会を与えられていくYUI。そして、その彼女に、今度は映画の主役と、その主題歌を歌うというチャンスが巡ってきます。
それは2006年6月に公開された映画『タイヨウのうた』で、YUIは、主役である、不治の病に侵された女性シンガーソングライター、雨音薫を演じ、さらに、主題歌「Good-bye days」を、YUI for雨音薫名義でリリースするのでした。
2006年6月に、YUI for雨音薫名義でリリースしたシングル「Good-bye days」は、セールスチャート最高位3位、約20万枚の売上を記録します。
映画『タイヨウのうた』でのシンガーソングライター役で、演じることと、歌うことを見事にシンクロさせることに成功したYUIは、女性シンガーソングライターとしての知名度をUPさせていきます。
「「Good-bye days」がヒットしたことで、YUIの音楽性に大きな変化があったわけではありませんが、ひとつ変わったのは、YUIの曲作りに関しての貪欲さです。この曲をキッカケに、音楽関係者、そしてファンが、彼女をシンガーソングライターとして評価するようになってきたことを、彼女自身も肌で感じ、
自覚することで、曲作りに対する意識が高くなったんです」。
貪欲に作品作りに取り組むようになったYUIは、自分が作った曲のフレーズを、今まで以上に積極的に、他の人間に聴かせるようになります。
「2006年の11月頃に、ソニーレコードの会議室で、作曲中の幾つかの曲のフレーズを、YUI自身の弾き語りで、聴かせるという会があって、その場で、この曲のフレーズを、他のスタッフたちと一緒に初めて聴きました。スタッフみんな、フレーズの一部分を聴いた瞬間、これはシングルとしてリリースできるかもしれないと感じ、急遽、ソニーレコードのビルの地下にあるスタジオで、忘れない内に、そのフレーズだけを録音したんです。それが、後にサビとなる部分でした」。
「それから、メロディが完成し、次に、YUIが歌詞を書いてきたんですが、その歌詞には、"恋してる、メールで届くメッセージ"といった、大好きな人の事を想う、女の子の恋心がストレートに書かれていたんです。僕らは、彼女がそんな、恋心をストレートに書くなんて想像していなかったので、正直驚きました」。
こうして、YUIが、甘酸っぱい女の子の恋模様を書いた、8枚目のシングル「CHE.R.RY」は、2007年3月にリリースされるのでした。
2007年3月にリリースされた、YUIの8枚目のシングル「CHE.R.RY」は、au「LISMO」のキャンペーンソングに起用されたこともあって、セールスチャート最高位2位を記録します。
「この曲は、彼女にとっては特別な曲というよりも、当時の彼女自身の等身大の気持ちが詰まった曲だと思います。ただ、春のキャンペーンソングに起用された事もあって、メディアでの露出が増えて、シンガーソングライターYUIの魅力を、より多くの人達に知ってもらうことができた曲になったと思います」。最後に市原さんは、こう振り返ってくれました。
春の訪れと、ふくらむ恋心が、キャッチーなメロディに見事にシンクロした
J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.コンプリケイテッド/アヴリル・ラヴィーン
M2.feel my soul/YUI
M3.Good-bye days/YUI for 雨音薫
M4.CHE.R.RY/YUI
185回目の今日お届けしたのは、「河口恭吾/桜」でした
「僕が彼に初めて出会ったのは、2000年12月のことでした。彼の担当マネージャーになることになって、路上ライブを行っていた彼のところへ挨拶に行ったんです。優しく、聴く人を和ましてくれる彼の歌声が、とても印象的でした」。
現在も、河口恭吾のマネージャーを務める、渡邉さんは、彼との出会いをこう振り返ります。
1974年10月、栃木県佐野市に生まれた河口恭吾は、地元の中学校を卒業後、1990年に栃木県立足利南高校に進学。翌1991年、彼が高校二年の時に、同級生が彼をバンドに誘ったことが、彼の音楽人生のはじまりとなります。
「河口恭吾の友人達が作っていたバンドのボーカルが、学園祭直前になって、突如脱退したんだそうです。それで、ただ声が特長的だったという理由で、それまで、音楽とは縁もゆかりも無かった河口が、ボーカルとして引っ張り出されたんです。
急遽、学園祭のステージに立たされた河口恭吾だったんですが、これがきっかけで、歌を歌うことに夢中になり、学園祭が終わってからも、友人たちのバンドで、タイマーズ、ユニコーン、ジュン・スカイ・ウォーカーズなど、当時流行りのバンドのカバー曲を歌うようになったんです。
ところが、彼らが高三になると、受験勉強や就職活動でバンドの練習を欠席するメンバーが相次ぎ、彼は、思うように歌を歌えなくなったんです。そんな時、友人から、ギター1本での弾き語りをすすめられ、彼はギター抱えての、弾き語りを始めたんです」。
バンドから、弾き語りでの活動に重点を置くようになった河口恭吾は、1993年春、高校卒業と同時に、音楽で生活していくことを夢見て、上京します。
河口恭吾は、アルバイト生活の傍ら、都内のライブハウスを中心に音楽活動を続けて、彼が20歳の時に、現在の所属事務所の社長から声を掛けられます。
「社長は、彼の歌声に魅かれたそうで、その後も、頻繁に彼のライブを観に出掛け、2001年に今の事務所を立ち上げる直前に、彼と正式にアーティスト契約を結び、まずはインディーズレーベルから1stシングルをリリースすることを決めたんです」。
こうして、2000年11月、河口恭吾は1stシングル「真冬の月」をリリースするのでした。
「この頃の彼は、自分がいったいどんなアーティストになりたいのか、はっきりとした方向性も決まらないまま、歌っていたんです。幸いにも、彼の歌声に興味を持った、FM大阪のスタッフが、ラジオで頻繁に曲を流してくれたおかげで、彼は、都内だけでなく、大阪でも定期的にライブを行えるようになっていました」。
その後、河口恭吾は、レコード会社「日立マクセル イーキューブ」とメジャー契約を結び、2002年2月に2ndシングル「ガーベラ」をリリースします。
「河口恭吾が、2ndシングル「ガーベラ」をリリースした直後、今度は、FM滋賀のスタッフが、彼の歌声に興味を持って、レコード会社に問合せをしてきたんです。それがキッカケで、河口恭吾は2002年4月からFM滋賀でスタートした情報番組『サタシガ』のパーソナリティに起用されることになるんです」。マネージャーの渡邉さんは、当時についてこう振り返ります。
再び、関西のFMラジオをキッカケに、河口恭吾の名前を多くの人達に知ってもらうチャンスを掴んだ彼は、FM滋賀での、番組リスナーとのやり取りの中から、曲を作り、2002年8月に3rdシングル「オメガの記憶」としてリリースするのでした。
2002年8月に、河口恭吾がリリースした3rdシングル「オメガの記憶」は、彼がパーソナリティを務めていたFM滋賀のみならず、その歌の歌詞が野球を題材に作っていたことから、同じ滋賀県のTV局「びわ湖放送」の高校野球中継のテーマソングにも起用されて、話題を集めます。
「地方限定でしたが、2ndシングル、3rdシングルと、続けて評価を得たことで、彼は少しずつ自信を掴みかけていました。そこで、次はアルバムを発売しようということになり、彼が春から書き溜めていた曲を、まずはスタッフが聴くことにしたんです」。
2002年夏の終わり、河口恭吾が春から書き溜めていた曲を、彼はスタッフの前で披露します。
「この曲は、実は、サビの部分しかできていなかったんですが、彼がその時歌った中でも、特に強く印象に残ったんです。それで、サビだけでなく、ちゃんと曲にするように、河口にオーダーしました」
河口恭吾は、サビだけだったこの曲に、Aメロ、Bメロを加え、メロディを完成させます。そして、そのメロディに、この曲を作った時に、彼が自分の部屋から見た、桜がひらひらと舞い落ちる情景を思い出しながら、歌詞をつけていきます。
こうして、この曲も含めた、河口恭吾の1stアルバム『STARS FROM DECADE~輝ける星たち~』は完成します。
「アルバムが完成し、全ての曲を聴いてみたんですが、この曲はアルバムの中でも、異質な存在感を示していたんです。彼が初めて作ったバラード曲ということもあったんですが、彼の特長とも言える
歌声が、他のどの曲よりも、いきいきと聴こえ、彼の持ち味が、滲み出てくるような気がしたんです。そこで、この曲をアルバムからのリード曲として、シングルカットすることにしたんです」。
こうして、2003年4月、満開の桜と共に、河口恭吾の4枚目のシングル「桜」はリリースされるのでした。
2003年4月にリリースされた、河口恭吾の4枚目のシングル「桜」は、リリース直後から7月まで、有線放送のお問合せチャートで1位を記録します。
「シングル「桜」の発売後に、所属レコード会社の日立マクセル イーキューブが解散し、河口はワーナーミュージック・ジャパンに移籍したんです。しかし、発売から半年以上経った秋になっても、有線放送に「桜」をリクエストする人が後を絶たず、ワーナーミュージック移籍第1弾シングルとしてこの「桜」を、あらためてリリースすることが決まったんです。」
2003年12月にあらためてリリースされた桜は、その年の冬を越え、春を迎える頃にはチャートを駆け上り、オリコン最高位4位、2004年の年間チャートでも9位を記録します。また、その年の暮れには、この曲で、紅白歌合戦にも出場します。
「ラジオを通して、彼の持ち味である、優しい歌声が評価され、さらに、有線放送を通じて、多くの人達からの支持を集めることができました。彼自身も、この曲を通して、シンガーソングライター河口恭吾としての進むべき道を見つけることができたと思います」。
最後に、マネージャーの渡邉さんは、こう振り返ってくれました。
一度膨らんだつぼみが、レコード会社の解散という不運も乗り越えて、1年がかりで、花を咲かせることが出来た、J-POPバラードの名曲の誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.デイ・ドリーム・ビリバー/タイマーズ
M2.真冬の月/河口恭吾
M3.オメガの記憶/河口恭吾
M4.桜/河口恭吾
184回目の今日お届けしたのは、「エレファントカシマシ/俺たちの明日」でした
1982年春、高校入学を控えた宮本浩次は、彼の中学時代のクラスメイトだった、石森敏行、冨永義之に誘われて、彼らが作っていた5人組ロックバンド「エレファントカシマシ」にボーカルとして参加します。
エレファントカシマシは、ディープ・パープル、レインボー、RCサクセションなどのカバーバンドとして活動していましたが、宮本浩次加入後は、彼が作ったオリジナル曲を中心に演奏するようになります。
1986年、エレファントカシマシは、メンバー3人が脱退しますが、冨永の高校時代の同級生の高緑成治が新たに加入し、4人組バンドとして再スタートします。さらにこの年1986年12月に、CBSソニーオーディションに出場し、ユニコーンと共に入賞を果たします。
翌1987年からは、都内近郊のライブハウスで定期的にライブを行って、メジャーデビューのチャンスをうかがうようになります。
荒削りで豪快なエレファントカシマシのロックサウンドと、宮本浩次が書く情緒豊かな歌詞は、次第に音楽関係者の間でも話題となり、この年、エピックレコードと契約。
そして、翌1988年3月、1stシングル「デーデ」と、1stアルバム『THE ELEPHANT KASHIMASHI』の同時リリースで、デビューを果たすのでした。
1988年3月、エレファントカシマシは、1stシングル「デーデ」と1stアルバム『THE ELEPHANT KASHIMASHI』をリリース。さらに、7月に2ndシングルをリリースした後、11月には2ndアルバム『THE ELEPHANT KASHIMASHI Ⅱ』を立て続けにリリースします。
宮本浩次は、当時のことを雑誌『ロッキング・オン・ジャパン』2009年5月号のインタビューの中で、次のように語っています。
「1stアルバムと、2ndアルバムは、デビュー前からの流れで作ったんです。僕は当時、レッド・ツェッペリンみたいなバンドになりたくて、歌詞は、太宰治のような詞を書きたかったんです」。
CDセールスは伸び悩んだものの、エレファントカシマシは、アマチュア時代から培ってきた、MCなし、アンコールなし、あげくの果ては、宮本浩次がライブ中に観客に説教を行うといった破天荒なライブで、一部の熱狂的なファンを獲得していきます。
しかし、1994年5月に発売した7枚目のアルバム『東京の空』を以って、エピックレコードとの契約が終了し、所属事務所も解散。エレファントカシマシは、窮地に立たされますが、彼らは自分達を振るい立たせるかのように創作活動に励み、自分達だけで全国のライブハウスを回るツアーを行って、再デビューのチャンスをうかがいます。
1995年秋、エレファントカシマシは、新しい所属事務所とレコード会社「ポニーキャニオン」と契約。
BOOWYなどを手掛けたことで知られるプロデューサー佐久間正英を迎えて、約2年ぶりとなるシングルを制作、翌1996年4月にリリースするのでした。
1996年4月にリリースされた、エレファントカシマシ10枚目のシングル「悲しみの果て」は、彼らがメジャーから離れていた時代に作って、ライブハウスなどではすでに演奏していた曲の一曲でした。
「この曲は、レコード会社との契約が切れ、給料が貰えなくて困っていた時代に、自分が思った気持ちを素直に歌詞に書いた曲のひとつです。契約が切れたことや、それ以外にも、自分の中で色々な悲しみや苦しみがあったけど、ライブハウスでお客さんに直接接して、歌うことで、新しい事にチャレンジしているという実感を、この曲から感じることができたんです」。
宮本浩次は、この曲、「悲しみの果て」が生まれた当時のことを、雑誌『ロッキング・オン・ジャパン』2009年5月号のインタビューの中でこう語っています。
この曲をキッカケに、再び、日本のロックシーンの最前線に戻ってきたエレファントカシマシは、翌1997年7月に、フジテレビ系ドラマ『月の輝く夜だから』の主題歌「今宵の月のように」をリリース。彼らにとって、初のトップ10ヒットとなるチャート最高位8位、約70万枚近くのセールスを記録します。
その後、エレファントカシマシは、1999年にレコード会社をポニーキャニオンから、東芝EMIへと再び移籍。小林武史をプロデューサーに迎えてシングルを作ったり、完全セルフ・プロデュースでアルバムを作ったりと、作品作りにおいて試行錯誤を繰り返していきます。
そして2007年、エレファントカシマシは、レコード会社を東芝EMIからユニバーサルへ再び移籍。移籍第1弾となるシングルとして、前の年2006年に作って、大晦日に大阪で行われたカウントダウンライブで初めて演奏した曲を、ケツメイシなどを手掛けていた、YANAGIMANをプロデューサーに迎えてアレンジし直してリリースすることを決めます。
こうして、2007年11月に、エレファントカシマシ34枚目のシングル「俺たちの明日」はリリースされるのでした。
2007年11月にリリースされた、エレファントカシマシ34枚目のシングル「俺たちの明日」は、セールスチャート最高位18位を記録します。
「デビューから、エレファントカシマシというバンドに過大に期待した時期、宮本浩次という自分自身に過大に期待した時期、それから小林さんというメロディーメーカーに過大に頼った時期。色々ありました。今、改めて振り返ってみると、どれも正解でもないし、間違いでもない。この曲を作ったのも、偶然、もう一度バンドでやろうという流れが、僕らの中で生まれてきた時に、新しいレコード会社のスタッフと出会って、新鮮な気分に包まれて生まれてきた曲なんです。新しいスタッフと非常に密度の濃い時間を過ごす中で、どうアレンジしたら、僕らの音楽が聴く人達にきちんと届くのか、リハーサルにも膨大な時間をかけて計算し、その結果、初めは弾き語りに近い形だった曲が、サビの部分を曲の頭に持ってくることで、エレファントカシマシの良さが、聴く人に一番伝わる曲になることが分かって、生まれたんです」。
曲が完成した当時の様子について、雑誌『ロッキング・オン・ジャパン』2007年12月号のインタビューで、宮本浩次はこう振り返っています。
自分達がロックバンドであることを彼ら自身が再認識した、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.スモーク・オン・ザ・ウォーター/ディープ・パープル
M2.デーデ/エレファントカシマシ
M3.悲しみの果て/エレファントカシマシ
M4.俺たちの明日/エレファントカシマシ
183回目の今日お届けしたのは、「サーカス/ミスター・サマータイム」でした
「サーカスは、もともとバンドとしてスタートするはずだったんです。そのバンドの女性ボーカルとして声がかかったのが、僕の姉、叶正子だったんです。」メンバーのひとりで、叶正子さんの実の弟・高さんは、初代サーカス結成のキッカケについてこう振り返ります。
家でいつもシャンソンや外国民謡を口ずさんでいた音楽好きの母親の影響で、長女・正子、長男・高、次男・央介の叶3兄弟は、子供の頃から、家族で、コーラスグループのように歌を楽しんでいました。
特に、長女の正子は、中学に入学すると、ファンクラブに入るほどビートルズの虜になったのをキッカケに、PPMや、日本のグループサウンズにも夢中になっていきます。
1972年、叶正子は、明治学院大学在学中にヤマハのボーカルオーディションに合格、1年に渡るレッスンの後、翌1973年に、女性3人でユニット「ピーマン」を結成し、当時のワーナーパイオニアからデビューします。
残念ながら、女性ユニット「ピーマン」は、シングル3枚をリリースしますが、ヒットには恵まれず、1年半余りで解散。しばらくは、ソロシンガーとして活動していた叶正子に、1976年、彼女の音楽人生を切り拓くチャンスが巡ってきます。
「カントリーをベースにしたアメリカン・ロックを得意としていたロック・ミュージシャンの菅憲さんが、バンド形式のグループを作りたいと考えて、菅さんの友人でエレキギターの名手だった茂村泰彦さんに声を掛けたんです。そして、次に声が掛けたのが、僕の姉・叶正子だったんです」。
「菅さんは、始めはバンド形式のグループを作ろう、という考えを持っていたんでが、当時契約したレコード会社「徳間音楽工業」の担当ディレクターが、楽器は持たずに、それまでの日本にはない混声の4人グループを作ろう、と菅さんに提案したんですね。菅さんも、その提案を受け入れて、メンバーをもう一人補充するために、急遽、正子が、オーストラリアで、モデル兼アーティストとして活躍していた従姉の卯月節子を誘って、初代サーカスが結成されたんです」。
こうして、1977年3月に、初代サーカスの1stシングル「月夜の晩には」が、リリースされるのでした。
1977年3月、初代サーカスがリリースした1stシングル「月夜の晩には」は、前の年の1976年9月に南佳孝がリリースしたアルバム『忘れられた夏』に収録されていた曲のカバーで、南佳孝自身のプロデュースでリリースされます。
「1stシングルをリリースした後、初代サーカスは、新しいレコード会社「アルファレコード」に、その第1号アーティストとして移籍したんですが、その直後、リーダーの菅さんと茂村さんが、自分達は、やっぱり楽器を持ったバンドスタイルで音楽活動をしたい、という理由で、脱退してしまったんですね。シングルのリリースもすでに決まっていたので、急遽メンバーとして呼ばれたのが、当時、オリジナル曲を作って歌っていた僕と、大学生の頃から劇団に籍を置きながら、新劇、喜劇、ミュージカルなど幅広いパフォーマンスにチャレンジしていた弟の央介だったんです」。
サーカスのメンバー、叶高さんはメンバーチェンジについてこう振り返ります。
こうして、新生サーカスは、1977年に誕生したばかりのレコード会社、アルファレコードの第1号アーティストとして、翌1978年にシングルをリリースすることが正式に決まります。そして、そのシングル候補曲として、レコード会社のディレクターは、あるカバー曲を歌うことを提案するのでした。
「この曲は、1970年代のフランスを代表するポップスシンガー、ミシェル・フュガンが、1972年にヒットさせた「愛の歴史」という曲です。実は、あるTV局の音楽プロデューサーがお気に入りだった曲で、"いつか日本でも、この曲のカバーをヒットさせたい"と、企画を長年温めていたもので、満を持して、レコード会社の担当ディレクターに提案したものだったんです」。
「愛の歴史」改め、「ミスター・メモリー」とタイトルが変更されたこの曲は、レコーディング直前に、アルファレコードの猛烈な売り込みによって、翌1978年夏の、カネボウ化粧品のキャンペーン・ソングとして使われることが決定します。これを受けて、アルファレコードは、CMソングのイメージに合うように、歌詞の一部に手直しを加え、タイトルも、さらに変えてリリースすることを決めます。
「歌詞を書き直すことを決めて、依頼したのが、作詞家の竜真知子さんでした。竜さんは、当時、キャンディーズの「ハートのエースが出てこない」や、狩人の「あずさ2号」などの歌詞を手掛けていた人です。担当ディレクターには、原曲のイメージは無視していいから、と言われたそうです」。
原曲の束縛から解き放たれた、作詞家の竜は、リードボーカルを務めることになっていた叶正子の声が、おしゃれで都会的なイメージを持っていることから、ヨーロッパの避暑地や大人っぽさ、といった言葉をイメージして歌詞を書き直します。
「完成した曲を初めて聴いた時は、メンバーみんな、なんて地味な曲なんだろうと思っていたんです。しかし、結果として、正子の声を意識して、書き直された歌詞と、マイナー調で、少しせつない感情を思い起こさせるメロディ。この二つが見事にマッチして、日本人の心に響いたのではないでしょうか。僕らにとっても、30年近くこの歌を歌い続けているんですが、何度もアレンジを変えてまで歌い続けたいと思える、本当にかけがいのない曲に成長していくことになるんです」。
こうして、1978年3月、新生サーカスとしての1stシングル「ミスター・サマータイム」はリリースされるのでした。
1978年3月に発売された、サーカスのシングル「ミスター・サマータイム」は、8月にセールスチャート1位を獲得。さらには、その年の「第20回日本レコード大賞」で、編曲賞を受賞します。
「ハーモニーは、練習に時間がかかるし、ステージ環境にも影響されるし、大変な事も多いんです。一人で歌ったら、どんなに楽だろうか、と考えることもあります。しかし、ハーモニーは決して一人ではできないんです。ハーモニーは、4つの声が重なりあって、初めて何とも言えない瞬間を作り出すんです。この曲も、正子がメインですが、残りの3人の声が重なった結果が、とてつもない力を生み出したんだと思います」。
最後に、メンバーの叶高さんはこう振り返ってくれました。
兄弟や親族だからこそ奏でることが出来た、J-POPコーラスの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Please Mister Postman/ザ・ビートルズ
M2.月夜の晩には/サーカス
M3.愛の歴史/ミシェル・フュガン
M4.ミスター・サマータイム/サーカス
182回目の今日お届けしたのは、「安全地帯/悲しみにさよなら」でした
1972年夏のある日、北海道旭川市立神居中学に通っていた玉置浩二は、同級生の武沢豊と、彼の兄・俊也を誘って、ドラマー抜きの3人組アコースティックバンド「インベーダー」を結成します。
「僕は、幼い頃から民謡が大好きだった祖母の影響で、歌を歌うことが大好きで、小学生の頃から将来は歌手になることを意識していたんです。中学に入学すると、小学校の頃から通信教育でギターを習っていたと言う武沢が、同じ中学に転校してきて、意気投合した僕らは、バンドを作ったんです」。
作家の志田歩さんが書いたノンフィクション本『玉置浩二 幸せになるために 生まれてきたんだから』の中で、玉置浩二自身は、当時をこう振り返っています。
1973年秋、バンド、インベーダーは、メンバー2人を加えて5人組となると同時に、バンド名を「安全地帯」と改め、その年のヤマハ ポピュラーソングコンテストの北海道地区大会に出場し、優秀賞を獲得します。アメリカのロック・バンド「ドゥービー・ブラザーズ」を意識した、アコースティック・ギターサウンドに、コーラス・ハーモニーを加えた安全地帯の評判は、地元・旭川を中心に拡がっていきます。
1976年10月、安全地帯はヤマハ ポピュラーソングコンテスト つま恋本選会に出場を果たし、その存在感を地元のみならず、北海道内へと拡げていきます。翌1977年には、同じ北海道のロック・バンド「六土開正グループ」のメンバーの3人が合流し、安全地帯は8人組バンドとなります。
1978年、新生・安全地帯は、旭川の郊外にあった廃屋を、バンド専用のスタジオに改造して合宿生活をスタート。デモテープを作る傍らで、およそ800人が収容できるホールを自分達で貸し切って、定期ライブを開催するようになります。
1978年11月、次のステップとして、東京への進出、プロデビュー考えていた彼らのもとへ、安全地帯のデモテープを聴いた、キティレコードのディレクター・金子章平が訪ねてきます。安全地帯の素直で洗練された音楽に可能性を感じた金子は、頻繁に旭川の彼らのもとを訪ねるようになります。
1981年7月、メンバーの脱退で、5人組となった安全地帯の下へ、金子章平が、自らがディレクターを務めていた井上陽水を連れて訪れ、彼らは井上陽水と数曲ほどセッションします。そして、その場で、金子は、安全地帯を井上陽水のライブツアーのバックバンドとして起用することを決めるのでした。
「井上陽水のバックバンドに、まだアマチュアだった安全地帯を起用した理由は、井上陽水の持っている複雑なニュアンスが入り組んだ表現の美しさに、安全地帯の純粋な想いが込められた音楽が加わることで、お互いにとってプラスに働くと思ったからです」。金子章平は当時のことについて、
『玉置浩二 幸せになるために 生まれてきたんだから』の中で、こう振り返っています。
一方の玉置浩二は、その時のセッションンについて、同じく、こう振り返っています。
「東京でのツアーリハーサルが始まった当初、プロとアマチュアの演奏レベルの差に驚き、自分達のオリジナル曲は演奏できても、井上陽水のバックバンドなんて、とても無理だと感じたんです。しかし、セッションを積み重ねる内に、これは絶対にチャンスだ、と思った僕は、自信を失いかけていた他のメンバーを必死で説得し、練習を積み重ねたんです。しばらくすると、自分達でも少しずつ満足できる演奏ができるようになり、音楽関係者も認めてくれるようになったんです。この時は自分達のデビューに向けたリハーサルも同時並行だったので、ほぼ丸二十四時間音楽漬けの生活を送っていました」。
こうして、安全地帯は、1982年2月に1stシングル「萌黄色のスナップ」をリリースするのでした。
1982年2月に、1stシングル「萌黄色のスナップ」をリリースした安全地帯は、自分達の作品作りの傍らで、引き続き井上陽水のバッックバンドとしても活躍。井上陽水のツアーの合間をぬって、10月に2ndシングル「オン・マイ・ウェイ」を、翌1983年1月には1stアルバム『安全地帯ⅠRemember to Remember』をリリースします。しかし、残念ながら、セールスは芳しくありませんでした。
井上陽水のバックバンドとしては、音楽関係者からの注目を集めていたものの、アーティスト安全地帯としては、その魅力を発揮することができない彼らに対して、スタッフは打開策として11月に発売を予定していたシングルの作曲を、井上陽水に依頼することを提案します。しかし、玉置浩二は、それを断り、自ら一週間部屋にこもって、曲を作りあげます。そして、その作り上げたメロディに、井上陽水が、ノート1冊丸ごと使うほど熟慮を重ねて歌詞を綴ります。こうして、1983年11月、安全地帯4枚目のシングル「ワインレッドの心」はリリースされるのでした。
1983年11月にリリースされた、安全地帯4枚目のシングル「ワインレッドの心」は、発売直後にサントリー「赤玉パンチ」のCMソングとして起用されたこともあり、ジワジワと売上を伸ばし、発売から4ヶ月が経った、翌1984年3月にセールスチャート1位を獲得し、売上も約71万枚を記録します。
その後も安全地帯は「恋の予感」「熱視線」などのヒット曲をリリース。1985年2月には、武道館での2日間のライブも成功させます。
1985年3月、玉置浩二は、初の香港でのライブツアー中に、宿泊先のホテルで、ある曲のアイディアを思いつきます。
「この頃の僕は、ライブ、レコーディング、メディア取材など毎日追われる生活が続き、曲のアイディアは、いつも滞在先のホテルで練る生活が続いていたんです。香港で作ったメロディに歌詞を書いたのは、アルバム『安全地帯Ⅱ』から作詞家として、安全地帯の曲作りに参加してくれていた松井五郎さんでした。松井さんが書く言葉の感性に惚れたスタッフが、僕に紹介してくれ、それ以来安全地帯の楽曲制作に加わってくれたんです。この曲も、松井さんが、井上陽水さんが歌詞を書いた「ワインレッドの心」や「恋の予感」から歌詞の書き方を学び、その経験をこの曲の歌詞に活かしてくれたんです」。
こうして、松井五郎が、井上陽水が書く歌詞の世界を参考に、シンプルな言葉で書いた、安全地帯9枚目のシングル「悲しみにさよなら」は、1985年6月にリリースされるのでした。
1985年6月にリリースされた、安全地帯の9枚目のシングル「悲しみにさよなら」は、セールスチャート1位を獲得、約44万枚の売上を記録します。
「アルバム『安全地帯Ⅱ』から始まった、玉置浩二のメロディアスな楽曲と、松井五郎が書くロマンチックな歌詞のコンビネーションというスタイルの完成形が、この曲だったと思います。安全地帯が目指していた、ジャンルや年齢も関係ない、誰もが認める普遍的なメロディが、聴く人に受け入れてもらえた証(あかし)でもあるんです」。玉置浩二は、ノンフィクション本『玉置浩二 幸せになるために 生まれてきたんだから』の中で、この曲についてこう振り返っています。
二人の天才クリエーターの出会いが、J-POPの名曲を産み落とした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Listen to the Music/ドゥービー・ブラザーズ
M2.萌黄色のスナップ/安全地帯
M3.ワインレッドの心/安全地帯
M4.悲しみにさよなら/安全地帯
181回目の今日お届けしたのは、「H2O/想い出がいっぱい」でした
「僕が初めてバンドを結成したのは、1973年の高校入学直後でした。中学時代の同級生、赤塩正樹君と、中島君の3人でビートルズのコピーバンド"スプリング・ブリーズ"を結成したんです。しばらくして、もう一人のメンバー藤森君が加わって、スプリング・ブリーズは、4人組となるんですが、月に1回、複数のバンドが地元の市民会館を貸し切って行うライブに出演するようになったんです」。
H2Oのメンバー、中沢堅司さんは、地元、長野県上田市で、はじめてバンドを結成した当時についてこう振り返ります。
「始めはビートルズのコピーばかり演奏していた僕らでしたが、少しずつ、オリジナル曲を作って演奏するようになったんです。東京で自分達の音楽の腕を試してみたい、と思った僕と赤塩君は、高校を卒業するときに、東京の大学で勉強したい、と親に嘘をついてそれぞれ東京の学校に進学しました。他のメンバーもそれぞれ上京して、しばらくの間は、みんなでバンド活動を続けていたんです。
でも、次第に他のメンバーとの練習スケジュールが合わなくなってバンドは自然消滅。どうしても、
音楽活動を続けたかった僕と赤塩君は、1976年にユニット「H2O」を結成したんです。全く別々の個性を持った人間が一緒になることで、化学反応を起こし、新しい個性が生まれる、という願いを、この、
ユニット名には込めました。
中学時代から、お互い、お気に入りの洋楽レコードを貸し借りしたりして、とにかく洋楽大好きだった僕と赤塩君は、英語で歌ったオリジナル曲ばかりを収めたデモテープを作ったんです」。中沢さんは、当時についてこう振り返ります。
試行錯誤を重ね、H2Oが作ったデモテープは、二人の知人を通して、キティレコードのスタッフの手に渡ります。
そして、そのデモテープがきっかけで、1980年6月、H2Oは、1stシングル「ローレライ」でデビューするのでした。
1980年6月にリリースされた、H2Oの1stシングル「ローレライ」は、薬師丸ひろ子主演の映画『翔んだカップル』の挿入歌として起用されます。
「この曲は、僕が16歳の時に初めて作った曲で、当時大好きだった、ビートルズの「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」をモチーフに作ったんです。1stシングルの候補曲は数曲あったんですが、まさか、僕が16歳の時に作った曲が選ばれるなんて、正直驚きました。自分が作った曲が選ばれて嬉しい気持ちもあったけど、その曲以降に僕が作った曲が否定されているようで、複雑な気分にもなりましした」。
H2Oは、1stシングル「ローレライ」に続き、今度は10月からフジテレビ系で放送がスタートしたTV版『翔んだカップル』の主題歌を歌うことも決まります。「映画版の挿入歌は、僕らが作った曲が起用されたんですが、TV版は僕らの曲を含む、幾つかの候補曲が用意されていたんです。
番組プロデューサーの考えで、TV版では歌謡曲路線の曲を起用したいという方針があって、残念ながら、僕らが作った曲は使ってもらえず、最終的には来生えつこさんが作詞、来生たかおさんが作曲を手掛けた曲が選ばれたんです。自分達が作った曲を使ってもらえない悔しい気持ちもありましたが、小さい頃から洋楽志向だった僕らは、歌謡曲路線の曲は書けなかったので、半分諦めもありました」。
こうして、1980年11月、TV版『翔んだカップル』の主題歌に起用されたH2Oの2ndシングル「僕等のダイアリー』がリリースされるのでした。
2ndシングル『僕等のダイアリー』をリリース後も、H2Oの二人は、彼らが幼い頃から憧れてきたザ・ビートルズ、キャロル・キングなどの、洋楽を意識したオリジナル曲を作り続けていきます。
「自分達が作った曲でヒットを飛ばしたいと思っていましたが、なかなか簡単にはいかず、歌詞は作詞家の方々に書いてもらう場合が多かったんです。ジレンマとの戦いでもありました」。中沢賢司さんは、当時についてこう振り返ります。
ジレンマを抱えながら、歌い続けていたH2Oの下へ、1982年暮れ、再びアニメ主題歌を歌うチャンスが巡ってきます。
「所属レコード会社のスタッフから、翌年の1983年3月にフジテレビ系で始まるアニメ『みゆき』の主題歌とエンディング曲を歌って欲しい、という話が舞い込んだんです。『翔んだカップル』の主題歌を歌った実績が評価されて、僕等が指名されたんですね。ただし、この時も僕らが作った曲ではなく、あくまで作家が作った曲を歌うことが条件だったんです」。
「作曲家の鈴木キサブローさんが作ったデモテープを初めて聴かせてもらった時、いい曲だな、と思ったし、1970年代にアメリカで流行った、ウエスト・コーストサウンドを意識した、骨太で男っぽい雰囲気が印象的でした。サビのメロディも分かりやすく、いったいどんな歌詞が付くのか楽しみだったんです。
ところが、当時、山口百恵さんのヒット曲などを手掛けてきた阿木燿子さんが作られた歌詞は、メロディとは全く正反対で、女性っぽいイメージを感じたんです。歌詞とメロディのバランスは大丈夫なんだろうか、レコーディング当日まで僕等は心配していたんですが、その心配は直ぐに吹き飛んだんです」。
1983年3月にリリースされた、H2Oの5枚目のシングル「想い出がいっぱい」は、彼らにとっては初めてセールスチャートにランクインし、最高位6位、約40万枚の売上を記録します。
「阿木燿子さんが、思春期の恋人たちを主人公に、別れや旅立ちをイメージさせる言葉で綴った歌詞は、卒業式シーズンにレコードが発売されたこともあって、多く人達が、歌詞の主人公と自分達を置き換え、共感を呼ぶことになりました。翌年以降も卒業式や合唱祭で歌ってもらえるようになったんです。
1985年にH2Oを解散した直後は、余りにも曲が持っているイメージが強く、僕はこの曲を歌うことを封印していたんです。しかし、僕が30歳の後半に差し掛かったある日、偶然家の近所を散歩していた時に、近くにあった杉並中学校の教室から、学生達がこの曲を歌っている歌声が聴こえてきたんです。その瞬間、曲が発売された時は、まだ産まれてもなかった学生達が、こうやってH2Oの曲を歌ってくれていることに対して、嬉しい気持ちと、この曲を封印していた自分のカッコ悪さが同時に込み上げてきたんです。自分が作った曲ではないけれど、みんなに愛され続けているこの曲を歌ったことに改めて誇りを感じた僕は、それ以来、この歌を再び歌い始めて、今では宝物のように大切な曲になっています」。
中沢さんは最後にこう語ってくれました。
アーティストのこだわりさえも捨てさせる、J-POP卒業ナンバーの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ぺニー・レイン/ザ・ビートルズ
M2.ローレライ/H2O
M3.僕等のダイアリー/H2O
M4.想い出がいっぱい/H2O
180回目の今日お届けしたのは、「海援隊/贈る言葉」でした
「僕が彼らに初めて出会ったのは、1978年12月でした。僕は、その年の春に、ポリドールレコードに移籍してきた彼らのアシスタントディレクターを担当することになって、スタジオで挨拶を交わしたんです。当時は、彼らの名前と、数曲、曲を知っている程度でした」。
海援隊の担当ディレクターを務めている、中川さんは当時についてこう語ります。
1971年、西南学院大学に通っていた中牟田俊男は、高校の同級生・武田鉄矢らとアメリカン・フォークグループ「ヤングラディーズ」を結成。CSN&Yの曲を中心としたカバーバンドとして活動を始めたヤングラディーズでしたが、次第に、オリジナル曲も作って歌うようになります。
しかし、音楽性の食い違いからメンバーの脱退が相次ぎ、中牟田と武田の二人きりとなったヤングラディーズは、中牟田の音楽仲間だった千葉和臣を新たにメンバーに加え、バンド名を「海援隊」と改め、再スタートします。
「ヤングラディーズ時代から、地元福岡のライブハウス「照和」を中心に活動していた海援隊は、メジャーデビュー直前のチューリップと並んで、人気バンドのひとつだったそうです。1972年の1月に、チューリップはレコードデビューに向けて上京するわけですが、ライバルバンドの飛躍に刺激を受けた海援隊も、メジャーデビューのチャンスを虎視眈々と狙っていたそうです。
そんな時、博多で行われた泉谷しげるのライブの前座を、海援隊が務めることになって、その、ライブ終了後に、メンバーが泉谷さんに挨拶に行ったそうなんです。その時、泉谷しげるが、海援隊のメンバーに、レコードを出したければ、エレックレコードにおいで、と誘ったそうです」。
泉谷しげるの誘いを、絶好のチャンスと捉えた海援隊は、泉谷の言葉を信じて上京し、エレックレコードとメジャー契約を結びます。
「後に、泉谷しげる本人に確認したところ、彼は社交辞令のつもりで海援隊に誘いの声を掛けたそうなんですね。それなのに、泉谷の言葉を真に受けた海援隊がいきなり上京して来たので、エレックレコードのスタッフも困り果てたんですが、最終的には海援隊の音楽性を評価して、メジャー契約を結んだそうです」。海援隊以外にも、泉谷しげるの担当ディレクターを務めたこともある中川さんは、海援隊のデビューの真相について、こう振返ります。
こうして、海援隊は、ライバルのチューリップのデビューから遅れること4ヵ月後の1972年10月に、アルバム『海援隊がゆく』でデビュー。翌1973年10月にリリースされた2ndアルバム『望郷篇』に収録された、武田鉄矢の、実の母親・イクに宛てたメッセージソングが、海援隊の人気に火を付けることになります。
1973年10月にリリースされた、海援隊の2ndアルバム『望郷篇』に収録された曲「母に捧げるバラード」は、アルバム発売後に人気を集め、急遽12月に2ndシングルとしてリリースされます。
そして翌1974年大晦日、海援隊は、この曲「母に捧げるバラード」で、NHK紅白歌合戦に初出場を果たします。
「紅白出場を果たしたものの、海援隊はその後、レコードセールスが伸び悩み、翌1975年には心機一転、レコード会社をテイチクに移籍します。ただ、それでも、彼らを取り巻く環境は変わらず、武田、中牟田、千葉の3人は、歌手活動の傍らで、生活していくためにアルバイトを始めるんですね。紅白出場からわずか1年後の、1975年の大晦日に、武田は皿洗いのアルバイトをしていたそうです」。
バンドとしての存続危機に追い込まれていった海援隊でしたが、彼らは歌を歌うことを諦めず、地道に活動を続けていきます。そして1977年1月にリリースした、8枚目のシングルが、彼らを再浮上させるキッカケとなります。
1977年1月に海援隊がリリースした8枚目のシングル「あんたが大将」は、「母に捧げるバラード」以来、およそ4年ぶりにセールスチャートにランクインし、最高位40位を記録します。
「シングル「あんたが大将」のヒットをキッカケに、再び注目を集めるようになった海援隊ですが、この年1977年は、彼らにとって、もう一つの大きな節目となる一年となったんです。それは、この年の10月に公開された、高倉健主演の映画『幸福の黄色いハンカチ』に、武田鉄矢が出演。俳優としては全くの素人だった武田鉄矢は、映画監督の山田洋次監督に徹底的に鍛えられて、役者としての才能が開花。その年の、日本アカデミー賞最優秀助演男優賞を獲得するまでになったんです。そして、歌手としてではなく、俳優として注目を集めるようになった武田鉄矢の下には、俳優としてのオファーが続々舞い込むようになったんです」。
1979年、歌手としての活動を続ける傍らで、俳優としても活動を続けていた武田鉄矢の下へ、あるテレビドラマ主演のオファーが舞い込みます。
「その年の10月からスタートする学園ドラマの主演に、武田鉄矢を抜擢することを決めたのは、TBSのドラマプロデューサーの柳井満さんと、脚本家の小山内美江子さんでした。この学園ドラマは、いわゆる1970年代前半に放送された、青春学園ドラマタイプのストーリー展開ではなく、中学3年生という多感な世代を主人公に、当時実際に社会問題となっていた、学校を取り巻く様々な問題をテーマにしたものでした。それで、柳井さんや、小山内さんは、二枚目的な俳優よりも、映画『幸福の黄色いハンカチ』で人間味溢れる演技力を魅せた、武田鉄矢がうってつけだと判断したそうです」。
ドラマの主人公に抜擢された武田鉄矢は、自らが率いるバンド海援隊が主題歌を手掛けることを提案。スタッフサイドから了承された、海援隊は武田鉄矢が歌詞を書き、千葉和臣がメロディを作ります。
「武田が、男女の別れをテーマに歌詞を書いたこの曲を初めて聴いた時、僕たちスタッフは、みんな、何か暗いイメージの曲だと言ったんです。ただ、当時は、主題歌の提供や、CMタイアップについてレコード会社も余り積極的ではなく、そのままリリースOKの指示を出したんです」。
「リリース直後は、僕もサンプルレコードを持って、全国のラジオ局を回ったんですが、反応が鈍く、この曲は売れないかもなぁ、とスタッフ一同諦めかけていたんです。ところが、発売1ヵ月後の、12月に入ってから、レコード売上が急上昇、毎日レコードの注文が入るようになったんです。初めは何が起こったのか分からなかったんですが、調べてみると、ドラマが、十五歳の妊娠をテーマに展開し始めた直後から、テレビの視聴率が急上昇し、その相乗効果でレコードの売上も上昇し始めていたんです」。
こうしてTBS系ドラマ『3年B組金八先生』の視聴率の上昇と共に、11月に発売された、海援隊の17枚目のシングル「贈る言葉」のセールスも上昇していくのでした。
1979年11月にリリースされた、海援隊の17枚目のシングル「贈る言葉」は、セールスチャート最高位1位、発売から約9ヵ月もチャートにランクインし続け、約100万枚の売上を記録するヒット曲となります。
「当時は、卒業式と言えば、まだ「仰げば尊し」を歌っていた時代で、J-POPで、卒業式に歌われる曲は全くと言っていいほどありませんでした。
もともとは、ラブソングとして生まれた曲が、ドラマの視聴率上昇と共に、相乗効果で主題歌を聴いた人の心を掴み、クラスメイトや、お世話になった人達に想いを馳せる卒業シーズンには、欠かせない歌として生まれ変わったんです。この曲が生まれた背景にあるのは、間違いなく武田鉄矢の俳優としての演技力です。歌手としての才能が巧く開花し切れない中で、その陰に隠れていた彼の演技力が評価され、この曲は生まれたんです」。
最後に、中川さんはこう語ってくれました。
個性派俳優、武田鉄也の人気を確立させた、J-POP卒業ソングの誕生の瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.Teach Your Children/クロスビー,スティルス,ナッシュ&ヤング
M2.母に捧げるバラード/海援隊
M3.あんたが大将/海援隊
M4.贈る言葉/海援隊
179回目の今日お届けしたのは、「太田裕美/木綿のハンカチーフ」でした
1955年1月、東京都荒川区で町工場を営む太田家の長女として生まれた太田裕美は、幼い頃から、TVのバラエティ番組『シャボン玉ホリデー』から流れてくる、ザ・ピーナッツ、森山加代子らの歌声に夢中になり、8歳の時からピアノを習い始め、小学3年の時には、ピアノで初めて曲を作ります。
音楽の世界に惹かれていった太田裕美は、1967年4月、東京・上野学園中学・声楽科に進学、中学三年になると渡辺プロダクションのタレント養成所「東京音楽学院」にも通い始めます。
「彼女が東京音楽学院に入った一番の理由は、当時、渡辺プロダクションに所属していた人気GSグループ"ザ・タイガース"に会うためだったそうです。」
太田裕美の担当ディレクターを務めた白川隆三さんは、デビュー後に彼女から聞かされた話についてこう語ります。
東京音楽学院で、歌やダンスなどを習い始めた太田裕美は、直ぐにバックダンスチーム「スクールメイツ」に加入、さらに1973年1月にNHKのテレビ音楽番組『ステージ101』のメンバーオーディションにも合格。番組の中で、洋楽のカバー曲やオリジナルソングを歌っていくようになります。
「僕が彼女に初めて会ったのは、1973年でした。渡辺プロダクションのマネージャーから、彼女を紹介され、ライブハウスで、ピアノの弾き語りで歌う彼女を観たんです。彼女は、清潔感溢れ、清楚なお嬢さんというイメージがピッタリでした」。
白川さんは、太田裕美との初めての出会いについて、当時をこう振り返ります。
翌1974年春、太田裕美はNHK『ステージ101』の放送終了と共に、渡辺プロダクションと新人養成契約を結び、その年の11月に、1stシングル「雨だれ」でデビューするのでした。
1974年11月、太田裕美は、元はっぴいえんどの松本隆が作詞、南沙織などを手掛けていた筒美京平が作曲を手掛けた、シングル「雨だれ」でデビューします。
「彼女は、僕がディレクターとして初めて手掛けたアーティストなんです。当時は、小坂明子など女性シンガーソングライターが脚光を浴び始めていた時代で、僕も最初は、彼女をシンガーソングライターとして育てていくつもりだったんです。ところが、当時僕の上司だった酒井政利さんから、"ディレクターとして初めて手掛けた新人が売れなかったら、ディレクターとして大成しない"と言われ、プレッシャーを感じた僕は、失敗しないためにも、太田裕美のデビュー曲は、作家が作った曲を歌わせることにしたんです」。
松本隆、筒美京平が手掛けた、太田裕美のデビュー曲「雨だれ」は、セールスチャートは最高位14位、約18万枚の売上を記録し、新人としては、まずまずのスタートを切ります。その後も太田裕美は、翌年の1975年2月に1stアルバム『まごころ』を、4月に2ndシングル「たんぽぽ」を発売。さらに、6月には「まごころコンサート」と題した初ライブも開催。清楚で愛らしいルックスだけでなく、独特の声質と歌唱力、さらにはギターや、ピアノの弾き語りをこなすなど多彩な魅力を持つ太田裕美は、歌謡界だけではなく、当時のフォーク界からも注目を集めるようになっていきます。
1975年8月に、太田裕美は3枚目のシングル「夕焼け」をリリースしますが、セールスチャートは最高位37位、売上も約6万枚という結果に終わります。
「6月の初ライブ以降、定期的にライブも行って、彼女自身の人気は高まっていたんですが、レコードのセールスは伸び悩んでいました。酒井さんから言われた"初めて手掛けた新人が売れなかったら、ディレクターとして大成しない"という言葉が、頭の中をよぎりました。売らなくちゃいけない、という焦りみたいなものを心の奥で感じていた中で、12月に発売を予定していたアルバムのレコーディング作業がスタートしたんです。そして、その作業中に、僕はある曲に注目したんです」。
当時、ディレクターを務めていた白川さんは、アルバム用に松本隆さんが歌詞を、筒美京平さんがメロディを書いた曲に注目します。
「僕はそれまで、アルバム用に作った曲をシングルカットするつもりはなかったんですが、この曲だけは違っていました。歌詞、メロディいずれも特長的で、思わずシングルカットしたくなったんです。
普通、歌詞というのは、ひとつの曲の中で、ひとつのストーリーを完結させるものです。ところが、松本さんが書いたこの曲の歌詞は、1コーラスの中で、ひとつのストーリーが起承転結する、珍しいスタイルだったんです」。
「またメロディも、普通は1コーラスの中で、同じ音楽コードを繰り返し使って曲を構成するケースが大半なんですが、この曲は1コーラスの中で、同じ音楽コードを全く使っていないんです。メロディを作った筒美さん曰く、彼が今まで3000曲近く作った中で、こんな形で作った曲は唯一この曲だけなんだそうです」。
「特長的な歌詞とメロディで作られたこの曲を、シングルカットしたいと思った僕は、他のスタッフと議論し、急遽この曲をシングルカットすることにしたんです。
ただ、もともとアルバム用として作られたこの曲の長さは、約5分もありました。当時、ラジオで流してもらうためには、1曲あたり約3分半の長さが適正だったので、急遽、アレンジャーの萩田光雄さんに直してもらうことにしたんです。歌詞とメロディの両方を短くすると、曲が持つイメージが壊れるので、萩田さんと、メロディを作った筒美さんの二人が相談しながら、曲を少し短くしたんです」。
こうして、3枚目のアルバム『心が風邪をひいた日』リリース直後の、1975年12月、太田裕美の4枚目のシングル「木綿のハンカチーフ」は、発売されるのでした。
1975年12月にリリースされた、太田裕美の4枚目のシングル「木綿のハンカチーフ」は、セールスチャート最高位2位、半年近くもチャートにランクインし続け、約87万枚の売上を記録するヒット曲となります。
「歌詞、メロディ、そしてアレンジ。曲を作る上で欠かせない、三つの要素が、まるでパズルのようにピタリとはまったこの曲"木綿のハンカチーフ"は、文字通り、彼女を代表する曲へと成長を遂げていきました。ただ、その一方で、彼女は、この曲が持つ強いイメージに抵抗を感じて、歌うのが嫌な時期もあったようです。
しかし、時間の経過と共に、この曲を歌うことへの抵抗感も拭われて、今では、彼女自身も、この曲を歌うことに喜びを感じているようです」。最後に、白川さんは、こう語ってくれました。
筒美京平、松本隆、萩田光雄、そして太田裕美。4人の出会いが、J-POPの歴史を切り開いた名曲を、生み落とした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.花の首飾り/ザ・タイガース
M2.雨だれ/太田裕美
M3.夕焼け/太田裕美
M4.木綿のハンカチーフ/太田裕美
178回目の今日お届けしたのは、「チューリップ/虹とスニーカーの頃」でした
「僕の音楽の礎になっているのは、ビートルズです。実は、中学生の頃は、ラジオからビートルズの曲を流れてきても、ただ、うるさい、としか感じられなくて、余り好きではなかったんです。それが、16歳の時に映画『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』を観た時から、ビートルズに対する考え方が変わったんです。彼らの音楽が、なぜ人々を惹きつけるのか、その魅力がやっと分かったんです。それ以来、ビートルズの虜になった僕は、1966年に彼らが初来日した時も、浪人中にも関わらず、夜行列車に乗って東京までライブを観に行ったんです」。
チューリップのリーダー財津和夫さんは、当時をこう振り返ります。
1948年2月、福岡市に生まれた財津和夫は、彼が高校生の時にザ・ビートルズの初主演映画を観た事をキッカケに、音楽に夢中になり、独学でギターを弾くようになります。1967年春、西南学院大学に入学した財津和夫は、仲の良かった友人3人とフォークソンググループ「フォーシンガーズ」を結成します。
「「フォーシンガーズ」を結成して、地元のライブハウスを中心に活動を続けていたんですが、音楽性の違いからメンバーの一人が脱退し、新たなメンバーを加えた後に、バンド名を「チューリップ」に改めたんです。バンド名は、大好きだったザ・ビートルズが創ったレコードレーベル「アップル」に影響を受け、その「アップル」の語感に近い言葉を探した結果辿り着いたのが、この「チューリップ」だったんです」。
1971年、チューリップは東芝エキスプレス・レーベルから、福岡県限定で自主制作盤のシングルレコードをリリースします。
「高校生の頃から、プロのミュージシャンになる事を考えていた僕は、自主制作盤をリリースした頃から、上京してミュージシャン活動を本格化したいと考えるようになったんです。しかし、大学卒業も近づき、プロを目指すのか、就職するのか、進路に迷ったメンバー2人が、バンドから脱退してしまったんです。それで、新たにメンバーを加わえて、結局5人組となった、「チューリップ」は、当時入り浸っていた地元福岡のライブハウス「照和」で、試行錯誤しながら練習を積み重ね、それと同時にデモテープも作って、それを持って、1971年12月に、僕は単身上京し、当時の東芝レコードに飛び込みで売り込んだんです」。
こうして、翌1972年5月、チューリップは東芝エキスプレス・レーベルと専属契約。6月に、メジャー1stシングル「魔法の黄色い靴」をリリースするのでした。
1972年6月、チューリップは1stシングル「魔法の黄色い靴」と同名タイトルの1stアルバムをリリースします。
「メンバー全員、ビートルズが大好きだったので、当時は、日本では僕ら以外、誰もやっていないと思っていた、メロディアスでポップな、ビートルズを意識した曲作りに取り組んだんです。こんな音楽をやっているのは、僕らだけだという自負があったんですが、現実は厳しく、1stシングル「魔法の黄色い靴」のセールスチャート最高位は75位。音楽ファンに受け入れてもらえないこの結果には、ガッカリしました」。財津さんは、当時についてこう振り返ります。
しかし、翌1973年4月に発売した3rdシングル「心の旅」が、発売から5ヵ月後の9月にセールスチャートの1位を獲得、約90万枚の売上を記録する大ヒット曲となります。
「シングル「心の旅」がヒットし、メンバーみんなも、さぁこれから、という気持ちになったんですが、その後発売したシングルは、ヒットしなかったんです。
でも僕らは、コーラスをする楽しさがあって、わかり易過ぎず、なおかつわかりにく過ぎない。そして世の中に、新しい楽器が生まれたら、すぐに取り入れて、聴く人達に常に新しさを感じてもらう。この三つのポイントを大切に、曲作りに励み、ライブで演奏し続けたんです」。
財津さんは、思ったようにヒットが続かなかった当時を、こう振返ります。
そして、1974年6月、チューリップは、彼らの音楽上の転機とも言える、6枚目のシングル「青春の影」をリリースするのでした。
「6枚目のシングル「青春の影」は、チャート最高位は46位で、売上も約7万枚。満足できる結果ではなかったですが、僕らはこの曲で、大切な事に気づかされたんです。それは、シングルが売れなくても、ライブをやり続け、曲を繰り返し歌い続けることで、曲の良さがファンに浸透していくということなんです。その事に気づいた僕らは、曲が売れなくても、ライブを大切にしていきたいという気持ちになったんです」。
ライブバンドとして成長し続けることに、自分達が進むべき道を見つけたチューリップは、その後も楽曲のリリースに合わせて全国ライブツアーを積極的に行い、1976年6月には、東京・中野サンプラザでデビュー5周年とワンマンライブ500回を記念したライブを開催。さらに、1978年7月には、岐阜県鈴蘭高原に約8000人を集めて、初めての野外ライブを行います。
こうして、日本を代表するライブバンドへと成長を遂げていったチューリップでしたが、財津和夫はあるひとつの悩みを抱えていました。
「ライブ動員は着実に増え続けていましたが、僕は、とにかく次のヒット曲が欲しいという焦りも、日々感じていたんです。そんな1979年春のある日、散歩をしていた僕の頭の中に、突然歌詞の出だしの部分が浮かんできたんです」。
「ちょうど次のシングル曲を選んでいた時で、最初にリストアップした候補曲の中からは決まらず、元々はシングル候補曲ではなかった、当時「わがまま」と仮タイトルを付けていた曲を試しに聞いてみたところ、サビの部分が、強烈に耳に残ったんです。そこで、このメロディと、散歩中に思いついた歌詞の両方をブラッシュアップして、重ね合わせて生まれたのが、この曲なんです。メロディ、歌詞、そしてアレンジ。曲作りには欠かせない、三つのポイントが巧くはまったんです」。
こうして1979年7月、チューリップ16枚目のシングルとなる「虹とスニーカーの頃」はリリースされるのでした。
1979年7月にリリースされた、チューリップの16枚目のシングル「虹とスニーカーの頃」は、セールスチャート最高位6位、約42万枚の売上を記録するヒット曲となります。
「3枚目のシングル「心の旅」以降、なかなかヒット曲に恵まれなかった僕らが、やっと生み出したこの曲は、ヒットさせるために、色々な人達の意見を取り入れて、練り上げた曲です。この曲のリリース直後、テレビ出演などのプロモーションは一切行いませんでしたが、この曲をライブで聴いてくれた人達が気にいってくれ、レコードを買ってくたんです。それがヒットに繋がった一番の要因で、ライブバンドとしてやってきた僕らにとって一番嬉しいことでした。そんな意味を考えると、僕らにとっては第二の「心の旅」とも言える曲だと思います」。財津和夫さんは、最後にこう語ってくれました。
ライブのチカラを信じた積み重ねが、J-POPの名曲を生みおとした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.A Hard Day's Night/ザ・ビートルズ
M2.魔法の黄色い靴/チューリップ
M3.青春の影/チューリップ
M4.虹とスニーカーの頃/チューリップ
177回目の今日お届けしたのは、「イルカ/なごり雪」でした
「僕が彼女に初めて会ったのは、1974年のことでした。フォークグループ「シュリークス」の一員として活躍していた彼女が、ソロデビューすることになって、クラウンレコードに移籍してきたんです。僕がプロデュースを担当することになって、彼女と色々と話をしたんですが、彼女はどちらかと言うと女性的というよりも、中性的なイメージを受けましたね」。
クラウンレコードで、イルカの担当プロデューサーを務めた佐藤さんは、当時をこう振り返ります。
1950年12月、ジャズバンド「保坂俊雄とエマニアーズ」のバンマスを務めていた、サックス奏者の保坂俊雄の娘として生まれた保坂としえことイルカ。イルカは、幼い頃から、父親のジャズ演奏を聴きながら育ち、やがてビートルズや60年代アメリカンポップスの虜となって、自らも音楽の道を志すようになります。1969年春、女子美術大学に進学したイルカは、フォークソング同好会に入部。そして、音楽活動を通じて知り合ったフォークソンググループ「シュリークス」のメンバー神部和夫に誘われて、1971年にシュリークスに参加します。
「「シュリークス」は、1969年に、当時、早稲田大学フォーク・ソング・クラブのメンバーだった神部和夫と山田パンダこと山田嗣人、そして嘉屋泰雄の三人が結成したんです。結成1年ほどで嘉屋が脱退し、代わりに、同じフォークソンググループ「ザ・リガニーズ」の所太郎が加入し、その1年後の1971年に、イルカが加入して4人組となったんです」。
1971年4月、シュリークスは4人組となって初のシングル「君の生まれた朝」をリリースします。ところが、その直後、音楽性の違いから山田パンダと所太郎の二人がシュリークスから脱退。残されたイルカは、神部和夫と二人で、そのまま活動を続けることとなります。
1972年12月、シュリークスはイルカが参加して4枚目となるシングル「私は好奇心の強い女」をリリースします。しかし、この頃から神部和夫は、シンガーよりもプロデュース業に興味を持ち始め、イルカをソロシンガーとしてデビューさせることを考え始めます。
こうして、翌1974年2月、シュリークスはラストアルバム『イルカのうた』をリリースした後、解散。イルカは、ソロデビューすることが決まります。
「イルカのソロデビューが決まって、彼女と神部、そして僕は、彼女にいったいどんな歌を歌ってもらうかを考えたんです。そして、彼女の特長でもあるハスキーな歌声を活かすために、男性が作った曲を歌わす方がいいだろうという結論に辿り着いたんです。そこで、僕が担当し、イルカ自身もシュリークス時代にライブで何度も同じステージ立って仲良くなっていた、南こうせつとかぐや姫のメンバーの伊勢正三に曲を作ってもらうようにお願いしたんです」。
佐藤さんは、イルカのソロデビューについてこう振り返ります。
こうして、1974年10月、イルカは伊勢正三が作った曲「あの頃のぼくは」でソロデビューを果たします。
1974年10月、イルカがリリースした1stシングル「あの頃のぼくは」。
「デビューシングルをリリースして、もう一枚のシングルと1stアルバムを発売した後、事務所のスタッフが、次はシングルヒット曲を出したい、と言いだしたんです。そこで、僕らスタッフは、ヒット曲を狙うためには、ラブソングを歌っていくしかないと考え、候補曲の中から見つけた曲が、前の年の1974年にかぐや姫が発売したアルバム『三階建の詩』に収められていた、伊勢正三が作ったこの曲だったんです」。
佐藤さんがプロデュースを手掛け、1974年3月に発売された、かぐや姫のアルバム『三階建の詩』に収められていたこの曲は、同じくアルバムに収められていた「赤ちょうちん」や「22才の別れ」に続いて人気を集めていました。
「もともとこの曲は、大分県津久見市出身の伊勢正三自身が、高校時代に、大分市内にあった学校から、津久見市の自宅に戻る時の列車に乗る情景をモチーフに、歌詞の舞台を東京に置き換えて作った曲なんです。
伊勢正三が、かぐや姫解散後に、ユニット「風」を結成し、1stシングルとして「22才の別れ」を歌うことを決めたので、タイミングも良かったんですね。
ただ、イルカに、この歌を歌うように薦めた時、彼女は、既にかぐや姫の歌として音楽ファンから認められていたこの曲を、恐れ多くて自分は歌うことができない、と初めは戸惑っていたんです。しかし、その事を知った伊勢正三が、イルカに、自分の歌だと思って気楽に歌ってごらん、と声をかけたんです」。
「僕自身も、かぐや姫のイメージを消すことを考えて、この曲のアレンジを松任谷正隆さんにお願いしたんです。松任谷さんとは、音楽ユニット「ティン・パン・アレー」がクラウンレコードに在籍していたこともあって、僕とは旧知の仲だったんです。
当時は、それまでのフォークミュージックが、ニューミュージックと呼ばれるようになり始めた、ある意味音楽の転換期でもあったので、松任谷さんも喜んで、曲のアレンジを引きうけてくれました。
彼は、2パターンアレンジを用意してくれ、その内の1パターン目がピアノのイントロから始まる今のアレンジなんです。曲の頭を聴いた瞬間、これだ!と思った僕は、2パターン目のアレンジは聴かずに、直ぐに決めたんです」。
こうして1975年11月、イルカ3枚目のシングル「なごり雪」はリリースされるのでした。
1975年11月にリリースされた、イルカ3枚目のシングル「なごり雪」は、セールスチャート最高位4位、約55万枚の売上を記録するヒット曲となります。
「伊勢正三が生みだし、かぐや姫のヒット曲となっていた曲が、松任谷正隆のアレンジで生まれ変わり、イルカが歌って、これもヒットした。曲を作った伊勢も、イルカが歌ってヒットした事についてとても喜んでくれたんです。
イルカにとっても、ソロシンガーとしての世界を切り拓く大きなキッカケとなった歌として、今も大切に歌い続けているんです」。
佐藤さんは、最後にこう語ってくれました。
彼女がソロシンガーとして音楽の世界に旅立った、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.キャント・バイ・ミー・ラヴ/ザ・ビートルズ
M2.私は好奇心の強い女/シュリークス
M3.あの頃のぼくは/イルカ
M4.なごり雪/イルカ
176回目の今日お届けしたのは、「スピッツ/君が思い出になる前に」でした
1986年春、東京造形大学に入学した草野マサムネは、共通の知人を介して知り合った田村明浩と音楽的な志向が一致し、もうひとりドラマーを加えて三人組のパンクバンド「チーターズ」を結成します。
チーターズは、水前寺清子の「365歩のマーチ」をパンクアレンジした曲や、草野が作ったオリジナル曲を中心に演奏。その後チーターズは、バンド名を「ザ・スピッツ」と改めますが、翌1987年春に、草野マサムネが武蔵野美術大学に移ると同時に自然消滅します。
しかし、その年の夏、草野は田村と再びバンドを結成することを決意。田村の幼馴染で、文化服飾学院に通っていたギタリストの三輪テツヤと、同じく文化服飾学院のフォークソング部に在籍していたドラマーの崎山龍男の二人が、新たにバンドに加わります。
草野と田村が新たに作った4人組バンドは、「ザ・スピッツ」から「ザ」を取って「スピッツ」と名付けられ、当時彼らが憧れていたザ・ブルーハーツも出演していた、名門ライブハウス「新宿ロフト」のステージに立つことを目標に、都内のライブハウスを中心に活動をスタート。バンド結成から約2年が経過した、1989年7月、スピッツは300人のオーディエンスを前に、念願の新宿ロフトのステージに立つことになります。
翌1990年3月、スピッツはインディーズレーベルからCD『ヒバリのこころ』をリリース。その音楽性は、音楽専門誌を中心に高い評価を集め、この年の夏に、音楽事務所「ロード&スカイ」とレコード会社「ポリドール」と契約。翌1991年3月に、1stシングル「ヒバリのこころ」と、1アルバム『スピッツ』を同時リリースするのでした。
草野マサムネは、デビュー当時について、デビュー20周年を記念した書き下ろし本『旅の途中』の中で、次のように語っています。
「デビューアルバムが発売された時、ほとんど反響は無かったんですが、僕は、事務所やレコード会社には悪いけど、こんなものなのかな、と思っていたんです。当時、ヒットチャートをにぎわせていたのは、CHAGE&ASKAやドリームズ・カム・トゥルーで、チャートにランクインしていたロックバンドはジュン・スカイ・ウォーカーズぐらい。スピッツの音楽と、あの頃のヒットソングとはあまりにも音楽の傾向が違い過ぎていたんです」。
スピッツは、ビートパンクを軸に、アコースティックサウンドを加えた自分達の音楽が、売れ線の音楽とはズレていたことを感じてはいたものの、あくまで自分達の音楽スタイルを貫き通し続け、11月に2ndアルバム『名前をつけてやる』を、翌1992年4月にミニ・アルバム『オーロラになれなかった人のために』をリリースします。
しかし、CDをリリースする度に売上が下がっていくという不甲斐ない結果に、3枚目のアルバム『惑星のかけら』をリリースした、1992年9月頃から、草野マサムネは、彼らを支えていたスタッフに対する申し訳なさを覚えるようになります。
危機感から、デビュー以来、初めて、セールスチャートを真剣にみた草野マサムネは、ある一つの答えを導き出します。それは、ロックを聴かないような人でも、スピッツの曲を楽しんで聴けるような"ポップ"な曲を作るということでした。
こうして、1993年春、スピッツは、レコーディングプロデューサーに、ユニコーンやプリンセス・プリンセスを手掛けていた笹路正徳さんを迎えて、アルバム作りをスタート。
7月に、アルバムからの先行シングルとして「裸のままで」をリリースするのでした。
1993年7月にリリースされた、スピッツ6枚目のシングル「裸のままで」。
笹路正徳をプロデューサーに迎えて作ったシングル「裸のままで」は、セールスチャートにランクインこそしなかったものの、スピッツの音楽がそれまでのロック志向からポップス志向へと転換する大きなキッカケとなります。
さらに9月に、笹路正徳がプロデュースを手掛けた4枚目のアルバム『Crispy!』をリリース。
草野マサムネの清涼感溢れるボーカルに、シンセサイザーとホーンを大々的に取り入れたポップな仕上がりとなったアルバム『Crispy!』は、スピッツにとって初めてアルバムチャートにランクインし、最高位27位を記録、関係者はもちろん、スピッツのメンバー自身も少しずつ確かな手応えを感じるようになります。
翌10月、スピッツはこのアルバム『Crispy!』に収録していた曲を、7枚目のシングルとしてリリースすることを決めます。
「この曲は、シングル「裸のままで」とほぼ同じ時期に作った曲です。スピッツ本来のひねくれた感じが一切ない曲で、歌詞の内容もストレートで分かりやすく、曲を作った自分でも作りすぎたんじゃないかというぐらい、ホンネを隠して作った曲なんです」。
曲を作った当時について、書き下ろし本『旅の途中』の中で草野マサムネはこう振り返っています。
こうして、1993年10月に、スピッツ7枚目のシングル「君が思い出になる前に」はリリースされるのでした。
1993年10月にリリースされた、スピッツ7枚目のシングル「君が思い出になる前に」は、彼らにとって初めてセールスチャートにランクインし、最高位33位を記録、約12万枚を売上げます。
「初めてチャートにランクインし、いざ入ってみると嬉しいことは嬉しいけど、複雑な気持ちになったのも事実です。やっぱりこういった曲が売れるんだなということが、改めて分かった曲なんです」。
草野マサムネは、書き下ろし本『旅の途中』の中でこの曲についてこう振り返っています。
スピッツがブレイクする礎を作った、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.人にやさしく/ザ・ブルーハーツ
M2.ヒバリのこころ/スピッツ
M3.裸のままで/スピッツ
M4.君が思い出になる前に/スピッツ
175回目の今日お届けしたのは、「スキマスイッチ/冬の口笛」でした
1978年2月、愛知県名古屋市に生まれた常田真太郎と、同じ年の5月に愛知県東海市に生まれた大橋卓弥の二人。大橋は、幼い頃に、友達の家に電話をかけた際に流れたビートルズの「イエスタディ」を聴いたことをキッカケに、ビートルズに夢中になっていきます。もともと、クラシックピアノを習っていた大橋ですが、中学二年の時に、自分よりピアノを上手い人を見たことをキッカケにピアノを諦め、その後は、友人達とバンドを結成。高校を卒業した大橋は、バンドごと上京しますが、しばらくしてバンドは自然消滅し、大橋は自ら曲を作るようになります。
一方の常田は、高校時代、文化祭で組んだバンドから音楽活動をスタートし、卒業後に上京して専門学校に進学。在学中は、複数のバンドでキーボードプレーヤーとして活動したり、インディーズレコードのレコーディング・エンジニアとして、楽曲のアレンジ経験を積んでいきます。
そして1999年のある日。常田と大橋は運命の出会いを果たすこととなります。
「友人に誘われて観に行ったライブで、ピアノを弾いていたのが常田でした。正直、上手くなく、余り良い印象を持たなかったんです。後に本人から聞いた話では、当時、彼はピアノを弾き始めたばかりだったらしいんです」。
大橋卓弥は、常田真太郎との初めて出会った時の印象について、こう振り返ります。
しかし、その後、話を交わす内に、常田のアレンジの才能に魅かれた大橋は、自分の曲のアレンジを常田に依頼。これをキッカケに二人は、一緒に活動をスタートし、11月にユニット「スキマスイッチ」を結成。翌2000年、赤坂BLIZで行われたオーディションイベントに出演したスキマスイッチは、その音楽性を評価され、音楽事務所「オフィスオーガスタ」と契約を結ぶことになります。
その後、スキマスイッチは、楽曲の創作活動をしながら、新宿や渋谷を拠点にライブ活動をスタート。2002年8月には、千葉マリンスタジアムで行われた野外ライブイベント「AUGUSTA CAMP2002」のサブステージに出演し、およそ3万人の前で歌を披露します。親しみのあるメロディと、大橋の温かく聴く人を包み込むような独特の歌声は、会場を訪れたオーディエンスたちを魅了。スキマスイッチという、
一風変わった名前のユニットのうわさは、口コミで広がっていきます。
そんな中、スキマスイッチは、翌年の2003年8月に、1stシングル「view」をリリースするのでした。
2003年7月、スキマスイッチは、所属事務所「オフィスオーガスタ」が立ちあげたレーベル「オーガスタレコード」の第1弾新人アーティストとして、シングル「view」をリリースします。
「1stシングルをリリースして、まずは、やっとスタートラインに立った、と思いました。事務所からはデビューに関する話を詳しく説明されないままに「view」のレコーディングに臨んでいたので、正直自分達がデビューしたことに対して、余り実感は湧きませんでした」。
メンバーの常田真太郎は、当時についてこう振り返ります。
しかし、前年の「AUGUSTA CAMP2002」でのライブパフォーマンスをキッカケに、その音楽性を多くの人達から高く評価され、注目を集めていたスキマスイッチの1stシングル「view」は、全国の30ものFM局でパワープレイを獲得します。
さらに9月に発売したミニアルバム『君の話』が、セールスチャート最高位20位、約2万枚のセールスを記録したスキマスイッチは、翌2004年3月に、後に彼らの代表曲となる2ndシングルをリリースします。
「僕達が歌詞を書く上で一番大切にしているのは、等身大という言葉です。自分達に似合わない言葉は使わない、一つの曲でも裏テーマを作って、必ず聴く人それぞれの受取方が出来るように心掛けています。この曲を作る時も、僕と常田は二人とも、女性の気持ちが知りたくて、お互いの姉や妹、そして女友達に電話で話を聞いて、それを参考にして歌詞を書いたんです」。
2004年3月、スキマスイッチがリリースした2ndシングル「奏」は、発売前に全国のラジオ局や有線放送で流れると、リクエストが殺到し、最高位こそ22位だったものの、約9ヵ月間もチャートにランクインし続けるロングヒット曲となります。
じわりじわりとファン層を広げていくスキマスイッチは、6月に3rdシングル「ふれて未来」と、1stアルバム『夏雲ノイズ』を連続リリース。特に、デビューから約1年の集大成となったアルバム『夏雲ノイズ』は、チャート初登場2位を記録します。
そして、初めての全国ツアーをスタートしたスキマスイッチは、その最中に、4枚目のシングルをリリースすることを決めます。
「この曲は、僕がその時作りたかったミディアムポップス感を重視して、曲をイメージしたんです。
そして、その曲のベースを軸に、大橋と曲を煮詰めていったんです。彼は、最初デモを聴いた段階では、地味だねって言ってたんです」
当時を、常田真太郎はこう振り返ります。
その後も、常田真太郎と大橋卓弥の二人は何度も何度も議論を積み重ねて、曲を完成させ、冬が始まる直前の10月に曲は完成します。
「曲が完成した瞬間、自分も常田も納得したつもりだったけど、実は僕は大丈夫なんだろうか、という不安な気持ちもあったんです。しかし、曲を何度も繰り返し聴く間に大好きな曲になっていきました」。
こうして、スキマスイッチの4枚目のシングル「冬の口笛」は、冬が始まる11月にリリースされるのでした。
2004年11月にリリースされた、スキマスイッチの4枚目のシングル「冬の口笛」は、セールスチャート最高位6位を記録。彼らにとって、初めてセールスチャートTOP10にランクインするヒット曲となります。
「改めてこの曲を聴き直してみると、当時考えた、入るだけの音色や楽器の音がたくさん鳴り響いて、今のスキマスイッチでは作らないような曲になっています。アレンジ的には甘いけど、スキマスイッチとしての個性を感じられる曲に仕上がったことが、聴く人達に受け入れてもらえた理由ではないでしょうか」。メンバーの常田さんは、この曲に関してこう振り返っています。
また大橋さんは、「スキマスイッチの曲の中では珍しい、季節をテーマにした曲だし、自分達の音楽の幅を広げるキッカケにもなった曲なので、忘れられない曲なんです」と話してくれました。
不安の中から、彼ららしさの幅を広げていった、J-POP、冬の名曲が生みだした瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.イエスタディ/ザ・ビートルズ
M2.view/スキマスイッチ
M3.奏/スキマスイッチ
M4.冬の口笛/スキマスイッチ
174回目の今日お届けしたのは、「Kiroro/冬のうた」でした
「僕が、当時、沖縄の専門学校生だった金城綾乃と、長崎の短大生だった玉城千春に初めて会ったのは、1997年の夏のことでした。東京・青山のビクタースタジオにやって来た二人は、東京の渋谷や原宿にいる、ふだん見慣れた女の子とは違う、明るさと元気さが表情に滲み出た、いかにも沖縄の女の子という感じだったんです。実際に会う直前に、彼女達が作った、インディーズ時代の曲やデモ曲を数曲聴いたんですが、強く印象に残っていたのは玉城千春の声でした。声に力があるというか、素直で伸びのあるボーカルがとても魅力的でした」。
Kiroroのデビュー前から3年間、アーティスト担当を務めていた、ビクターエンタテインメントの蘇武さんは、当時についてこう振り返ります。
共に1977年、沖縄県中頭郡読谷村に生まれた金城と玉城の二人。
「二人とも、小さい頃から沖縄に古くから伝わる民謡や流行歌、祭り歌などいろんな歌に囲まれて育ち、いつも気が付いたら、歌を口ずさんでいたそうです。玉城千春は、中学生の頃からドリームズ・カム・トゥルーに夢中になり、ボーカルの吉田美和さんに憧れていたそうですよ」。
地元の読谷高校に進学した二人が、運命的な出会いを果たすのは、高校二年になった1995年のある日、放課後の音楽室でのことでした。玉城が、自分で作った曲を、音楽室でひとりで歌っていたところに、金城がやってきて、遊び半分にピアノで伴奏をつけはじめます。すっかり意気投合した二人は、
ポップデュオ「Kiroro」を結成します。
翌年、1996年11月、Kiroroの二人は、沖縄のインディーズレーベルから、1枚のシングルをリリースします。
「当時、二人がお世話になっていた沖縄・北谷町のレンタルスタジオのオーナーが、彼女達に声をかけて沖縄限定発売でCDを作ったんです。これが沖縄のラジオ局や有線放送で流されると、リクエストが殺到して話題になり、沖縄だけで約1万枚近くのセールスを記録したんです。その噂を聞きつけたビクターの九州地区担当新人発掘スタッフが、二人に直接会ってメジャーデビューの話を進めて、メジャー契約を結んだんです」。
こうして、Kiroroの二人は、インディーズ1stシングルでもあった「長い間」を、1998年1月に、改めてメジャー1stシングルとしてリリースするのでした。
「メジャー1stシングルは、Kiroroにとって馴染み深く、彼女達の歌の特徴がまとまっていた曲「長い間」で、すんなりと決まりました。僕らスタッフは、Kiroro二人の素直な感性をそのまま薄めずに形にすることを考えて、玉城千春のボーカルと、金城綾乃が弾く優しいピアノのメロディラインが際立つように、曲のアレンジもできるだけシンプルにすることを心掛けたんです。」
蘇武さんを始めとしたスタッフは、Kiroroの声と曲を聴いてさえもらえれば、きっとKiroroの良さが多くの人達に伝わると考え、ラジオや有線放送、街頭ビジョンなど、音楽が流れるありとあらゆるメディアに対して積極的にプロモーションを展開。その結果、Kiroroの1stシングル「長い間」は、セールスチャート最高位1位、約120万枚の売上を記録し、約1年間に渡ってチャートにランクインし続けるロングヒット曲となります。
続いてKiroroは、6月にインディーズ時代に作った曲「未来へ」を、2ndシングルとしてリリースするのでした。
1stシングル「長い間」がセールスチャートにランクインし続ける中、6月にリリースされたKiroroの2ndシングル「未来へ」も、セールスチャート最高位4位、約59万枚のヒットを記録。10月にリリースした、1stアルバム『長い間~キロロの森~』も、セールスチャート1位を獲得、約115万枚のセールスを記録します。
当時ダンス音楽が主流となっていたJ-POPの中で、Kiroroの曲は、心休まるオアシス的な音楽として、蘇武さん達の狙い通りにJ-POPの世界にゆっくりと、そして、しっかりと浸透していきます。
そして、11月に発売を予定していた3rdシングルに、Kiroroがメジャーデビュー直前に作った曲がリリースされることが決まります。
「この曲は、決して雪が降ることが無い沖縄に生まれた玉城千春が、小学生の時に、地域交流で北海道の池田町を訪れた時のイメージを素に作られました。彼女は、真っ白な雪が、しんしんと降り積もっていく時の様子が、幻想的で、頭からずっと離れなかったそうです」。
「曲自体は、デビュー前には完成していて、本当は、1stシングル「長い間」と両A面にして、実際のデビューの2ヵ月前の、1997年11月にリリースすることを考えていました。当時は、クリスマスの時期に、TVでスペシャルドラマが放送されていた時代で、僕らはその主題歌としてこの曲を使ってもらえないだろうかと考えていたんです。残念ながらその想いは実現せず、この曲を「長い間」と両A面扱いでリリースすることは見送りとなって、その影響で、Kiroroのデビューも2ヵ月遅れたんです」。
こうして、当初の発売予定から1年後の1998年11月に、この曲「冬のうた」はKiroroの3rdシングルとしてリリースされるのでした。
1998年11月にリリースされた、Kiroroの3rdシングル「冬のうた」。
「冬と言えば、山下達郎さんや広瀬香美さんなど、季節の訪れと共に必ず流れる名曲がありますよね。この曲を発売した当時、Kiroroの二人も冗談半分に、この曲も、冬になると必ず流れる曲になればいいねって話をしていたんです。この曲を、クリスマス・スペシャルドラマのタイアップ曲にすることはできなかったけど、曲を発売してから3年後の2001年に、お菓子メーカーの冬季限定チョコレートのCMソングに起用してもらい、彼女達の願いが少しだけ、現実になった気がします。
まだまだ名曲には及びませんが、冬の曲として取り上げてもらう機会が増えれば増えるほど、この曲はKiroroにとって大切な曲へと成長し続けていくんです」。最後に、蘇武さんは、こう語ってくれました。
深々と降り積もる雪のように、ゆっくりと人の心に響き渡っていく、J-POPの冬の名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.笑顔の行方/ドリームズ・カム・トゥルー
M2.長い間/Kiroro
M3.未来へ/Kiroro
M4.冬のうた/Kiroro
173回目の今日お届けしたのは、「Do As Infinity/深い森」でした
「中学一年の頃、『全米TOP40』を観て、洋楽を聴き始めた僕は、友達の影響でメタル音楽にはまっていったんです。中2の冬に、近くの高校の文化祭で、高校生たちが、キッスやナイトレンジャーをいとも簡単にコピーしている姿を見て、"俺にも出来るかも"と思って、直ぐに貯金をおろしてフェルナンデスのギターを買いました」。
Do As Infinityのメンバー大渡亮さんは、音楽人生の始まりについてこう振り返ります。
1971年4月、神奈川県横浜市に生まれた大渡亮は、中学時代に、同級生達とバンドを結成、歌を歌うことが好きだった彼は、ボーカル兼ギタリストを担当します。1990年春、高校を卒業した大渡は、プロのギタリストになる夢を見て、音楽専門学校のギター科に進学します。
「中学、高校とバンドを続けていくうちに、根拠のない自信というか、"自分は上手い"と思い込んでしまったんですね。"俺は絶対プロになる"と思っていたんですが、親からは進学を勧められ、"同じ勉強するなら"という思いで、音楽専門学校に進学したんです」。
1992年春、大渡は専門学校を卒業後に、仲間達と3人組バンド「Pee-Ka-Boo」を結成しメジャーデビューを果たします。しかし、「Pee-Ka-Boo」はほどなく解散。大渡は、アルバイト生活をしながら、先輩ミュージシャンのサポートギタリストなどをして音楽活動を続けていきます。
1998年、知人を通してエイベックスのスタッフを紹介された大渡は、それまでhitomiや浜崎あゆみらへ楽曲提供をしていたプログラマー兼ギタリストの長尾大、そしてオーディションで選ばれたボーカルの伴都美子の三人で、ロックバンド「Do As Infinity」を結成。1999年9月、1stシングル「Tangerine Dream」をリリースします。
1999年9月にリリースした、Do As Infinityの1stシングル「Tangerine Dream」。
「"解散"という同じ失敗だけは繰り返したくなかった僕は、デビュー直前、Do As Infinityが生みだす音楽の反応を確かめたくて、スタッフに路上ライブを行うことを提案したんです。東京・渋谷ハチ公前を皮切りに、約3ヵ月間、全国各地で99回の路上ライブを行いました。路上ライブを始めた頃は、立ち止まる人達も少なかったけど、回数を重ねる毎に少しずつ人も増え始め、手ごたえを感じることができたし、"何が起きてもへこたれない"という精神力も鍛えることができたんです」。
Do As Infinityのメンバー、大渡亮さんは、当時についてこう振り返ります。
Do As Infinityは、路上ライブを始めて約3ヵ月がたった1999年11月、通算100回目となる記念のライブを渋谷公会堂で開催。翌12月には、2ndシングル「Heart」をリリースします。
「最初の頃は、聴き人にアコースティックギターサウンドが心地良く伝わる音楽を目指していたんですが、何かもう一つ工夫が必要だと感じた僕らは、次に予定していた3rdシングルのサウンドプロデューサーに、椎名林檎のアレンジャーとして活躍し始めていた亀田誠治さんを迎えて、ロックとPOPSを融合した音楽を前面に出すことにしたんです」。
2000年1月に発売された、Do As Infinityの3rdシングル「Oasis」は、セールスチャート最高位25位、8週続けてチャートにランクインという結果を残します。
「シングル「Oasis」で、ロックとPOPSが融合した、聴く人の耳に馴染みやすいDo As Infinityならではの音楽の方向性が見え始め、ひとつの結果を残したことで、メジャーの世界でやっていけるという自信が、メンバー間にも少しずつ湧いてきました」。大渡さんは当時をこう振り返ります。
その後もDo As Infinityは、レコーディングの合間をぬって、精力的に全国各地でのイベントにも出演。ソウル、ハードロック、フォークロック、そして歌謡曲等のエッセンスが詰め込まれたDo As Infinityの音楽は、多くの人達から親しみを持って受け入れられ、2001年2月に発売した2ndアルバム『NEW WORLD』は、ついにセールスチャート1位を獲得します。
勢いに乗ったDo As Infinityは、2001年4月リリースの8枚目のシングル「遠くまで」を皮切りに、3ヵ月連続でシングルをリリース。その締めくくりに選ばれたのが、「深い森」でした。
「この曲は、デビュー直後に作った曲なんです。アコーステックサウンドで、ミディアムバラード調に仕上げ、曲が完成した時"こんな素晴らしい曲を、いずれ演奏する日がやってくるのか"と考えたら、作った自分達も身震いするほど、興奮したのを覚えています」。
こうして、Do As Infinity3ヵ月連続シングルリリースのラストを飾る、10枚目のシングル「深い森」は、2001年6月にリリースされるのでした。
2001年6月にリリースされた、シングル「深い森」は、日本テレビ系アニメ「犬夜叉」のエンディングテーマ曲として起用され、セールスチャート最高位5位を記録します。
「この曲はDo As Infinity歴代シングル24作品の中で、売上No1の記録を残しているんですが、
曲を作ってから約2年余りの間眠らされ、僕らメンバーの知らないところで発売が決定し、いつの間にかリリースされていたとうのが本音なんです。とにかく、当時の僕らは、レコーディング、ライブ、連日のプロモーションが続き、疲れ果てていましたから。ただ、この曲自体は、僕らが目指していた、ロックとPOPSの融合がピタリとはまった曲ですね。個人的にも、好きな曲だし、こんないい曲を演奏できるなんて誇りに思います」。
最後に、Do As Infinityのメンバー大渡亮さんは、こう語ってくれました。
Do As Infinityの存在意義を示すことが出来た、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.ロックンロール・オールナイト/キッス
M2.Tangerine Dream/Do As Infinity
M3.Oasis/Do As Infinity
M4.深い森/Do As Infinity
172回目の今日お届けしたのは、「かりゆし58/オワリはじまり」でした
「僕が彼らに初めて会ったのは、バンド結成から半年余り経った2005年秋でした。彼らは、自分達で作ったデモテープを、僕が居る音楽事務所に送ってきたんです。デモテープを聴いて、彼らに興味を持った僕は、沖縄に他のバンドのライブを観に行く機会があったので、そのタイミングで、彼らのライブを、沖縄で観たんです。ただ、曲は良かったけど、演奏、MCはいまひとつだったんです」。
かりゆし58のプロデューサーを務めている後藤さんは、彼らに初めて出会った時の印象をこう振り返ります。
1981年7月、沖縄県島尻郡八重瀬町に生まれた前川真悟、同じ年の8月に糸満市に生まれた新屋行裕と中村洋貴の3人は、1999年、彼らが高校三年の時に、新屋と中村が通っていた高校の文化祭で初めて出会います。
「新屋と中村は、保育園時代からの同級生で、高校時代一緒にバンドを組んでいたんです。高校最後の文化祭のステージに、二人が組んでいたバンドが出演した時、文化祭を観に来ていた、当時、他の高校に通っていた前川が、突然ステージに上がり、バンドメンバーのベースを奪って、アンコール曲を無理矢理、演奏してしまったんだそうです。わけのわからない奴に、高校最後のステージを台無しにされてしまった新屋と中村は、当時、前川に激怒したと聞いています。」
このとんでもない出会いから5年が経過した2005年春、前川、新屋、中村の三人は、同級生達が集まった飲み会の席で、運命の再会を果たします。
「高校卒業後、トラックの運転手をしていた前川は、ラジオから流れてくる吉田拓郎やザ・ブルーハーツなど、メッセージ性を持った曲に魅かれ、自分も聴く人にストレートな想いが伝わる歌を歌いたいと思うようになっていたそうです。そこで、偶然再会した新屋と中村に声を掛け、まずは5年前の無礼を詫びて、改めて一緒にバンドを組むことを提案したんですが、新屋と中村は、初めはバンドを組むことに躊躇したそうです。ただ、前川が余りにも熱心に声を掛けてくるんで、ついに、口説き落とされ、バンドを結成したんです」。
こうして、2005年春、前川、新屋、中村の3人は、ロックバンド「かりゆし58」を結成します。
「「かりゆし58」を結成した彼らは、まずは、デモテープを作って、それをあらゆる音楽事務所に送ったんですが、最初に声を掛けたのが、僕だったんです」。
後藤さんのアドバイスの下、新たに楽曲作りに励んだかりゆし58は、2006年2月にミニアルバム『恋人よ』をリリースします。しかしミニアルバム『恋人よ』の売上枚数は、約700枚程度にとどまります。
「事務所としては、"CDが売れなきゃ、次のアルバムはリリースできない"ということになって、もう1枚だけ、シングルを出すことが許されたんです」。
こうして、かりゆし58の運命が託されたシングル「アンマー」は、2006年7月にリリースされるのでした。
2006年7月に、沖縄地区限定でリリースされた、かりゆし58の1stシングル「アンマー」。
シングル「アンマー」は、発売当初は、僅か3,000枚のプレスでしたが、地元FM沖縄を中心に頻繁にオンエアされると注文が殺到、8月に、急遽PVも作ってTVの音楽番組で流されると、その勢いは全国へと拡がっていき、シングル「アンマー」は、その年2006年の日本有線放送大賞新人賞を受賞します。
「"CDを発売できる最後のチャンスになるかもしれない"と考えた前川が、母親孝行の意味を込めて作ったのがこの曲なんです。この、前川の素直で、音楽に対する一途な想いが、曲を聴いた人の心を掴んだと思います」。プロデューサーの後藤さんは、当時をこう振返ります。
また、後藤さんは、当時、セールスの悪さに落胆していたかりゆし58のメンバーに、"せっかくCDを発売したんだから、例え契約が終わるとしても、何か足跡を残しておこうよ"と提案し、同じ事務所に所属する「ガガガSP」の九州5ヵ所ツアーに、彼らを同行させます。
「ガガガSPのツアーに同行する中で、ガガガSPのリーダー、コザック前田の音楽に対するどん欲な姿勢を間近に見た三人は、自分達の音楽に対する考えの甘さに気が付き、それ以来、三人はひたむきに取り組むようになったんです」。
沖縄音階にロック、レゲエなどのサウンド要素を加えた独創性溢れるメロディに、前川が書くストレートな歌詞で、かりゆし58のは、個性派のバンドとして、人気を集めていきます。
2008年には、ギタリストの宮平直樹が新メンバーに加入。2009年2月には、彼らにとって、初のドラマタイアップとなる6枚目のシングル「さよなら」をリリースするのでした。
2009年2月にリリースした、かりゆし58の6枚目のシングル「さよなら」は、日本テレビ系ドラマ『銭ゲバ』の主題歌に起用され、セールスチャート最高位10位を記録します。
「前川が書く、シンプルだけど聴く人の心を捉える歌詞は、彼ならではの感性によるものだと僕は思っています。この曲も、ドラマの主題歌というタイアップが付いたけど、曲の完成度の高さが評価されヒットに繋がったんだと思います」。
その後、4月から全国47都道府県58ヵ所を回るライブツアーを行ったかりゆし58は、翌2010年2月に発売を予定していた9枚目のシングル「雨のち晴れ」のカップリング曲として、前川がデビュー直後に歌っていたある曲を収めることを決めます。
「この曲は、デビュー直後に、ガガガSPとの九州ライブツアーの時、サビの4小節をライブのラストで1回か2回だけ歌ったんです。僕は"いい歌詞だなぁ"と思っていたんですが、その後、理由は不明なんですが前川はこの曲を歌うことを封印するんです。そして、あれから4年たって、9枚目のシングル候補曲として、前川はこの曲を作ってきたんですが、次に作った「雨のち晴れ」が、さまぁ~ず初主演映画『かずら』の主題歌になることが決まって、この曲は急遽カップリング曲に変更になったんです」。
こうして、この曲「オワリはじまり」は、2010年2月、かりゆし58の9枚目のシングル「雨のち晴れ」のカップリング曲としてリリースされるのでした。
2010年2月、かりゆし58 の9枚目のSg「雨のち晴れ」のカップリング曲として発売された「オワリはじまり」。曲の発売から3ヵ月が経った5月に、日本テレビ系バラエティ番組『行列のできる法律相談所』の中で流され、視聴者から大きな反響を集め注目されます。
「発売直後、曲を聴いた「行列のできる法律相談所」の番組プロデューサーが、番組司会者の島田紳助さんに曲を紹介し、紳助さんも"いい曲だね"と褒めてくれたんです。それで、番組で紹介したドキュメントの中でこの曲を使ってもらったんですが、ドキュメントの内容と歌詞の内容がオーバーラップしたこともあり、視聴者から曲に対して数多くの問合せが殺到して、後日、メンバーも番組に出演することになったんです。曲のプロモーションには色んなやり方がありますが、聴く人の心を掴む歌詞、そして耳に馴染むメロディを作っていれば、きちんと聴く人には伝わることが改めて分かったんです。曲を作った前川も、改めて曲を作る大切さが分かった曲だと言っています」。最後に、後藤さんはこう語ってくれました。
飾らない、ストレートな想いが生みだした、J-POPの名曲が生まれた瞬間でした。
今日OAした曲目
M1.人にやさしく/ザ・ブルーハーツ
M2.アンマー/かりゆし58
M3.さよなら/かりゆし58
M4.オワリはじまり/かりゆし58
171回目の今日お届けしたのは、「くるり/ばらの花」でした
1976年4月、京都府京都市で生まれた岸田繁と、翌1977年2月に京都府亀岡市に生まれた佐藤征史の二人は、1994年、お互いが通っていた立命館高校の複数のバンドが、京都市内のライブハウスを貸しきって行ったイベントで、それぞれ別のバンドのメンバーとして出会い、その2ヵ月後に、同級生と後輩一人を加えた4人組バンド"毒猿ペピヲ"を結成します。翌1995年、二人は、立命館大学に進学。大学の音楽サークル「ロックコミューン」に所属しながら、毒猿ぺピヲの活動を続け、京都を中心にライブ活動を続けていきます。その後「毒猿ペピヲ」は、メンバーチェンジでドラマーの森信行が新たにバンドに加入、バンド名を"マグネッツ"と改めます。
1996年9月、マグネッツはバンド名を「くるり」と改め、アマチュアバンドコンテストに出演して優勝。さらにくるりは、オリジナル曲を収めた自主制作カセットテープ「くるりの一回転」を作って、自分達のライブ会場で販売するようになります。そのカセットテープ「くるりの一回転」を聴いたインディーズレーベル「バッドニュース」の関係者が、くるりの独創性溢れる音楽に注目して彼らにアプローチをかけます。
こうして、くるりは翌1997年11月にバッドニュースから1stアルバム『もしもし』をリリース、さらに、翌1998年5月には、2ndアルバム『ファンデリア』を発売します。
70年代の洋楽を彷彿させるような、くるりの音楽は、地元京都のみならず、音楽関係者の間でも話題となり、この年、くるりはビクターと契約。10月にメジャー1stシングル「東京」をリリースするのでした。
1998年10月にリリースされた、くるりの1stシングル「東京」は、セールスチャートこそ、最高位64位と伸び悩みましたが、「FM802」のヘビーローテーション選ばれるなど、全国のFMステーションで頻繁にOAされ、音楽ファンの間で、くるりは、一躍注目を浴びる存在となっていきます。
翌1999年4月に、くるりは、1stアルバム『さよならストレンジャー』を、翌2000年1月には2ndアルバム『図鑑』を発売します。岸田繁は当時のことを雑誌『ロッキング・オン・ジャパン』2006年8月号のインタビューの中で次のように語っています。
「1stアルバム『さよならストレンジャー』を作る時、まだ学生だった僕等はプロデューサーの言う通りに曲を作って演奏し、ほとんど何も考えることは無かったんです。しかし2ndアルバム『図鑑』を作る時は、メンバーみんな大学を卒業、活動の拠点を東京に移し音楽に専念する環境は整っていた一方で、ネガティブなエネルギーに襲われて、誰も信じられなくなっていた時期でもあるんです。自分達がどう進むべきなのか、迷っていたんでしょうね」。
不安と葛藤を抱えながらも、くるりは自分達の音楽に対する熱い思いを全てアルバム『図鑑』の制作に注ぎ込み、結果的に彼らの音楽に対する熱意は、アルバム『図鑑』を聴いた人達の心を掴みとります。バリエーションに富んだ曲が収められた2ndアルバム『図鑑』は、ファンのみならず音楽関係者の間でも話題となり、全国12ヵ所で行われた発売記念ライブツアーも大盛況に終わります。
音楽ファン、関係者からの期待が高まる中、くるりは、夏の野外フェスへの出演と前後して、次のアルバムのレコーディングをスタートさせます。そのレコーディングの中で、冗談半分に、テクノ風に仕上げてみた曲が、スタッフの中で、思いの他、好評価を得ます。
こうして、くるりが、アルバムに先駆けて、急遽シングルとしてリリースすることになったのが、
6枚目のシングル「ワンダーフォーゲル」でした。
2000年10月にリリースされた、くるり6枚目のシングル「ワンダーフォーゲル」は、当時の彼らにとっては最高位となるセールスチャート20位を記録。広島FMを始め、全国各地のFM局でも、それまで以上に大量OAされ、くるりは、音楽ファンの誰しもが注目するロックバンドとして、その名を知られるようになります。また、「ワンダーフォーゲル」は、レコーディングの合間をぬって行われた、ライブツアーでも人気を集め、彼らのライブには欠かせない定番の曲へと成長していきます。
佐久間正英のプロデュースのもと、70年代のオーソドックスなロックサウンドをベースに制作されたメジャー1stアルバム「さよならストレンジャー」。自分たちのオリジナリティを模索する中、ジム・オルークとのコラボレーションなど、オルタナティブ・ロック色の強い、挑戦的なアルバムとなったセカンドの「図鑑」。そして、音楽ファンたちが、"次のくるり"への期待を高める中リリースされた「ワンダーフォーゲル」の、それまでのくるりにはなかったポップテイスト。
常に、ファンの想像を超えていくくるりの楽曲に、驚きと、歓迎の声が交錯する中、くるりは、3rdアルバム発売直前に、当初はアルバムの中の一曲として考えていた曲を、シングルとしてリリースすることを決めます。その経緯について、雑誌『ロッキング・オン・ジャパン』2001年2月号のインタビューの中で次のように語っています。
「ポップ感溢れるメロディが先に完成し、歌詞を付ける段階で、僕の中にアルバムを作る時のテーマ"安心"という言葉が浮かんだんです。探究心が無いと安心は生まれてこない。その両方を"いかに巧くバランスとっていくのか"という事を、自分の中で巧くこの曲の詞の世界で表現することができたんです」。
こうして、くるり7枚目のシングル「ばらの花」は、2001年1月にリリースされるのでした。
2001年1月にリリースされた、くるり7枚目のシングル「ばらの花」は、前作「ワンダーフォーゲル」に続き、セールスチャート最高位20位を記録します。
「それまでは、聴く人に僕らの曲を押しつけるような雰囲気があったけど、この曲はアルバムを作っている途中から、僕らの曲を聴いてくれるそれぞれに"僕らの音楽を自